第17章(春雄)愛と供述
電話の着信音が春雄の部屋に響く。
春雄はゆっくりと瞼を開けた。
視界がぼんやりして定まらない。しみのある天井がはっきり見えるようになるまであと10秒はかかるだろうか。
窓から差し込む光の明るさから考えると、おそらくもう日が沈みはじめる頃か。
ベッドに横たわってセルゲイ・ルミトリフの『愛と供述』を読んでいたのは確か午後3時過ぎだった。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
8コール程鳴り続けたスマートフォンはやがて沈黙した。
もやがかかっていた視界が開けていく。天井のしみが少し増えているような気がする。
よく天井に張り付いている小さな蜘蛛が唯一の同居人、いや、同居蜘蛛なのだけれど、昨日から見ていない。何処かに行ってしまったのだろうか。
電話をかけてきたのはおそらく敦志かお母さんだろう。というより、その2人以外に俺に電話をかける人間などいない。
どちらにしても大したことではないだろうし、後でかけ直せばいい。
春雄はゆっくりと起き上がり、コーヒーメーカーの電源を入れた。ミル機能を使い、ラオス産の豆を挽いていく。
最近のラオスの豆は好きだ。安くて質がいい。コーヒーは好きだけれどそこそこのこだわりしか持っていない俺にとって、この豆はベストな選択肢になる。
すると再びスマートフォンが着信を告げる。
2回目の着信。となると、何かが起きて焦ったもしくは不安になった敦志だな。全く仕方ない、出るしかないか。
春雄は鳴り続ける携帯を手にとり、受話器のマークを押そうとした。
画面には、『楓』の文字。
その文字を見た春雄は体がぴたりと止まった。
なぜだ。確かに以前連絡先の交換をしたことはあるけれど、電話どころかメールをしたことすらない。会えば挨拶くらいはするけれど、まともに話したこともほとんどない。つい数日前、学食のカフェで少し話しただけだ。
とにかく出なくては。
微かに震える指先で、春雄は受話器のマークを押した。
「もしもし」
『春雄君、こんにちは。急にごめんね』
「大丈夫だよ。えっと、どうしたの?」
そう言う春雄の声は少し震えていた。
俺が女の子とまともに会話できるようになるには、一体あと何年かかるのだろう。
『春雄君、一人暮らしだよね? 無茶を言っているのは承知なのだけれど、今日、泊めてくれないかな……』
泊めてくれないかなって、どういう意味だ。
普通に考えれば、楓さんが俺のこの部屋で一晩過ごすということ。どう考えてもそうだろう。しかしそれは。
いや、俺の考えすぎなのだろうか。友達の部屋に泊まるなんて、普通の大学生にとっては普通のことだ。おそらく。
「もちろんいいよ。でも、あまり綺麗とは言えないかも」
『理由はきかないの?』
「少し気になる。でも、別に話さなくてもいい」
『そっか。春雄君、かわいい。22時に南門まで迎えに来てもらってもいいかな』
「わかった」
『じゃあ、また後でね。ありがと』
そうして電話は切れた。
春雄はベッドに再び戻り、腰掛けた。そうして呆然と天井を見上げる。
頭が働かない。今日、女の子がこの部屋に泊まる。そんなことは今まで一度もなかった。この部屋の全てを掃除をしなくては。そう思ってはいるけれども、何故だか体が動かない。
大学生の男女が同じ部屋で夜を過ごす。それはつまり、性行為がそこにあってもおかしくはない。とはいえ今までの俺と楓さんの関係を考えれば、そんなことあるはずがない。
楓さんは何を考えているんだろう。
もしかして、コンビニでコンドームを買っておいた方がいいのだろうか。装着の仕方もわからない。
そもそもそんな先走ったことよりも、お茶だとか、タオルだとか、いろいろ用意しておく必要がある。
楓さんはシャワーを使うのだろうか。気軽に使ってもらえるように準備しておこう。
よし、段々頭が働いてきた。まずはゴミを全部まとめて、掃除機をかけよう。それか、コンビニへ買い出しだ。
まだあと数時間ある。万全の体制で臨もう。
冷めてしまったコーヒーが、ドタバタと掃除機をかける春雄を見つめていた。




