第50章(春雄)”急”
大学から歩いて10分。ちょっとした橋の下にある、小川のほとり。さらさらと水流が流れ、水と水が弾け合う音が辺りを包む。
太陽は雲に隠れ、日中にもかかわらず、どことなく寂しげな暗さが小川を覆っていた。
「春雄くんっ、これ」
葵が指差す先には葉っぱで作った人差し指ほどの小さな舟。葵の手作り舟は冬の小川をゆらりと流れる。
「すごい。葵は器用だね」
春雄は膝ほどの高さがある岩に腰掛けたまま、そう言った。
「こんなの作るの、得意なんだ。春雄くんにも教えてあげる」
群馬から戻ってもう1ヶ月は過ぎただろうか。葵は本当によく話すようになった。表情も豊かになったし、何より声のトーンが以前とまるで違う。明るいのだ。
葵は抱えていたものを少し下ろしたことで、変わったのかもしれない。いや、おそらくはこれが本来の葵なのだろう。
けれども、どことなく目の奥が暗いのは変わりない。まあ何であれ、『あの目』でなければいい。
葵とはこの1ヶ月、ひたすら一緒に過ごした。葵の部屋に泊まったり、そして俺の部屋に葵が来ることも多い。けれども、性行為をしたことはなく、どころかキスをしたことすらない。
俺は葵のことが好きで、そして葵もどうやら俺のことを好きでいてくれているようだ。俺と葵の関係は何かと問われれば、それは恋人だろう。俺達は付き合っているのかどうか、葵に確認したことはないけれど。
重要なのは、葵が輝いていること。俺がその側にいられること。ちゃんと付き合えているのかどうかなど、大したことではない。
問題があるとすれば。
「ほら、これ。この葉っぱをね……」
葵は春雄に近づき、少し屈んで春雄の手を取る。春雄の目には、葵の控えめで、しかし服の上からでもわかる胸のラインが映っていた。
葵とそういうことをしたい、そういう気持ちがないと言えば嘘になる。いや、性欲を抑えるのに必死なのだ。
葵はおそらく俺を受け入れてくれる、そうは思うのだけれど。しかし今の葵はそれを望んではいない、そんな気がする。
なぜなら、その為には乗り越えなければならないことがある。俺にはもう、時間がない。だから今日こそは。
よし。行こう。
「なあ、葵」
「ん?」
「聞いてもいいかな。葵が、あの教室で打ち明けてくれたことについて」
葵は援助交際と、そして中絶の経験がある。葵はわざわざ口に出したくはないはずだ。でも。
「……うん。わかった。春雄くんが知りたいのなら」
そう言うと、葵は春雄の隣にすとんと腰を下ろす。そして葵は続けた。
「私ね、いろんな人としたわけじゃないよ。1人だけ。でも、その人とは2回、そういうことがあったの。そして、その時に命が生まれてしまった」
「うん」
「その人は、そうだね、悪い人ではないの。未成年の私とそういうことをしたのだから、良くはないのだけれど」
ああ。わかっていたことだけれど。それに、自分から聞いたことだけれど。でも、やはり聞きたくない、そう思ってしまうのは仕方のないことだろうか。
「何か理由があった、そういうこと?」
「私ね、お父さんがいないの。今もどこかで生きてるとは思うんだけどね。その時、私と私のお母さんは大変だったんだ。だって、お父さんが家に帰って来なかったの。代わりに、お父さんの借金が」
「……そうだったんだね」
「その人はね、お母さんの知り合いだった。昔、お母さんに何やら借りがあったらしくて、それでその人が借金を全て肩代わりしてくれたの」
「なるほど」
「その後私は、その人に誘われてご飯に……。それで、そういうことがあった。でも、お母さんは何も知らない。このことを知っているのは、私と、その人と、そして」
「俺、その3人だけか」
「うん。……あ、そうだ」
葵は財布を取り出すと、1枚の名刺を春雄に渡した。
「これ。その人の名刺。何年も前のものだけどね」
「どうして、これを?」
「私、それを何枚も持っているの。その人が私に渡したから。『いつか君に大切な人ができた時、必要になるかもしれない』、そう言ってた」
春雄はその名刺に目を落とした。そこに書かれていた名前は。
なんだ。この名前。どこかで見たような。いや、待て。まさか。そんなことがあるのか。
「……葵。その人、どんな人だったか覚えてる?」
「うーん……。若く見えたけど、おじさんだったな。確か医療関係のお仕事をしていたような。あと、なんだか知らないけどミドリムシの研究がどうとか……、変わった人だった」
春雄は名刺を落とした。けれども拾う様子はない。葵は困惑した表情で春雄を見る。
春雄の脳裏に、様々な場面がフラッシュバックしていた。
『鹿もいればミドリムシもいるわけだ』
『君はあと3年だけ、生きられる』
『同じ大学だものな。そういうこともあるか』
『彼女に関わる資格は私にはない』
春雄の中にぐつぐつと暗い、そして激しい感情が育っていく。
どうすればいい。俺のこの、感情を。
「葵。言いたくなかっただろうに、話してくれてありがとう。俺、少し出かけてくる。気をつけて帰るんだよ」
「……春雄くん?」
春雄は駅へと向かって走り出す。
葵が見えなくなると、春雄は走りながらスマートフォンを取り出して電話をかけた。
『……もしもし』
「佐倉春雄です。個人的な用事で連絡しました」
『……聞いたのか』
「専門医療センターにいるのでしょうか」
『ああ』
「今から行きます。では」
そう言うと春雄は一方的に電話を切った。
石田。人間の屑め。




