踊り場
1
その日、少女は道に迷っていた。
無秩序に増殖する立体スラムにおいて、昨日使った通路が今日もあるとは限らない。事前に聞いていた経路には行き止まりの標識が立ち、ぐねぐねとうねった配管や電線とともに少女の帰り道を塞いでしまっていた。
黒い雨合羽を着た少女──ルーは、傘をさした人ごみを切って歩く。ぽつ、ぽつと水を受けた生地が時折音を立てるが、無数の建造物で蓋をした地下市場に雨は降らない。ここより上の階層の水分がどこからか染み出しているのだ。
ルーは散歩が好きだった。しかし、住人にすら全貌がわからないほど複雑化した街での散歩は、すなわち迷子と同義である。それでも徘徊をやめない彼女の趣味は無謀とさえ言えるが、全くの無策ではない。狭く入り組んだ通路、その先から僅かに風が吹きこんでいる。ルーはその方向を目指していた。
三次元的に広がるこの街には、空調や採光のための縦穴──いわゆる吹き抜けが各所にある。彼女は道に迷うといつも「飛び降りる」か、「壁を伝って」帰宅していた。最下層に住むルーにとって、それが最も確実な帰路だった。
たん。たん。たたん。
進路上、階段の先に誰かいる。風を読むのに夢中だったルーは、いつの間にか商業区の深部にまで入り込んでいることに気がつかなかった。規則的な、それでいて一定ではない足音。酔っぱらいか、クスリか、それとも別の何かか。ルーは半ば無意識のうちに拳銃のホルスターに手をかけていた。
たん。たん。たたん。
近づいてはこない。尚も続く足音は、同じ場所をくるくると回っているようだった。向かってこないとわかると、警戒心より好奇心が勝る。ルーはいつものように息を潜めて観察することにした。
たん。たん。たたん。
階段を登ると小さな広場に出た。隣接していた吹き抜けからは夕焼けの紅が差しこみ、律動する少女を照らしている。あの少女が不思議な足音の主だ。透けそうなほど薄手のワンピースを振り回し、コンクリートの床を踏み均す。ルーは酒場や大通りで似たような動きをする人間を見たことがあった。それが何なのかは知らないが、不思議と見入ってしまう。少女はなおもステップを踏む。
たん。たん。くるり。
『そこの人、サイボーグですか?』
虚を衝かれたルーは一瞬、呼吸をすることも忘れてしまった。最大限息を殺していたはずだったが、金色の眼をした少女はそれをいとも容易く見破った。返答に詰まる。
『あれ、聞き間違いでした』
それで気がついた。少女の目線がこちらを向いていないことに。琥珀の瞳は焦点を結ばず、ただ空洞のように在るだけだった。少女はルーの駆動音を聞いていたのだ。
「違う、ここにいる。無視したわけじゃ」
『女の人ですか!?すごい!』
ぱっと表情を明るくした少女が駆け寄ってくる。先程の声でルーの正確な位置がわかったらしい。
『私と同じくらいの大きさですよね?どこからきたのですか?どうしてこんなところに?』
「わ、わたしは道に迷って、それで……」
矢継ぎ早に浴びせられる問い。なんとか最後の質問にだけ答えた。同年代の少女と話したことがないルーは動揺を禁じ得ない。しかし、彼女の冷たい一端は冷静に対象の観察を続けていた。子供、一人、良好な栄養状態、不自然に整えられた髪や肌、そして盲目。導き出される結論──少女娼婦。ということは、ここは売春宿の物干し場だろうか。
『迷ったのですか?でもごめんなさい。ここは行き止まりなんです』
少女はなぜか悲しげだった。ルーは首を振って答える。
「わたしにとっては、そうじゃない」
少女の質問責めから抜け出すのに一刻を要した。
シュシュと名乗った少女は、目が見えないことを差し引いてもあまりに外の世界を知らない。物干し場の先は壁ではなく「穴」であること、その穴の底に人が住んでいること、ルーはそこに降りていくつもりである──この方法は一般的ではないが──こと、生身の人間が何の装備も持たずに同じ事をすればただではすまないこと。普段あまり喋ることがないルーにとって、この説明は難題だった。まして相手は実際に見て確認することができないのだ。結局、ルーが支えるシュシュの身を乗り出させることによってやっと理解を得られた。
難題だったが、不快ではない。何にでも驚くシュシュと話すのは新鮮で、楽しかった。絵もジェスチャーも通じないので、無口なはずのルーは気がついたら一月分ぐらい喋っていた。
『ごめんなさい、引き留めてしまいました』
柵を乗り越え、帰ろうとするルーに声がかかる。日はいつの間にか沈み、無数のネオンが黒の義肢を照らす。
『あの、もしよかったら、また』
首肯で返した後、慌てて声の返事をする。ジェスチャーは通じない。うん。またね。言い馴れない言葉だ。
『はい!』
少女は今日一番の笑顔を見せた。その美しさに後ろ髪を引かれる。しかし、その時すでにルーは落体の法則の支配下にあった。
落下──生命の危機と誤認した脳が思考を加速させ、建造物だけの景色がゆっくりと上から下に過ぎてゆく。
落下──また会いたい。そう思った。あの身なりと人懐こい微笑み。きっと彼女は「売れっ子」なのだろう。
激突──そう考えた自分が嫌になった。
2
『君が着地に失敗するとはな』
最下層。ごみ山に埋もれるようにして建つグリナのラボで手当てと点検を受けていた。そこまでする必要はない、とグリナは言ったが、ルーは大規模なオーバーホールを希望した。こうしてばらばらになっていると胸がすく。
『視覚ログを見させてもらった。あれはAngels Guidepostという売春宿の少女娼婦だな。VIP専門の高級品で一般客は触れることもできない。あまり関わらない方がいい。彼女も君も不幸になるだけだ』
天使の道しるべ。嫌な名前だ。道しるべなど彼女には見えないのに。
機械装具が外されて、肉の比率が高くなったルーの思考はいつになく感情的だ。シュシュは外にとても興味を持っているようだった。当たり前だ。彼女は娼館で産まれ育ち、殆ど外に出たことがないという。あの物干し場がシュシュの世界の最果てなのだ。そして、何よりルーが憤りを感じているのが──
『価値観の相違だな。彼女はずっとそこで生きてきた。それ以外の生き方なんて知らないだろうし、今の生活を捨ててまで知ろうとはしないだろう』
──彼女自身は外に出る気がないことだ。
あの時、シュシュに尋ねずにはいられなかった。ここから出たくないのかと。ずっとそんな暮らしでいいのかと。すると、彼女はきょとんとした顔で聞き返すのだ。
『どうしてですか?』
「どうして、って……」
『外の暮らしは大変なのでしょう?私のような子供は盗みか、殺しか、それこそ体を売らなければ生きていけません。でも、ここでおつとめを果たせば店の人だってお客様だって優しくしてくれるんです』
「……」
『こんな私が誰かの役に立てて、おなかいっぱい食べられて、あたたかいお布団で眠れる。これって、とてもとてもしあわせなことではありませんか?』
ルーは何も答えられなかった。
再び体が組み上げられる。機械が戻ってくる。
雑多に散らかったラボが知覚された。複雑な機械を山積みにしたデスクに向かう若い男。振り返ったグリナの目元には深いくまが刻まれていた。また寝ずに作業していたのだろう。
『セルフチェック』
「了解」
整備台に吊るされた身体を少しずつ動かして動作を確認する。ルーの体にはいくつもの高性能計器が取り付けられているが、装着者自身が確認しなければわからない異常もいまだ多い。幻肢痛──幻体痛とも呼ばれている──はその代表格だ。無くなった生身の四肢が今もあるように感じ、時折万力で潰されるかのような痛みを覚える現象。幻肢はサイバネティクスの発足当初から、補装具とのフィッティングや装着者の精神状態を診断する重要な指針となっている。
「右足がいたい」
『落下時に一番損傷があった箇所だな。幻肢痛はじき収まる。他には?』
「ない」
グリナは頷いて、整備台のロックを解除した。
『今回の事もだが、普段から装具をもっと大切に使ってくれ』
整備点検の時いつもこう言うのだ。グリナはルーにとって産みの親にも等しい存在で、何かと口うるさい。ルーはそれを少々疎ましく感じる一方、身を案じるグリナの心情を理解してもいた。
「わかってる」
だから、いつものように返事をする。できるだけぶっきらぼうな口調で、いかにも不機嫌そうに顔を背けながら。この儀式めいたやりとりに、ルーはどこかで安心を覚えていた。
『部隊長との射撃訓練の予定が入っている。銃を用意しておいてくれ。それと』
計器の端子を外していると、グリナがモニタを見たまま付け加えた。
『「理性に流されるな」。君のしたいことが君にとって正しいことだ』
これはグリナの口ぐせのようなものだ。意味はよくわからない。グリナの言葉はいつも回りくどくて難しい。しかし、その言葉はなんとなくルーを安心させる魔力を持っていた。
三日後。結局またここに来てしまった。たまたま道に迷って、たまたま同じ縦穴から帰ろうとしただけ、そう自分に言い聞かせて。シュシュは、前会った時と同じ姿で階段の先にいた。
『来てくれたのですね!』
彼女はルーの駆動音を正確に聞き分けた。他のサイボーグとは違う変わった音がする、らしい。
「なぜ踊っているの?」
シュシュは今日もステップを踏んでいた。グリナに聞いたところ、酒場や大通りで躍りのパフォーマンスをしている人々は、それでお金を貰って生活していると言う。しかし、ここにはルー以外誰も居ない。少女娼婦は何のためにその足を鳴らすのだろう。
『ふふ、やってみればわかります』
シュシュは機械の指を手に取った。カーボンナノチューブ人工筋繊維でできたそれは鉄棒を捻切るほどの出力を誇る。しかし、血と肉と骨でできた少女の細腕になすすべもなく引かれていった。
「まって、わたし習ったことない」
『奇遇ですね。私もなんです』
観察。模倣。ぎこちなく。
ルーはなんとかシュシュの動きについていく。彼女は微笑みを浮かべて、それとなくルーをフォローしていた。
考察。修整。最適化。
それほど複雑な動きをしているわけではないようだ。彼女のリズムに合わせ、義足を弾ませる。
輪舞。探戈。理解する。
彼女もルーのリズムに合わせる。二人の鼓動が一致したような不思議な感覚。今だけは、肉も機械も関係ない。
回る。廻る。かわるがわる。
『こうしていると悲しいことを考えなくてすみます』
「悲しいこと?」
『はい。私はいつまでもつのかな、とか』
娼婦は消耗品だ。客に飽きられたら、歳をとったら、病気になったら、彼女はどうやって生きていくのだろう。
「怖いこと、じゃなくて?」
『悲しいことです。私が死んでも何も残らないので』
それはきっと、ルーも同じだ。生まれながらの半人半機である彼女が死んだとして、何が残るというのか。子を成せず、世界的に排斥された少数派。この街から出ることも叶わない。彼女達の存在は、ここが行き止まりなのだ。
「もう一回、いい?」
シュシュの言うとおり、悲しいことは踊って忘れることにした。
3
ルーの装具は極めて特殊だ。故に、少なくとも七日に一度は整備点検を行う必要がある。彼女に会いに行っていたことを怒られると思ったが、そのことには触れられなかった。グリナは視覚ログを見ていないのだろうか。
『装具は大事にな。それと買い物を頼んでもいいか。散歩のついでで構わない』
少しだけ、複雑な気持ちだった。いつもより五割増しの不機嫌さで返事をする。
『助かる。メモと金はそこだ』
ルーの心情を知ってか知らずか、グリナはいつも通りにバッグを指差した。
それがおよそ一時間前。簡単な買い物を済ませたルーはまた物干し場に向かうことにした。今日は手土産も持っていくつもりだ。「おつかい」の釣りは自由に使っていいことになっている。
地下市場は多くの人と機械でごった返していた。喧騒の中に商人の会話が聞こえてくる。曰く、『大通りが混んでいる』、『路地が減っている』大規模な工事でもあるのだろうか。
やがて、甘い匂いの漂う露店を見つける。市場に来た目的はこれだ。ポケットの釣り銭を箱に入れ、飴を二つ注文する。シュシュの分もぎりぎり足りた。本物の砂糖をじっくりと煮詰めて作る飴の甘さは、他の合成菓子と一線を画す。屋台の売り物なので特別珍しいものではないが、ルーはこれが好物だった。シュシュは飴を食べたことがないらしく、次は必ず持ってくると約束したのだ。焼き上がったばかりの琥珀色を手渡される。彼女の瞳もこんな鮮やかな色をしていた。
少々早く来すぎてしまい、シュシュは物干し場には居なかった。彼女は夜に仕事をしているため、日中は眠っている。日が傾く頃に起き出して、仕事が始まるまでここにいるという。湿ったシーツの影があの時と同じくらいにまで伸びると、勝手口からちょっと眠たげなシュシュが現れた。
『ルーさん……ですよね?』
「うん。こんばんは」
自分でも驚くほど優しい声が出た。どうしてか戸惑っている彼女を少しでも安心させようとしたのだ。半人半機の拙い試みは、その思い故に功を奏した。
『はい、こんばんは!ごめんなさい、音が違ったから驚いてしまったんです。今日はお連れ様がいらっしゃるんですか?』
ルーはとっさに身を伏せた。雨合羽のフードが外れ、斬れた白い髪が宙を舞う。そのまま前方に飛び退き二の太刀を避ける。一瞬前までルーの機体があった場所に鋭利な刃が突き刺さった。
『ルーさん!?』
あとほんの一拍、判断が遅れていたら初撃で首が飛んでいた。付けられた? どうやって? その疑問は振り返った瞬間に霧散する。
『やあ出口はこっちだよ』
「ぶら下がって」いた。巨大な蜘蛛を思わせる異形のサイボーグが、逆さ釣りで正対している。人体の構造上、真上は絶対的な死角だ。ずっと上にいたというのか。ルーを襲った二刃を引っ込めると、八つもの腕/足がそれぞれ短機関銃を構える。狙いの先は──
『こっちっこっちこっちこっち』
シュシュを抱えて走った。銃弾の雨がシーツをずたずたに引き裂き、落書きだらけのコンクリートを弾痕で上書きしていく。意味不明な言葉を叫び続けながら、機械の蜘蛛は暴虐の限りを尽くした。しかし閃光。声をかき消す轟音。ルーが放った対サイボーグ用フラッシュバンが今更になって起爆した。物陰にうずくまっていたルーは爆音と共にスタート。階段を一息で飛び降りて、路地裏に逃げ込んだ。
蜘蛛は数秒で目眩ましから回復した。周囲の状況を把握する。無惨に破壊された物干し場。ターゲットは確認できず。様子を見に来た警備員が呆然と立ち尽くしていた。真っ赤な夕日に照らされる機体。機械でできた四対の「肢」。肥大化した臀部。ぎょろぎょろと動く八つの眼。それぞれ大きさが違う。虹彩の色が違う。まつ毛の色が違う。
ヒトと呼ぶにはあまりに異形。しかしクモと呼ぶにはあまりに醜悪。サイボーグが排斥されている理由がこれだ。別物に置き換えられた肉体に呼応するように精神すら別物に置き換わる。狂った精神に呼応するように狂った肉体を作りだす。怒りに震える八つの眼が哀れな警備員をとらえた。彼の命運は決まった。
『ルーさん……?一体、何が……?』
閃光音響手榴弾の影響で失神していたシュシュが目を覚ました。ルーは彼女を背負ったまま狭い路地を歩き続ける。安全な場所、もしくは通りに出る道を探しているのだ。現在の装備でアレと戦うのは分が悪い。
「サイボーグに襲われた。あなたの命を狙ってる」
ありのまま事実を告げたが、シュシュは妙に落ち着いていた。そうですか、と答えたきり黙りこんでしまう。いつものように質問責めにされることはなかった。重い沈黙が流れる。彼女の痩せた身体よりこの空気の方がずっと重い、そんな気さえした。ルーの足音が止まる。
「これは……」
行き止まりの標識が、ぐねぐねとうねった配管や電線とともに少女達の道を塞ぐ。ルーはこの標識に見覚えがあった。シュシュと初めて出会った日、帰り道を塞いでいたあの標識。金属とプラスチックでできた蜘蛛の巣はそこら中に張り巡らされ、電線一本一本が妨害電波を垂れ流している。ルーが今日使った通路にも同じバリケードが仕掛けられていた。蜘蛛は最初から少しずつ、少しずつ逃げ道を奪っていたのだ。この時のために。
『私の命など奪っても何にもならないのに』
ルーの落胆を感じとったのか、背中のシュシュがぼやいた。彼女は予約が取れないほど人気の娼婦だ。恐らくは競合店が送り込んだ刺客だろう。街ではありふれた話だった。そしてこの悪趣味な迷宮はあのサイボーグの嗜好。趣向に生き甲斐を見出だすタイプ──これもよくあるパターン。あとは時間の問題だ。
『……つぅ、う』
呻き声が聞こえた。シュシュを降ろすと、右足の負傷に気がつく。流れ弾に当たっていたようだった。最大限愛らしく見えるよう整えられた顔を苦悶に歪め、しみ一つない肌には脂汗が浮いている。
「今は応急処置しかできない。少し我慢して」
ファーストエイドキットを取り出し、消毒と止血を行う。幸い銃弾は動脈を避けていた。
『んぐ……はー、はぁ』
痛み止めを飲ませた。落ち着いたようだが、どちらにせよ早急に治療を行う必要がある。
『ルーさん……。私を置いていってください』
聞こえないふりをして処置を続ける。それを認識すればきっと、理性が彼女を捨て置いてしまう。およそ四十キログラムの荷物であり、誘蛾灯もとい誘蜘蛛灯でもある、「それ」。戦術的価値など何もなく、まして肉盾にもできない、それ。二人共死ぬより一人だけでも生き残るべきだ。余分な部品は取り外せ。おまえを責めるものはいない。彼女もそう言っているぞ。
『あなた一人ならまだ助かります』
「うるさい」
しかしルーの半分は、感情は認めていない。二人の鼓動が一致したような感覚。機械の右足が痛む。幻肢痛は収まらない。
「アレの名前はワーダー。主に暗殺を請け負う傭兵。対象をこんな風に閉じ込めて嬲り殺すのが趣味。やつの被害者は皆見るに耐えない姿だった。軽々しくそんな事を言わないで」
半ば自分に言い聞かせるように諭した。そうだ。あの顔を忘れたわけじゃない。それは腹にツチグモの卵を縫い込まれ、身体中の穴という穴から子グモを噴き出してなお、出口のない迷路を這い回っていた。看守の趣向の対象になった哀れな子供。彼女の顔が重なって見える。
『でも!目的は私なんでしょう?あなたまで捕まる必要はありません!それに私はいつ死んだって……!』
「今、そう思っていても」
止血帯を強く、硬く結んで黙らせた。
「これの何十倍も何百倍も痛い。命をかき消すような痛みを何度も、何度も、何度でも叩き込まれる。死ぬのは痛い、死ぬのは怖い、絶対に死にたくない──そう願った瞬間、殺される」
彼女の体を抱えなおす。拍子抜けする軽さ。命なんてこんなものだと電子信号が言う。右足の痛みは消えてくれない。
『ルーさん……あなたは……』
『でぐ出口ぐちはこっちだよキャサリン』
何も答えず走り出した。通路の影から異形が躍り出る。機体そのものが叫んでいるかのような低く高い奇声をあげ、銃を乱射する蜘蛛の看守。その額には行き止まりの言葉。ピンを抜く。足は止めない。角を曲がると同時に拳銃で牽制。
「口を開けて耳を塞げ!」
倍になって返ってくる応射。炸裂。閃光。二つ目のフラッシュバン。しかし四つの視線が少女に肉薄する。ワーダーは八つの眼の内半分をあらかじめ閉じていた。十六連のマガジンを撃ち尽くす。ホールドオープンした三十二口径を投げ捨てて、両者の距離はゼロになる。
「逃゛げろ゛……!」
フラッシュバンの残響のなか。血反吐の混ざった声は誰にも届かない。赤熱化した蜘蛛の爪がルーの身体を貫通していた。シュシュが悲鳴をあげる。それは拳銃と同時に投げ出されたからではなく、自分は庇われたとわかったからだ。
『ああリンダ。もうう怯えなくててもいいんだんだ。出口はこっちだからね』
ワーダーはうわ言のように話し続けている。腹部が焼けるように痛い。否、文字通り焼けている。熱い。電熱ブレードが体液を沸騰させる音を聞いた。自分の肉がソテーになる匂いを嗅いだ。熱された血と吐瀉物が喉を塞ぐ。無機物の比率が高くなる。息が詰まる。シュシュの泣く声が聞こえる。気が遠くなる。
『すぐににあのこの子も連れていくよサマンサ。だから先に出口へへ連れていくよ』
ワーダーが閃光でつぶれていた半分の眼たちを開ける。それらは一様に真横の一点を見ていた。ルーは手放しかけた意識を引き戻す。シュシュの方向。
「やめろッ!」
蜘蛛は腕一本だけを動かして短機関銃を発砲した。三点バースト。横腹と肩口に命中。すでに人工血液が彩られたワンピースに鮮やかな朱が差していく。
『げあっ!?ふ──いぅ、うぐ……』
『だからそこで待っててね』
鎮痛剤投与終了/アドレナリン分泌開始──静水のような永い一瞬の後、交感神経が一斉に励起する。咆哮のような言葉が浮かぶ。よくもやったな。理性の鎖を引きちぎる激情がルーを支配した。
同時に、少女の獣性に引っ張られた身体がカタチを変えてゆく。それは進化か、あるいは退化か。畳まれていた中足骨が展開。肩甲骨が九十度回転。少女のものとは思えない低い唸り声とともに尾椎が立ち上がり、巨大な尾が姿を現す。
『どうしたんだクリス!?大丈夫だ、ぼくががついていうるよ』
「だまれ」
瞬間、人蜘蛛が吹き飛んだ。異形と化したルーが「その場から」両足蹴りを見舞ったのだ。分厚く強靭な機械の「尾」を軸足とし、全身の人工筋肉を使って放つドロップキック。くの字に折れ曲がったワーダーの機体がその威力を物語る。
『いたいいたいいたいいたいよぉぉぉおおぉおぉ!!!』
可変補装具。状況に応じて骨格ごと変形する彼女の力。頻繁な整備が必要な理由。サイボーグの狂気に対する答えの一つ。つまり、「戦いの時だけ狂暴になればいい」。
『殺してやるぞくそガキが!ぼくを俺を誰だと思ってやがるる!トーチカと牢屋に閉じこめてジェーンの蜘蛛を食わせてやるぞぉおぉ!!』
青と銀と黒と鳶色の瞳を血走らせて真っ赤にしながら再び蜘蛛が動き出す。殺し切れないことはわかっていた。ルーはすでにシュシュを抱えて走り出していた。
『どうして、なんで、なんで私なんか庇って……』
刃にかえしが設けられた電熱ブレードは、出ていくその時までルーの腹部をめちゃくちゃに引っ掻きまわした。口と腹からだらだらと血を流し、それでもルーは走る。地面を踏みしめる度、人工心肺が脈打つ度に、火傷と刺傷が激痛となってルーの意識を刈り取ろうとする。それでも。
「わたしが助けたいから!」
もう幻肢痛は消えていた。
「また話相手になってほしい。またいっしょに踊りたい。いっしょに飴を食べたい──だから……生きてほしい」
獣のカタチに引っ張られ、剥き出しの欲望がこぼれる。初めてできた友達、その死の自由を奪いたい。この腐った世界を、わたしのために生きてほしい。
『──っ!』
それはきっと、シュシュも同じだ。
『いたいこっち出口サリーろうやでぐちいたいころす』
ワーダーは上半身が九十度曲がったまま。それでも八つの脚で少女達を追い続ける。ルーは尾を地面に打ち付けて、飛び跳ねるように走っていた。跳躍に特化した骨格に変形したルーのスピードは、人間の姿だった時とは比較にならない。二つの異形が街を疾駆する。いくつもの「行き止まり」を避けながら、半人半獣は迷路を駆けた。まだ塞がっていない道が一つだけある。あの時の帰り道。今度はシュシュも連れていく。
「つかまって!」
階段をひと跳びで上がった。ぼろぼろになった洗濯物が散乱している。もう何者かもわからない誰かが、全身の皮を剥がされ磔になっていた。
『ルーさん……?ここは行き止まりですよ!?』
踊り場に戻ってきたのだ。ワーダーはすぐそこまで来ている。しかしルーは落ち着いていた。
「わたしにとってはそうじゃない」
身を屈め、二脚と尾で床板を叩く。爆発的に加速。瞬きする間に最高速。目指すは出口。行き止まりの先。
跳躍──全速力のまま、吹き抜けに飛んだ。階段を上がった看守は呆気にとられて固まっていた。
落下──また会いたい。そう思った。その気持ちだけは、間違いなく自分の意思だ。
着地──反対側、二階層下。もう迷わない。
4
『……今救援に向かってる!だから言ったんだ、まったく君はいつも──』
無線を切った。これで大丈夫だ。手当てと通信を終えて緊張がほぐれると、忘れていた痛みと疲労が押し寄せてきた。ルーは崩れ落ちるように倒れる。生ゴミの山の中に。
『くさいです……』
「ごめん」
負傷したシュシュが着地の衝撃に耐えられるとは思えなかった。とっさに考えたのは二階層下のゴミ溜め場。やわらかい生活ゴミがクッションになってくれた。ただ、嗅覚と聴覚が敏感な彼女にとってこの臭いは耐え難い悪臭だろう。自分はもう動けそうにない。グリナ達の救助が来るまで臭いと痛みは我慢してもらう他なさそうだ。「行き止まりの先」がこんなところとは。難儀なものだ。
「もうひとつ謝っておきたい」
『なんですか?』
シュシュは鼻を摘まんだまま返事した。ちょっと声が変だった。
「わたし、あなたのことを心のどこかで見下していた。世間知らずで可哀想な子だって。最低だ。あなたと話したのも同情のつもりだった」
ルーの機体は未だ獣のカタチをしていた。その体に引っ張られ、感情のままに言葉が出る。
「でも、あなたはわたしの知らないことをたくさん知ってた。置いていってと言われた時、ほんとはうれしかった。わたしのことを思ってくれて、うれしかったの」
シュシュは鼻を摘まんでいた手を口に当て、驚愕の表情を見せた。しかしこれは、ルーの話に驚いているというより、むしろ──
『初めて会った時、力のあるサイボーグだってことは音と匂いで分かりました。あんな場所で他の人もいません。わたしは、壊されるんじゃないかと思ったんです。サイボーグのお客さんをとった他の子のように……。隙を見て人を呼ぶつもりでした』
今度はルーが驚く番だった。本心を隠していたのは相手も同じ。「無知で無垢な庇護対象」というキャラクターは彼女なりの処世術なのだろう。少女娼婦として生きていくために作り上げたレイヤー。無知かつ庇護が必要な身なのは事実であるから、薄く本心だけを隠していた仮面はルーも含め誰にも気づかれることなく、真実として受け入れられてきた。
『でも、外のことを教えてくれて、いっしょに踊ってくれて、今日、飴を買ってきてくれて、ほんとうにうれしかったんです』
飴のことも勘付かれていた。彼女は自分が思っていたよりずっと聡明だ。聡明だからこそ、自ら余計なことを知らないように、余計な望みを持たないように生きてきたのだろう。それはある種の諦めかもしれないが、それが今日まで彼女を永らえさせたのも事実だ。ルーはとても悲しく思う。シュシュは心まで盲目でいることで、自分を守っていたのだ。
『生きてほしいと……そう言ってくれて、私、あなたに救われたんです』
真っ直ぐと、琥珀の瞳が伝えている。ああ、綺麗だ。飴はだめになってしまったが、それ以上にこの色が好きになった。ルーもまた、シュシュに救われたのだ。彼女の眼は何も写していないようで、他の何よりも世界を視ている。
「ありがとう。また、踊ってくれる?」
『怪我が治ったらすぐにでも。今度は正面からおいでくださいね?しばらくは外出禁止でしょうから』
少女は今日一番の笑顔を見せた。
*
「彼女達は回収したな?よし、看守に報酬を渡してくれ。治療費も上乗せしてな」
最下層。モニタに囲まれたラボの中、グリナは全てを見ていた。どこか楽しげな彼とは対照的に、隣に立つサイボーグは文字通り鉄仮面の顔をしかめていた。
『グリナ、やはり看守のようなサイボーグをぶつけるのはやり過ぎだった。彼女がやられたらどうするつもりだ?』
「まさか、こんなことで俺達の最高傑作がやられるはずがないだろう」
いけしゃあしゃあと返す。ルーが飴を食べさせたがっていたのは知っていた。だから飴二本分の釣りが出るようにおつかいを頼んだ。街の真ん中で妨害電波を使うわけにはいかない。だから無線には時限式のロックをかけていた。街をそのまま使った迷路は完全ではなかった。だから視覚を一部制限して他の脱出経路を塞いだ。そして自身は、看守とルーの視覚ログを通してその模様を見ていた。あの少女娼婦との出会いが彼女に良い影響を与えることを期待していたが、結果は予想以上。やはりサイボーグの可能性は無限大だ。グリナはそう再認識した。
『ルーはお前の玩具じゃない』
「もちろん。では今の彼女が看守クラスのサイボーグ達と本気で戦うことになったらどうする?今はルーにじっくりと力をつけてほしいだけなんだ」
鉄仮面のサイボーグの心境は複雑だった。グリナの言い分に納得できないと思う一方、今回のような訓練が彼女には必要だと考えている自分もいる。
「で、どう思う?」
『何がだ』
「もちろん、彼女の戦いぶりについて」
ため息ひとつ。
『まだ基礎的な訓練が足りていない。戦闘中に感情に流されるようでは駄目だ』
「そう言うと思ったよ。だがね、確かに彼女は感情に従ったかもしれないが、感情に流されたという風には見えなかった」
『同じことだ』
「いいや違う。彼女は理と情とを天秤にかけ自らそう選択したんだ。今回はたまたま情を選んだに過ぎない」
『どうだか』
鉄仮面のサイボーグは早々に会話を切り上げる。思考は未だまとまらない。
先程、彼もグリナと同じように看守の視覚ログを見ていた。ルーが吹き抜けを飛び越えた時、彼女は自分達ではたどり着けないところに行ってしまったような──そんな気がしたのだ。煙草に火を点す。全身装具のサイボーグである彼は煙草の煙を感じない。しかし、今はとにかく心を落ち着けたかった。
*
その日、少女は道に迷わなかった。
行き止まりの標識はもうない。だが、今日は飛び降りて帰ることにする。珍しくお小遣いをもらったのだ。今日こそ一緒に飴を食べよう。少女の足取りは軽い。
たん。たん。たたん。
「踊り場」 完