第51章(春雄)生きる理由
春雄は専門医療センターの5階、石田の研究室のドアを目の前に立っていた。
コンコンコン、と3回ノックする。中からの返事はない。春雄はドアノブを回す。鍵はかかっていなかった。
「……来たんだね、春雄君」
部屋の中は変わらず物にあふれていた。石田は奥の椅子に座っていて、春雄を見てそう言った。
「立ってください」
「……なるほどね」
石田は目を瞑ってゆっくりと立ち上がった。机の上に積まれた本がばさばさと音を立てて床に落ちて。
春雄は拳を握る。3歩助走をつけて、石田の横顔を殴り飛ばした。
石田は大きく後ろによろめく。そうして本棚にぶつかって座り込んだ。
「……っ」石田が呻く。
「ふざけるな」
「言ったろう、私は君達に殺されても文句は言えないと」
「お望み通りに」
春雄は座り込む石田に近づき、石田の胸を強く蹴った。石田の肋骨と春雄の足がぶつかり、鈍い衝撃音が響く。
石田はうずくまっていたが、声を出さずに耐えている。
「石田さん。あなたは電磁波事故に関係なく、葵を既に殺しかけていたんですよ」
「……ああ。も、申し訳ない。……それしか言えない」
石田は何とか言葉を絞り出した。
「葵は自殺していてもおかしくなかった。まあ、あなたのおかげで葵の家庭は助けられたようですから、ここまでにしますよ」
「……それも、聞いたのか」
「はい。そこまで詳しくは聞いていませんが。しかしあなたの弁明も特に聞きたくありません」
「ああ、事実は事実だ。言い訳するつもりもない」
石田はゆっくりと立ち上がると、椅子に座り直した。
「あなたのことは許せない。だが、聞きたいこともある」
「電磁波のことか?」
「そうです」
「座るといい」
春雄は石田と机を挟んだ位置にある椅子に座った。
「俺はまた、葵の声を聞いた。頭の中で響いたんだ。それに、他にもおかしなことはある。以前ここに来た時、あなたはそれを疲れやストレスからくる幻聴だと言った。本当か?」
「私は今でもそう思っている。ただ、気になる報告はいくつか上がっているよ。どうやら、あの事故の被害者の中で、不自然な感情が突発的に発生する現象があるようだ」
「つまり?」
「その報告での仮説はこうだ。電磁波を受けた者は、同じく電磁波を受けた者へ、感情を飛ばせると。そんな馬鹿げた話はない。しかし、そうとしか考えられないと言うのさ」
「……感情」
「ただ、声を聞いた、というのは春雄君からしか聞いたことがない。他人の感情がテレパシーのように物理的な距離を無視してやってくるというのも眉唾物だが……。しかしもしかするとその類なのかもしれない」
「他にもあります。これは以前ここに来た時には話しませんでしたが、時々夢を見るんです。鮮明すぎる夢を。それは過去の記憶であったり、或いは正夢だったりします。電磁波を受ける以前に、そんな夢を見たことはなかった」
「……正夢とは?」
「言葉の通りです。数ヶ月後の出来事を全くそのままに映し出しました。まるで予知夢です。そして気になるのは、とにかく鮮明で、リアルだったということ」
「……ふむ。そんな話は聞いたことがない。やはり私の意見としては、偶然似通った夢を見ただけ、ではないかと思う。時間を越えるなど、あり得るはずがない。ただ、例の電磁波が人体にもたらす影響は、正直なところ全てが判明しているわけではないのも事実。もしかしたら……」
「つまりはわからない、そういうことか」
「ああ、すまない。しかし当然最も可能性が高いのは、春雄君の意識がおかしくなってしまっている、ということだ。リアルすぎる予知夢を数ヶ月前に見ていた、という起きていないはずの記憶が、春雄君の脳の中で勝手に作り出されている、という線」
「まあ、そうでしょうね。それが妥当でしょう」
「ただ、わかったこともある。世間に発表できることではないが……」
「何でしょうか」
「おかしいと思わないか? 被害者達の多くはやたら冷静に生活している。これほど悲惨な事故にも関わらず。ヒステリーを起こしているのは被害者本人ではなく、その関係者ばかりだ」
「確かに」
「私達もこれに関して、疑問を持っていた。そして調べてみるに、どうも電磁波がホルモンの分泌に影響していたようだ」
「まさか。それこそマスコミを通して世間に発表するべきだろうが」
「駄目だ。混乱を生むべきではない。詳しくは説明しないが、ノルアドレナリンやドーパミンに関係している。それらのホルモンがある程度安定して分泌されるようになるようだ。つまり……」
「不安になりにくい?」
「そうだ。きっと春雄君も、何か思い当たることがあるだろう。結果論だが、この作用は今のところ健康的な作用なんだ。だからまだ、発表するべきではない。人格に影響するならば人権侵害になるだとか、そういう問題もあるのは事実だが」
「なるほど」
そうか。体を適度に興奮させる物質が安定して出ているのであれば、わざわざパチスロに行く必要はない。だから俺は、あの日以来パチンコ屋に足を運ぶことがなくなったのか。
「春雄君」
石田は立ち上がって、机の上へと上がった。
「何をしているのですか」
春雄は冷たいトーンでそう言った。
石田は机の上で正座をし、そうして勢いよく頭を机にこすりつけた。土下座であった。
「……私は、取り返しのつかないことをした。電磁波事故、そして、藍原葵」
「そうだな。あなたは確実に地獄へ落ちる」
「許してもらおうとなど、思ってはいない。私の責務は、事故の被害者にできる限りのサポートをすること。命を絶って、逃げてはいけないのだ」
「ああ」
「春雄君。藍原葵を、救ってくれ。私が言えることではないのはわかっている。しかし……!」
石田の顔は、春雄からは見えなかった。けれども石田の声は震えていて、明らかな涙声であった。
「言われなくとも。あなたが生きる理由がそれならば、俺の生きる理由は、葵ですから」
「……ありがとう。しかし本当はもう、藍原葵よりも君の方が……」
「俺のことはいい。電磁波を受けていないお前は、あと何十年生き延びるのか知らないが、せいぜい悔やみ続けろ。簡単に死ぬな」
「……ああ」
「それでは、失礼します。もう、ここに来ることはない。お前は必ず、お前の責務を果たせ」
春雄は立ち上がり、石田に背を向ける。
「どうか、幸せになってくれ」
「黙れ」
そう言い残し、春雄は石田の研究室を出るのだった。




