第32章(春雄)夜を駆ける
春雄は駆けていた。
夜の静けさが冷たく横たわっていて、それとは対照的に春雄の心臓は激しく暴れた。
黒いスニーカーがひび割れたアスファルトを何度も蹴る。空気を切る音が春雄の耳に騒々しく入り込んでいた。
息が切れる。足がついてこない。わざわざ走る必要なんてないけれど、ゆっくり歩いてなどいられない。
葵が住んでいるアパートの部屋まではすぐだ。このまま走り続けていれば5分とかからない。
大学に入ったばかりの頃、葵が場所を教えてくれたことがある。結局、そこに行ったことは一度もなかったが。
それでも葵のアパートの場所を正確に覚えているのは、俺の葵に対する執着が成したとしか言いようがない。
葵はそこにいるだろうか。もしいたとして俺は何をするつもりなのだろうか。何ができるのだろうか。
いや、いい。考えてもわからない。とにかく行かないと。俺にはあとどれだけの時間が残っているのかもわからないのだから。何より葵がいなくなってしまう前に。
あの時、あの夕暮れの教室で、葵は何かに苦しんでいた。いや、苦しんでいたという表現が正しいかはわからない。とにかく何かを背負っていた。それは重く、深く、そして暗い何か。
もし今もまだ、葵がそれに押し潰されそうになっているのなら。そのまま死んでいくなんて、そんなことあっていいはずがない。
そうだ。俺は言った。葵の背負うものを、俺が半分持って一緒に飛んでやると。
あの時の俺はそんな無責任なことをどうして口走ることができたのか。人の人生にそこまで関わる資格が俺などにあるわけがないのに。
でも。それでも。
俺は葵の『あの目』を幸せにしたい。だから俺は。
春雄はぜいぜいと息を切らせて、葵の部屋の前に立っていた。
無機質な紺の扉とインターホン。102という部屋番号の下に、藍原、と小さな手書きの表札があった。
春雄はゆっくりとインターホンを押した。扉の奥で音が鳴った。
10秒、20秒。沈黙が続く。
再び春雄はインターホンを押す。
しかし何も反応はなかった。
ああ、いない。
ここに住んでいることは間違いないと思うのだけれど。どこかに出かけているのだろうか。
もう後期は始まっているし、実家に戻っているということもないはず。いや、余命宣告されている状況だ。講義があるかどうかなんて関係ないか。
葵が帰ってくるまで、少し待ってみようか。
いや、よそう。また後で来るべきだ。1人暮らしの女の子の部屋の前で何時間も座っているのを他の人に見られたら、不審者として通報されてもおかしくない。
それに実際、俺はストーカーみたいなものだ。自分勝手に突然葵の部屋へとやってきて、しかも明確な理由もなく。
冷静にならないと。
春雄はふう、と息をつく。
ああ、俺は何をしているのか。楓さんを傷つけてまで、こんなわけのわからないことをして。
俺は葵にどうしようもなく惹かれてしまっている。俺にとっての葵という存在は何よりも輝いているものだ。けれども葵にとっての俺はそうではない。
一旦家に帰って頭を冷やそう。
春雄は藍原の表札に背を向けて、ゆっくりと歩き出す。まるで足の重さが突然3倍になってしまったかのような足取りで。
そうして春雄は20歩ほど歩いて、ふと葵のアパートを振り返った。
2階建の小さなアパート。グレーの外壁にはところどころにひび割れが見える。屋根の向こうにひっそりと満月が浮かんでいた。
春雄は何かに気付いた。
なんだ。屋根の上に何か、アンテナ、鳥、いや違う、人影だ。屋根の上に誰かが座っている。暗くてよく見えない。
しかしあれは。
「葵?」
「……春雄くん」
屋根の上に座っていたのは葵だった。
月明かりに照らされて、葵はゆっくりと春雄の方へと顔を向ける。夜風がさっと通り過ぎて、その髪がふわりと揺れた。
春雄は体をぴたりと止める。
否、葵の姿に見惚れて動くことができなかった。どくん、と心臓が脈打って、春雄の全身に血液が流れていく。
数秒して、春雄は口を動かすことを思い出した。
「あ、危ないだろ。というより、どうやってそんなところに」
「ここ、気に入ってるの」
「そうじゃなくて……」
「挨拶がまだだったね。こんばんは」
「こ、こんばんは」
葵の表情が見えない。けれども声の調子から察するに、きっと満足気な表情をしているのだろう。何が理由かはわからないけれど。
葵は首をくいと動かして、満月を眺めた。そうして春雄から顔をそらしたまま、葵は言葉を紡いだ。
「今夜はどうして来てくれたの?」
「あ、その、心臓麻痺のニュースを見て、それで、電磁波で短い余命宣告をされた人は危ないって、だから」
「ふふっ、そうなんだ」
「笑うところじゃないよ」
「ごめんね」
謝ってはいながらも、葵の声はどこか嬉しそうだった。
葵に、何をどう言えばいいのかわからない。だから、そうだ。ありのままを話すしかない。俺はどうしてここに来たのか。そして俺にとっての葵は。
俺にとっての葵は、どんなに大きな存在なのかを。
「葵はもしかしたら危ないんじゃないかと思って。半年、って言ってただろう。いや、今やもう5ヶ月しかない。俺だっていつ命が消えるかわからない」
「そうかもしれないね」
春雄は俯いてぐっ、と唇を噛んだ。そして再び葵を見上げて。
「葵」
「はい」
「楓と別れてきたんだ」
「どうして」
「それで、ここにきた」
葵は春雄を見ずに、満月を眺め続けていた。しんと静まり返った夜の空気が春雄と葵を包む。
屋根の上から、か細い声がその空気に乗って春雄の元へ。
「……月が、綺麗ですね、って私に言いに来たの?」
「そうだ」
「もうすぐこの世からいなくなる私に?」
「そうだ」
「馬鹿だなあ、春雄くんは。本当に」
そう言う葵の声は呆れているようにも、震えているようにも、無機質なようにも聞こえた。そして何故か、暖かい響きがその声にはあった。
春雄は言った。
「葵、好きだ。一緒に飛ぼう」
暫くの間、沈黙だけがそこにあった。
幾度となく夜風が通り過ぎた。どのくらい時間が経ったのか、春雄にはわからなかった。ただひたすらに、葵の言葉を待つしかなかった。
そしてある時、葵が一言だけ呟いた。
「帰って」
帰って、か。それが葵の返事。それが全て。これ以上の我儘は許さない、そういうことだ。
「……わかった」
ああ。楓さん。あなたの言う通りでした。愚かな俺をどうか笑ってやってください。
それでも俺はこうせざるを得なかった。そして、これでよかった。でなければ俺は永遠に楓さんに甘え続けて、そして死んでいたのだろう。
春雄は再び葵のアパートに背を向けて歩き出した。ゆっくりと、けれども一度として振り返らず。
月明かりが、誰かの涙を照らしていた。




