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五か月後。東京。
エドワードの足跡を辿るつもりだったアンだが、仔細な状況を知らないままで来日したため、渋谷の街をただ歩くことしかできなかった。エドワードの死から時間も経ち、街にその痕跡は一切残されていない。交差点を行き交う人々も、少し前に起こった飛び降り自殺のことなど忘れてしまっているだろう。仕方のないことだと思いながらも、どこか腹立たしい気持ちだった。
アンは立ち止まり、用意していた一輪の百合の花を道端に置いた。
「誕生日おめでとう、エドワード」
アンは呟いて、マフラーに顔を埋めてまた歩きはじめる。
結局何の情報も得られないまま、アンは渋谷駅から再度電車に乗った。電車内では酔った老人がいびきをかき、若いカップルが談笑している。そんな全ての音が雑音でしかなく、耳についてたまらなかった。
「どうしてこの国で死ぬ必要があったの……」
吊り革を握り締めながら、アンはその疑問を口にした。
アンは山手線を上野駅で降り、公園口を出た。ショルダーバッグに手を突っ込み、一冊の本を取り出す。不吉な表紙を睨んでからそれを裏返し、最後のページを開く。そこに血の署名はなかったが、代わりにエドワードが書いたと思われる計算式が並んでいた。その計算はすでにアンが答えを出していて、
"35.7150394"
"139.7754758"
という二つの数字が余白に書き足されている。
アンはスマートフォンを取り出し、もう一度その数字を検索エンジンに打ち込んだ。表示されたのは、国立西洋美術館を表示したマップだった。
上野駅から数分歩いたところに国立西洋美術館はある。ゆるいスロープを上って美術館内に向かう途中、アンの目にロダンの“地獄の門”が映った。
「……“この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ”」
ダンテの神曲の一文を口の中で呟き、アンは美術館へと入っていった。
平日の午後ということもあってか、館内はほとんど人気がなかった。アンは右の通路へと進み、企画展の開催されているスペースへ向かう。
クリスマスということもあり、企画展は宗教画特集となっていて、キリスト教にまつわる様々な絵画が展示されていた。しかしそれは、どれも資料で目にしたことのある作品だった。美術的価値には興味がないアンにとって、実物だろうとカラー写真であろうと大した差はなかった。
美術館を出たアンは、一つ溜め息をつく。白い息が漂った。それが霧散して、その先に見えた彫像に視線が移る。
「……可哀想に」
吐き捨てるように言って、その彫像の正面へと回り込んだ。
ロダンの“カレーの市民”。アンは並び立つ六人の姿を見上げた。カレーの市民は、本来鑑賞者と同じ地面の高さに展示するように作られている。しかし国立西洋美術館のそれは、高々と台座の上に展示されていた。
「イングランドの王、エドワード三世は、カレー市の主要なメンバー六人に城門の鍵を持って来させ……」
アンは言葉の途中で突然黙りこむと、スマートフォンを取り出した。そして開きっぱなしだったマップを、さらに拡大していく。
「この場所……」
エドワードが残した座標は、正確には今まさにアンが立っているその場所を示していた。
「“真実は前を向く者の視線の先にある”……」
目の前には、ジャン・デールの彫像があった。ジャン・デールは他の五人が項垂れる中、ただ一人顔を上げて行く先を見据えている。
アンはその視線の先を見ようと振り返るが、草木や建物に邪魔されて見えない。もう一度スマートフォンに目を移し、マップをジャン・デールの視線に沿ってスクロールしていく。
「……ここって……」
その線は思いがけない場所へと真っ直ぐに伸びていた。
「エドワード……この国には何かあるのね」
アンはもう一度彫像を見上げた。残されたコロンシリーズと、この場所の座標。エドワードが何かを伝えようとしていることは明白だった。
“National Archives of Japan ”という文字を、アンは見上げていた。
国立公文書館。ジャン・デールの視線の先にある建物の中で、ここが最もコロンシリーズに関係しているのではないか、とアンは踏んだのだった。
中に入り、カタコトの日本語で受付の職員に声をかける。英語で応対してくれたので、アンは安堵した。
「本について、訊きたいことがあるんですが」
「どんな本ですか?」
「その……これなんですけど」
アンはショルダーバッグから黒いハードカバーの本を取り出し、カウンターに置いた。職員はその本を見て、それからアンの顔を見て、もう一度本に目を落とした。
「……一体どこでこの本を」
「死んだ友人に、託されました」
「そうですか……。とりあえずその本をしまってください。あまり人目に触れて良いものではありません。担当の者のところへご案内します」
職員の案内でエレベーターに乗ると、地下二階の書庫まで下りた。書庫は鞄の持ち込みが禁止されているため、コロンシリーズだけを持って、持ち物はコインロッカーに預けてある。
小部屋を抜けて書庫に入ると、古い紙の匂いがアンの鼻腔をくすぐった。紫外線を除去した柔らかな照明に照らされて、貴重な公文書が収められた書架が並んでいる。しかしその書庫に誰かがいる気配はなかった。
「こちらです」
職員が書架の間を歩きはじめたので、アンもそれに続く。そして書庫の端まで来ると、そこには鉄製のドアがあった。職員が鍵を開けてドアを開く。
そのドアは、コンクリートでできた下り坂のトンネルへと繋がっていた。
トンネルの中から鍵をかけ直し、また歩き出した国立公文書館の職員に、アンはついていく。
「どこへ向かっているんですか? なぜ公文書館の中にこんなトンネルが?」
質問に返答はなかった。ただ、入館したあとに辿った経路から、どうやら南下しているらしいということだけはうっすらと感じ取れていた。
やはりこの国には何かある。アンは確信しつつあった。
少し歩くと、下り坂から平坦な道に変わる。そのトンネルは色々な場所へと繋がっているらしく、途中いくつかの横道があった。どれも先は見えなかったが、東京の至るところに、この地下迷宮へと繋がる扉があるようだった。一定間隔で監視カメラが設置されており、その狭さも相まって居心地の良い場所とはとても言えなかった。
数分歩いて最終的に職員が立ち止まったのは、入ってきた時と同じような無味簡素なドアの前だった。
「中に担当の者がいますので、その本を見せてください。その後のことは担当者に一任することになっています」
アンが頷くと、職員が扉の脇にあるインターフォンのようなものを押した。間の抜けた電子音が響く。
「有栖川様。コロンシリーズの件でお客人が」
その声に反応してか、ドアの中で複雑な施錠機構が動き出したようだった。最後に一際大きな音を立てて、鍵が開く。職員がアンの後ろへと下がって、ドアを開けるように促した。
アンは喉の渇きを感じながら、そのドアノブに手をかけた。
どんな悪の秘密結社が待っているのかと内心恐怖を感じていたアンだったが、厳重なロックのドアの先にあったのは一般的な日本家屋の玄関だった。
「ようこそお越しくださいました」
そう言って、黒いワンピースの少女が丁寧に腰を折る。戸惑いを隠せないアンの背後でドアが閉まった。
「英語の方がいいでしょうか?」
聞き慣れた言葉で声をかけられて、アンは我に返る。
「ええ。日本語はあまり勉強したことがないの」
「承知いたしました。立ち話もなんですから、どうぞ上がってください」
促されるままに玄関に上がろうとして、
「すみません、靴は脱いでいただけますか」
少女に指摘され、アンは慌ててブーツの紐を解いた。
通されたのは、一つのテーブルと向かいあったソファが置かれた洋室の客間だった。窓はなく、中は暖色の照明で照らされている。
「和室もあるのですが、こちらの方がリラックスできると思いまして。どうぞかけてください」
アンはもはや操り人形のように言われるがままに動いた。状況を理解しようと様々な推論を立てるが、さっぱり見当がつかない。
ほどなくして、少女が二つのカップとポットの載ったトレイを運んできた。
「コーヒーの方が良かったでしょうか」
日本人らしい気遣いを見せながら、少女はカップに紅茶を注ぐ。ソーサーに載せてアンの前に置くと、自分の分も用意してソファに腰を下ろした。そして軽く頭を下げる。
「申し遅れました。私、有栖川ユウコと申します」
「ああ……そうね。私はアン。アンネ・ラインハルト」
「お会いできて光栄です。アンネさん」
「……ユウコ。一つ相談をしてもいいかしら」
「なんでしょう?」
「今、私の頭の中には両手じゃ数えきれないくらいの疑問が浮かんでいるの。どれから質問していけばいいと思う?」
「お好きなように、と言いたいところなのですが、まずその本を見せていただいてもよろしいですか?」
ユウコはアンの膝の上にある黒いハードカバーを指して言う。
「いいわ。まずこれから訊きましょう。この本は一体なんなの?」
アンはそれをテーブルの上に置いた。ユウコが受け取り、表紙や内容を簡単に検める。
「アダムズ家が保管していた個体に間違いありませんね」
「……エドワードを知っているの?」
「ええ。実際にお会いしたのは今年の夏が初めてですが、以前からお名前は存じておりました」
「夏って……あなた、まさかエドワードが死んだ原因を知っているの?」
それを聞いて、ユウコは息を呑んだ。
「エドワード様は、亡くなられたのですか……?」
期待した答えが得られず、アンは脱力してソファにもたれかかった。
「ええ。渋谷のビルから飛び降りてね。ニュースにもならなかったの?」
「申し訳ありません。一般的な教養は知識として身につけているつもりなのですが、ニュースはあまり目にすることがありませんので……。その、ご冥福をお祈りします」
「……女の子がこんなところに閉じ込められて娯楽もないなんて。この国はどうなっているの?」
不器用ながらもそれが気遣いの言葉であることを感じて、ユウコは微笑む。
「これが私の役割ですから、いいんです。それに娯楽がないというわけでもないんですよ」
そう言うとユウコは立ち上がった。
「ついてきていただけますか?」