第47章(春雄)夕暮れ
春雄は息を切らせて校舎の前に立っていた。
辺りは橙色の夕暮れに包まれて、さっと吹く風で木々が揺れる。傾いた太陽によって、校舎に大きな影がかかっていた。
春雄の目の前には正門。南京錠と鎖でしっかりと閉められている。
入れるわけないよな。そもそもこれ、廃校とはいえ勝手に中に入ったら不法侵入で犯罪じゃないのか。
そうだ、裏倉庫のところからなら。
春雄は塀に沿って校舎の裏へと向かった。そうして倉庫が見えると、春雄は他の場所よりも低い柵を乗り越えた。
倉庫の周りは雑草で生い茂っていて、春雄が歩く度にざっ、という音がした。
春雄は連絡口から東棟へと入り、階段を上った。
東棟3階、夢で見たあの廊下を春雄は歩く。春雄が歩く音だけが響いていた。掲示物の一切がなく、誰もいない橙色に染まった廊下。
東階段から3つ目の教室。これだ。何も書いていないけれど、ここがかつて2-Bだった教室。俺が『あの目』の葵を見た、あの教室だ。
引き戸式の扉は閉まっている。鍵はかかっているのだろうか。いや、仮にかかっていたならば、葵はここにはいない。それだけのことだ。
春雄は扉に手をかけた。
いるわけがないのに、けれどもなぜか確信している。葵はここにいる。
行こう。
春雄は扉をがらりと開けた。
教壇の奥、教室の隅。
窓は開いていて、風がすう、と入ってくる。
橙色に照らされた彼女の髪。タートルネックのニットワンピースを着て、葵はそこに座っていた。
彼女は目を瞑っていて、けれどもゆっくりと目を開ける。
そして入口に立ち尽くしている春雄へと目をやると、次第に目を見開いた。
「……うそ」
「嘘じゃないよ」
「……夢?」
「夢でもない。葵に呼ばれて来たんだ」
「呼んで、ない」
「呼んだよ」
「どうして。だって、もう充分だって、手紙に書いたの。読んでないの?」
「読んだ。だから来たんだ」
葵はゆっくりと立ち上がった。春雄は教室の中に入って、扉を閉める。
教室の中には何も無く、ただただ橙色の空間だけが広がっていた。
「私が呼んでいたとしても、あなたが読んでいたとしても、関係ない。ここにあなたがいる理由にはならない」
「そうかな」
葵は俯いて、ぐっ、と拳を握った。
「どうして私のところに来るの。私には価値なんてない。あなただって、3年しか時間がないのに」
「葵が好きだから。それに……」
葵ははっ、として、春雄を見た。
「やめて!」
「えっ」
「それ以上は、言わないで」
「わかったよ。でもね、葵」
「だから!」
「……すまない」
「私が好きって、どうしてそんなことが言えるの? 楓から聞かなかったの?」
「何を?」
葵は口をぐっと結んで、それから叫んだ。
「私は! 好きでもない男の人と寝て、お金をもらった!」
「聞いたけれど」
「それでも、って言うの?」
「ああ」
「それじゃ、教える。もういい。私は春雄くんを信頼しているし、そもそも隠していないから」
葵が息を切らせている。肩に力が入っている。普段の葵からは考えられないような。葵の声からは、怒りすら感じ取れる。
「教える? 何の話?」
「私は人を殺した。お腹の中にできた生命を。世界を何一つ見せてあげることなく。私はその時生まれた命を、私の決断で、私は奪った」
それは。中絶経験がある、そういうことだろうか。おそらくは援助交際をした時。
確かに、さすがに驚いた。けれども、俺が葵に惹かれたことに、そして今も惹かれていることに、何の関係があるというのか。
葵は続けた。
「だから私は、もう飛べない! あの時からずっと! 春雄くんがどんな言葉をくれようとも、どれだけ空を見上げても! だから……、私は……」
そこまで言うと、葵は言葉を詰まらせた。
そして春雄は確かに聞いた。それは葵の嗚咽だった。
「だから俺が来たんだ」
「……わからない。春雄くんが、わからない」
「わかるよ。葵のことが好きなだけだ」
「……私に関わるな」
「ん?」
「私に、関わるなって言ってるんだ!」
「どうして」
「私はもうすぐ死ぬ。あと4ヶ月。それに、私は汚い。私には飛ぶ資格がない。私は春雄くんに、かまってもらっちゃいけない。だから……」
「それは俺の決めることだよ」
その瞬間。葵は突然、激しい怒りを表情に表した。彼女の涙が夕暮れに舞い、教室に吸い込まれていく。
「うるさい! 二度と私の前に、顔を見せるな! お前が私を醜くさせるんだ! ただでさえ汚い私を。……お前さえいなければ。あの時ここで! お前があんなことを言わなければ! 私はもっと早くに死ねたんだ!」
葵はぐしゃりと崩れ落ちた。その場で再び座り込み。ひたすらに声を殺して涙を流していた。
「葵」
葵は何も言わず、静かに泣いている。
「俺は、あと3年しか生きられないって知った時、本当は少しだけほっとしたんだ」
葵は聞いているのだろうか。わからない。でも。
「俺なんて、生きていても意味がないから。早く死のうが、遅く死のうが、さして違いなんてない。それならもう。そう思っていたよ。そして、それは今も思ってる」
春雄は続ける。
「でも、葵。葵がいるから、俺はここに来た。葵がいたから、俺は少しだけ生きている実感を持った。俺が生きているのは、生きている理由があるとするなら、葵のところに行くためだと思ったんだ」
葵は座り込んで俯いたまま、口を開いた。
「……春雄くん、おかしいよ」
春雄は屈んで、片膝を床につけた。
「葵のことを、愛させてください。俺には価値なんてないけれど、俺が半分抱えても、それでもまだ飛べないかもしれないけれど。それでも、それだけが、俺の生きている理由だから」
葵はゆっくりと顔を上げた。涙で顔中がぐしゃぐしゃに崩れていた。
「……春雄くんのこと、好きでいてもいいの?」
「もちろん」
「価値なんてものが、春雄くんには何もないのかもしれない。でも、私には何もないどころか、むしろ……」
「俺にとって、葵は葵だ」
「馬鹿すぎるよね」
「何とでも言え」
「私……」
「葵、一緒に飛ぼう」
次の瞬間、葵が春雄の胸へと飛び込んだ。そして春雄の肩を涙で濡らす。
「怖かったよ……。私、このまま死んでいくのが怖くて、怖くて、たまらなかった」
そう言って葵は大声で泣いた。
橙色の2-Bだった教室に、葵の泣き声が響く。
春雄は葵の頭と背中をゆっくりと撫でるのだった。




