第41章(優里)4枚目、
あのデートは確か、今からちょうど1年前だった。
土曜日の昼過ぎ。
私が駅前の集合場所に着くと、敦志君は既にそこにいた。彼は人混みの中ですぐに私を見つけ、目を輝かせた。
「優里さん、こんにちは」
「待たせたかな?」
「いえ、俺もちょうど来たところです」
私は腕時計で時間を見て、言った。
「14時ぴったり。あ、いや……」
「優里さん、1分遅刻です」
「そうだね」
私と敦志君は顔を見合わせて笑った。そうして敦志君が。
「さあ、行きましょうか」
「どこに連れて行ってくれるのかな?」
「お楽しみです」
「ハードル上げるね」
「今、ここが男の勝負所でしょう」
「さすが」
私と敦志君は並んでゆっくりと歩き始めた。
すぐ横は大通りで、次から次へと車が通り過ぎていく。幅の広い歩道で若い人や仕事中のサラリーマンがたくさん歩いていて、都会の様々な騒音と一緒に彼ら彼女らの声がそこかしこから聞こえていた。
私はその時、ちょっとしたヒールを履いていたけれど、それでも敦志君は大きく見えた。すらりとしていて背が高く、体は細いのだけれど頼りなくはない。
私は彼をちらと見上げる。彼の横顔はとても綺麗で、どこか可愛らしかった。
「ここです。優里さん、ご存知ですか?」
敦志君が突然立ち止まると、私に向かってそう言った。
私の目の前には大きな灰色の建物があった。まさに大きな四角の立方体。他のオフィスビルや商業施設とは大きく異なる存在感を持つ、ひたすらにシンプルな建物だった。
「ここは……。うん、知っているよ。来たことは無かったけれど、でも」
「はい。有名な西洋美術館らしいですね。俺は最近知ったんですが、しかし優里さん。今ここで行われている企画展は?」
「まさか」
「入場券が2枚、ここにあります」
敦志君はそう言うと、私にその券を見せた。そこには確かに、『企画展 ル・セルメルクの足跡』と書かれていた。
「……すごい。どうやって……。いや、その前にどうして私がそれを望んでいると……」
「優里さんの演奏は普通ではありません。それはもう、とても興味を持ちました。どんなものに影響されて、どんなことが好きな人なんだろうって。優里さんのこと、先輩方に聞いて回りましたよ」
「でもそれは、期間が2日しかないからすごく倍率が高くて……」
「ええ、大変でした。優里さんが楽しんでくれればと」
私は驚きでそれ以上声が出なかった。
中学生の時、地元の書店でル・セルメルクの画集を買った。表紙に描かれている作品がどうしてか気になったからだ。
そこには幼い女の子が油絵のようなタッチで描かれていて、その後ろには大きな海が広がっていた。少女の表情は鮮明ではなくて、けれどもとても悲しげだった。
私は家に帰って画集を開いた。絵画のことは少しもわからなかった。それでも、そこにあったたくさんの作品達は私を感動させた。切なくて、雄大で、刹那的で、そして強い感情が込められていた。
そうして大学生になってしばらくして、ル・セルメルクの絵がわずかな間だけ日本に来ると知った。美術館の企画展にも関わらず入場券の確保が必要で、しかもその倍率は10倍にもなっていたようだ。
当然私はそれを突破すること叶わず、諦めていた。でも。
あの絵が目の前の建物の中にある。直接この目で見ることができる。孤独と憧れと悲しみを常に抱えていた自分。そしてあの少女はきっと私と同じ。
私はじわじわと何かが込み上げてくるのを感じた。けれどもそれが何かはわからなくて。それでも。
「……ありがとう、敦志君」
「どういたしまして。入りましょうか」
敦志君の笑顔は眩しかった。
展示室の中は薄暗かったが、たくさんの人で溢れていた。けれども静謐なその空間は、美術館らしい異様さを確かに持っていた。
そしていくつかある作品の中に、それはあった。
『少女の沼』
あの画集の表紙を飾っていた作品。何かを訴えかけるような少女の表情。後ろには広大な海。けれどもこの作品の名は『少女の沼』。
すごい。
どう見ても沼ではない。間違いなく海だ。それも快晴の、爽やかな。そしてその風景に溶け込んでいながらも対照的な少女の表情。
私は、この少女そのものだ。彼女は果たしてどんな大人になったのだろうか。モデルがいるのかどうかはわからない。しかし、おそらくいるに違いない。ル・セルメルクは男なのだから。
私はこの少女と初めて出会ったあの時から、少しも変わっていない。私は愛に飢え、人に飢え、普通に飢え、憧れている。さらには異性にも飢えるようになった。広大な海を装っただけの沼。いつか私が本当に海の上を飛べる日は来るのだろうか。
ル・セルメルクがどんな想いでこの作品を生んだのか、私にそれを知る余地はない。だから私がこの絵から感じるものは決して共感ではない。そこまで思い上がってはいない。しかしそれでも、私は感じてしまった。この少女に、私を。
私の隣で、私と同じように少女を見つめる敦志君。
彼は今何を思っているのか。普段なら多少はわかるのだけれど、こんなにも私が揺れてしまっていては何も読み取れない。
彼は私にとって、もはや唯一の存在になってしまった。彼なら私を海に連れて行ってくれるかもしれないと、私は期待を抑えきれなくなってしまった。
どうしようもない。私は、敦志君が好きなのだ。
海の上を飛んでいるふりをし続けるのはもう限界だった。私はずっと一人で沼の中にいるのだから。
彼さえ私の側にいてくれたのなら。彼さえ私の全てを愛してくれるのなら。私はきっと、ようやく楓ちゃんのような女の子に少しだけ近づけるような気がした。
このまま恋人になってしまってもいいのかもしれない。私はそう思い始めていた。このまま恋人になどなっても意味がないとわかっていたのに、その現実に蓋をしたかったのだ。
早く助けて、早く私をここから出して。ただそれだけの感情で。
実際、付き合い始めてみることで、敦志君の何かが変わる可能性もある。それならいいじゃないか。敦志君はそれなりに私を好いてくれている。それならば。
気付くと私と敦志君は小さな喫茶店の中にいた。
茶色を基調とした落ち着いた店内。完全に木造の建物なのかもしれない。窓が多いわけでも、灯りが多いわけでもないのに、どうしてか明るくて爽やかな雰囲気の店だった。
「優里さん、あの少女の絵、何か思い入れがあるんですか?」
「ああ。ごめんね。見とれちゃって」
「いえ。優里さんに喜んでもらえたのなら」
「なんだか、私を見ているようで」
「……優里さんを?」
「そう。私とそっくり」
「うーん……」
それはそうだ。敦志君に理解してもらえるはずがない。敦志君にとっての私は、大人っぽい、不可思議な、何でもお見通しの、底の知れない魅力を持つ先輩なのだから。
とはいえ、敦志君は表向きだけでも共感するふりをすることもできたはずだ。嘘とは言わないが、適当に話を合わせて相槌を打つことで女の子が話しやすいようにしてあげればいい。そして大抵の女の子には、その方が喜ばれる。
敦志君は勿論そのこともわかっている。それでも言い淀んで本当に考え込んでくれるところが、私にとっては嬉しい。
小手先のコミュニケーションでは私に通用しないと理解しているのか、或いは私に甘えきってしまっているのか。
そこでふと、私は突然に現実に引き戻された。
ああ、何を私は。恋は盲目とはこのことだ。わかりきっていることなのに。
敦志君は甘えているのだ。甘えたいのだ。表向きの嘘で塗り固められた私だけを見て、そんな私に全幅の信頼を寄せて、そうして全てを委ねたいのだ。
だからこそ敦志君は、私に惹かれている。私が沼に沈んでいることなど知りもしない。彼は私のことを海を悠々と泳ぐ人だと、そして時には空を飛ぶような人だと信じきっている。
異性であり、彼女であり、そして母でもある、そんな人を敦志君はきっと求めているのだから。
私と、同じように。
私はコーヒーを少し飲んで、コツ、とテーブルに置いた。
「まあ、そうして楽しめたからよかった、そういうことだよ」
「やはり俺は優里さんほどの感性はないんだなと。優里さんの見ている世界に俺も追いつけるように……」
「いいの。敦志君は敦志君。それに、本当にね、何よりも素敵なサプライズだった。ありがとう」
敦志君はぱっ、と顔を上げて笑顔を見せた。
「そろそろ行きましょうか。少し暗くなってきましたね」
「ええ」
会計をして、敦志君がドアを開けた。カランカラン、という鐘の音が鳴る。どうしてか私の耳には、その鐘の音が悲しく響いた。




