[2-4]
「大丈夫ですか?」
「……え、ええ。うぷ」
ソファにもたれかかり苦しそうにするアンを、シノユキは白い目で見ていた。
「馬鹿なやつ」
「うるさいわね……聞いているから話があるなら進めてちょうだい……」
「それでは……。到着したばかりで申し訳ないのですが、早速お二人にお願いしたいお仕事があります」
「どういった仕事でしょう」
「暦史書の移送です」
「移送、ですか……」
シノユキは横でぐったりしているアンを横目で見た。
「物はなんです?」
「“裏日本書紀”――」
「お断りします」
ユウコの言葉を遮るようなシノユキの即答に、アンはソファに預けていた頭を起こす。
「ちょっと、もう少し詳しい話を聞いてあげてもいいでしょう」
「冷静に考えてください有栖川様。新人には荷が重すぎます。ましてやこいつは――」
「無視しないで! こいつはなによ!」
「……なにも知らない」
アンを見るシノユキの目は、いつもの嫌味の時とは違っていた。
「なにも、知らない……?」
ユウコは湯飲みにお茶を注ぎ、二人の前に差し出す。
「それを教えてあげるのも、研修の一環ではありませんか?」
「危険すぎますし、性急です。もっと段階を――」
「あなたがいるでしょう?」
シノユキに笑みを見せ、ユウコはお茶を啜る。
「随分信頼されているのね」
「過大評価だ。蕎麦で腹をたぷたぷにさせた女を守れるほどじゃない」
「私が今ボコボコにしてあげましょうか」
アンがそう凄むと、不意に扉をノックする音が響く。
「まぁ、頼もしいことね」
返事を待たずに扉が開いたかと思うと、落ち着いた声でそう言いながら一人の女性が入ってきた。女性は長い黒髪をまとめて右肩から前に出し、その顔には静かな笑みをたたえている。手には小さなアタッシュケースを持っていた。
「リツコ様……!」
その姿を見て、シノユキは姿勢を正す。
「そんなにかしこまらないでください。彼女を見習って」
「いや、しかし……」
女性は至って普通に室内を歩き、ユウコの隣に座る。その所作の美しさに、アンは見とれていた。
「初めまして、アンネ・ラインハルトさん。有栖川リツコです」
「ユウコの、お姉さん……?」
「いいえ、母です。娘がお世話になっています」
「嘘……」
ユウコよりは大人びているものの、どう見ても十代後半の娘がいるようには見えなかった。どこか非現実的な造形をしている。アンはそう感じていた。
「ふふ、ありがとう。若く見られるのは嬉しいわね」
「お母様、本題に入らないと」
「あら、そうね」
娘であるユウコに指摘されて、膝の上に置いていたアタッシュケースをシノユキの前へと差し出す。
「こちらが移送対象です。確認してください」
シノユキはそのアタッシュケースを一度見て、リツコと目を合わせる。
「お受けできません。もっと最適な人材がいるはずです」
「いいえ、あなたが最適な人材なのです」
そう言われて初めて、シノユキはリツコの意図を汲み取った。深く息を吐き出す。
「……そういうことですか。しかし、こいつを同行させる意味がわかりません。危険だ」
「確かに危険は伴うでしょう。……しかし、彼女には知る権利があるのです」
視線を向けられて、アンはソファに預けていた身体を起こす。
「どういうこと?」
「しかしそれは義務ではありません。あなたは選ぶことができる。彼に同行しますか?」
「……ええ、するわ」
シノユキは頭痛を抑えるように、こめかみを片手で揉んだ。
「だそうですよ。しっかり守ってあげなさい」
「不本意ですが、わかりました。しかし時間が必要です。一晩は下さい」
「そうですね。それでは今日はここへ泊っていってください」
「いや、それは……」
「日本支部有数の稀少な暦史書です。外部に持ち出すことは極力避けるべきですよね」
その発言にアンは眉根を寄せた。
「……わかりました。それではここをお借りしますので、リツコ様たちは和室でお休みください」