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「ここが、彼女が使っていた部屋です」
ギルドには個人で使用できる個室がいくつかあり、シノユキが案内されたのはその一つだった。イヴに促されて部屋に入る。中には二つのベッドと簡素な机、本棚、スタンドライトがあり、一見普通の部屋だった。
しかし奥のベッドの方に視線を送ると、脇にある機械が目に入る。
「あれは……ベッドサイドモニター……?」
それは病室等で患者の状況を確認するために用いられる、ベッドサイドモニタ―だった。他にもベッド近くの机には、経管栄養に使用されていたと思われる器具が置かれたままになっている。
「レナードという男の子のためのものですか?」
あとから部屋に入り、ドアを閉めたイヴが頷く。
「レナード・クレセントハート。五年前、イーオンのトップであるラスリウネスク家から預かった子です。当初は健康体で、よく学び、よく遊ぶ子だったのですが、ある日突然昏睡状態に陥りました。それ以来この部屋で延命措置を行っていて、アンにはそれを手伝っていただいていました」
「ですが、ここにはいない。回復したということですか?」
その質問に、イヴは一度口をつぐむ。
「確かにレナードは意識を取り戻しました。その後しばらくレナードはリハビリを行って、なんとか会話ができるようになってきた頃――アンとレナードは忽然と姿を消したのです」
「アンも一緒に……?」
「はい。状況だけを見れば、アンが連れ去った……と考えるべきでしょう。レナードはまだ自分だけで移動することはできませんでしたから」
シノユキにはもはや、アンがなにを考えているのか理解できなかった。暦史書管理機構から逃げ出し、逃げた先では病床の子供を誘拐。これまでのどんな非常識な事態よりも、それらがシノユキの眉間に皺を寄せた。
「それで、あなたたちは探そうともしなかったんですか」
半ば八つ当たりのような発言だったが、イヴは表情を変えることなくシノユキを見つめた。
「……確かに、常識で言えば警察組織などに通報して、捜索をしてもらうべきなのかもしれません。ですがラスリウネスク家に報告したところ、特に対応は不要とのことでした」
「そんなことが……!」
自分が思っている以上に大きい声が出て、シノユキは一度呼吸を整える。
「正直に言いましょう。我々は暦史書管理機構アメリカ支部長、マシュー・アダムズ氏よりアンネ・ラインハルトの捜索を正式に依頼され、ここへ来ました。情報提供を、お願いできますね?」
「なるほど……可能な限り協力したいとは思っています。しかし彼女も多くを私たちには語りませんでしたし、お役に立てるかどうか……」
そう言いながら、イヴはアンのベッド近くにある机へと向かう。そして、引き出しを開けてなにかを取り出した。それをシノユキへと差し出す。一冊のノートだった。
「これは、レナードの健康状態を記録するための日誌です。私が目を通した限りでは、当たり障りのない日常のことしか書かれていませんでしたが、あなたが読めばなにかを得られるかもしれません」
A4サイズの、なんの変哲もない市販のノート。手を伸ばして、一度ためらってから、それを受け取った。
「ありがとうございます。確認します」
「ええ。よろしければ、この部屋を使ってください。他の方にもお部屋を用意しますから。この階の突き当りに、男性用の簡単なシャワールームもあるので、そちらも自由に使ってください」
「……突然押しかけておいて、食事や寝床まで提供していただき、ありがとうございます。失礼なことを言ってしまってすみません」
冷静さを失ったことを悔いたシノユキを見て、イヴは優しく笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ。誰しもが少なからず罪を抱えています。それを省みて、正しくあろうとすることこそが、正しいことですから」
うつむいていたシノユキだったが、その言葉に顔を上げた。
イヴは一度丁寧に頭を下げ、「おやすみなさい」と言い残して部屋を出ていった。
それを見送ったシノユキは、ベッドに腰を下す。長い一日が終わろうとしている。疲労感が急激に押し寄せてきて、しばらくその姿勢のまま動くことができなかった。
海から吹いてきた風が、シノユキを呼ぶように窓を揺らす。それをきっかけに立ち上がり、窓の近くまで歩いていってそれを開けた。澄んだ空気が部屋に滑り込んでくる。
そのまま窓の脇の壁に肩を預けて、日誌の表紙を見た。
「……アンネの日記か」
独り言ちて、適当なページを開く。途中まではイヴが日誌を書いていたようだったが、ある日を境にアンの豪快な筆跡に変わっていた。そこからぱらぱらとページをめくりながら流し読みしていく。レナードの様子やその日食べた物のこと、意味不明な落書きなどが続き、オペレーションに関する記載はまったくなかった。
最後まで読み終わって、シノユキは日誌をレナードのベッドに置いた。それからベッドの下やクローゼットなど、なにか手がかりがないか探し始めるものの、二人がいなくなってからある程度部屋を片づけたらしく、特になにも見当たらなかった。
諦めかけていたその時。イヴが日誌を取り出した机の引き出しを開いて、それを見つけた。万年筆だった。それ自体はなんの特異性もない、ただの万年筆だったが、シノユキは思い出した。そして、足早にベッドの方へと歩き、再度日誌を手に取る。
シノユキはもう一度アンが書き始めた最初のページを開き、そのイデアを見た。
一文。英語で書かれた実際の文字を無視して、中央に、日本語で、縦に書かれていた。
“暦史書管理機構は戦争を計画している”