[5-10]
「なっ……!」
爬虫類のような皮膚。旅客機よりも大きな翼。黄金に輝く瞳。常識で言えば空想上の生き物であり、実在するはずがなかった。
しかし現実を受け止める暇すら与えることなく、その龍は一瞬にして艦橋の天井に激突し、それを引っぺがして飛び去った。
「リリィ!」
飛び散った破片を受けて体勢を崩していたヨミヒトは、艦橋の惨状を見て叫ぶ。すぐに反応して身を伏せていたため龍の直撃を受けることはなかったが、リリィは残骸の中に埋もれてしまっていた。
すぐに身を起こして残骸を投げ飛ばし、リリィを抱き起こした。呼吸はしているようだったが、残骸が頭に当たったのか、頬まで血が流れてきていた。
ヨミヒトはリリィの髪をかきわけて傷口を探し当て、ハンカチを取り出して圧迫する。
内心焦っていたヨミヒトだったが、リリィが握っていた端末がまだ通話中になっていることに気づき、手に取る。
「こちら艦橋だ、龍が現れた、リリィが負傷した!」
『わかった。俺とニーナで対処にあたる。リリィを安全な場所へ移せ』
常識外れの事態を疑うことなく、シノユキは冷静な判断を下すが、ヨミヒトは一呼吸置いて言った。
「……いや、俺がやる」
『待て、俺たちが行くまで――』
ヨミヒトは端末を置くと、リリィの腕にあったシュシュを使ってハンカチを固定し、立ち上がった。
龍は地球の重力下においても、力強い羽ばたきで空を舞っていた。艦橋を破壊して船尾の方向へ飛んでいったあと、獲物を品定めするかのようにゆっくりと旋回し、再度こちらへと向かってくる。
「天候は快晴。太陽は直上。周囲には影になるものがない海の上。なにかを壊す心配もない」
ヨミヒトはゆっくりと龍の方を向き、右手を前に突き出した。その瞳に静かな怒りを滲ませ、イデアに干渉する。雲一つない太陽の下であるにも関わらず、あたりが少し暗くなった。それと同時にヨミヒトの腕を取り巻くように陣が展開され、命令に従って光が収束し始める。
「全力全開だ」
その言葉を合図に光は一点に収束し、弾けるようにその手から放たれた。
光弾は線となって龍へ直進し、その巨体のほとんどを一瞬で蒸発させた。音はなかった。残った両翼の一部は、枯れ葉のように海へと落下した。
それを見届けたヨミヒトは、短く鼻から息を漏らし、その場に膝をつく。急激な強いイデアへの干渉によって、意識レベルが著しく低下していた。
はっきりとしない視界の中で、光弾によって海水面が蒸発してできた湯気が揺れている。その向こうの水平線から、なにかがこちらに向かってやってきていた。
それは鳥の群れのように見えた。しかしヨミヒトが残った力でスコープを展開して確認すると、それが鳥ではないことがわかる。
「嘘だろ……」
現れたのはまたしても龍。しかも、先頭の龍は先ほど落とした個体の二倍以上はある体躯をしていた。それに追随するように、おそらくは子供と思われる龍が飛んでいる。
限界だったヨミヒトが、完全に意識を失って倒れかかる。ぎりぎりのところで階段を駆け上がってきたニーナが抱きとめて支え、ゆっくりとその場に寝かせた。少し遅れて、シノユキも艦橋に到着する。
「まずいな。どうやら母親を怒らせたらしい」
龍は高速で接近してきており、すでに目視でも確認できる位置まで来ていた。
「……使うしかないか」
エイシストールでは範囲が足りない上、根本的な解決にはならない。あの龍すべてに対処するには、“禁書”を使うしかなかった。
具現化を始めようとして、ニーナにその腕を掴まれる。
「ヒリフダ市の件の報告書を読みました。禁書の使用は、あなたにもかなりの負荷がかかるのでしょう?」
「だが、このまま黙ってあいつらの餌になるわけにもいかない」
「私に任せてください。シノユキさんは二人を安全な場所へ」
そう言うと、ニーナはなんのためらいもなく艦橋から飛び降りた。
甲板に着地すると当時に完璧なタイミングで膝を曲げて衝撃を和らげ、落下の勢いは回転して殺す。そして起き上がると同時に走り出した。
上から見ていたシノユキは、その身体能力に驚きを隠せない。
ニーナは釣りをしていた場所へと迷いなく駆け、セーラの釣り竿の横に立てかけてあったもう一つのケースを手に取った。ファスナーを開け、中から取り出したのは、ドイツ製のボルトアクションライフルだった。ケースのポケットから五発の弾丸がセットされたクリップも取り出して、すぐさま船首の方へと走る。
船首にはワイヤーを巻き取るための大型の油圧式ウインチがいくつか設置されていて、船の縁も邪魔をしてしまうため、狙撃地点としては不適切だった。そこで、ニーナはライフルのストラップを肩にかけ、積み上げられたコンテナをよじ登る。
コンテナの上へたどり着くなり左膝を立てて座り、そこに左ひじをのせてライフルを構え、狙撃の体勢を取った。
ここまで二分も経っていないが、龍はすでに眼前に迫っている。
クリップから一発の弾丸を取り出すと、ニーナはそれを口の前に持ってきて呟いた。
「“家族を連れて帰りなさい”」
ボルトハンドルを引いて、その弾丸を薬室に押し入れ、装填する。
それからアイアンサイトを用いて先頭の龍に狙いを定めるが、船は波によって不規則に揺れており、一発勝負をするにはあまりにも分が悪かった。
すると、ニーナは腰のホルスターから愛用のナイフを取り出し、自分の左腕に突き刺した。傷口からは血が流れだし、痛みに顔をしかめる。ライフルを支えている腕を負傷したことで、当然照準は不安定さを増した。しかし――。
「“先頭の龍に当てなさい”」
ニーナがそう唱えた瞬間、照準は吸いつくように先頭の龍を捉え続けるようになった。
その後ニーナがすべきだったことは、充分に引きつけてからトリガーを引くことだけだった。
海上に乾いた破裂音が響く。
弾丸は船の揺れや気温や湿度、重力にコリオリの力まで考慮した上で完璧な軌道を辿り、龍の外皮に突き刺さった。ニーナの力は、対象に物理的ななにかを刺すことが条件になっている。それはナイフであろうが弾丸であろうが関係なく、釘を刺された通りに命令を守る。
ほどなくして、龍の群れは轟音を響かせながら貨物船の上空を旋回し、北の空へと向かって飛び去っていった。
ニーナはそれを見送り、左腕に刺さったナイフを引き抜く。
「いてて」
そしてそのナイフを指揮棒のように軽く振ると、再度傷口へと近づけた。
「アブダカタブラ、“傷よ塞がれ”」
そう言ってナイフで傷口をなぞると、傷は塞がり、出血は止まった。
「おーい! 大丈夫ですかー!」
不意に声をかけられて、ニーナは思わず声の方へとライフルを向ける。
「わっ、撃たないで撃たないで!」
逆光になっていて姿ははっきりと見えなかったが、声の主は空中に浮いていた。
古びた箒にまたがって。
「私、レイチェル・ガーネットって言いますー! とりあえずついてきてもらえますかー!」
ニーナはライフルを下し、わずかに微笑んだ。
「魔女のお出ましですね」