[4-18]
鳥のさえずりが聞こえた。薄く目を開けるが、窓から差し込む夕日が眩しくて顔をしかめる。
アンは少しの間まどろんだあと、意を決して身体を起こした。
そこはハーバード大学の寮だった。雑多に本が詰まれ、着替えが散乱している慣れ親しんだ自分の部屋。
だがどこか、印象がはっきりとしない。それがなにかは認識できるが、はっきりと形を取っていない。まるで夢の中にいるようだった。
不意に猫の鳴き声がして、アンは部屋の入口の方を見る。
黄色い目の黒猫が、綺麗に足を揃えてそこに座っていた。猫はもう一度鳴くと、振り返って寮の廊下を歩いていく。
「素敵な夢だわ」
アンは呟いて笑うと、ベッドを下りて黒猫のあとを追いかけた。
黒猫は階段のところでアンを待っており、近づくと階段を下りていく。
「エスコートが上手な黒猫」
黒猫に連れられて、アンは大学の中を散歩する。普段はそこかしこに学生の姿があるものだが、不思議なことに他の人の姿はなかった。
夕暮れの大学内を爽やかな風が吹き抜け、アンのぼさぼさの髪を揺らす。心地の良い時間だった。
黒猫は中庭を抜けて、赤煉瓦でできた古い建物の方へと歩いていく。
「……わかったわよ、あなたがどこへ私を連れていきたいか」
建物の中に入って少し歩くと、黒猫は思った通りの場所で足を止める。
アンはそのドアの前でしゃがみこんで、黒猫の頭を撫でた。
「案内ありがとう」
立ち上がると、アンはいつもの調子でノックもせずにドアを開けた。
かび臭い本の匂い。本の影が並ぶ床。使い古され、落書きだらけの椅子と机。大学を去ってまだそれほど時間が経っていないにも関わらず、強い郷愁を感じる。
だがそこに誰かがいることに気づいて、アンは少し身を引いた。
「……エドワード?」
「いいえ、残念ながら」
窓際の椅子に腰かけ、影の中で本を読んでいた男は、それを閉じて立ち上がった。
「初めまして。エドワードの知り合いの者です」
白いシャツを着た柔和な顔の男は、微笑んで歩み寄ってくる。
「エドワードに友だちなんていたかしら……」
「いましたよ。でも私は、正確には友だちではありませんね」
「じゃあなんなの?」
「天使。あるいは地獄の番人とでも言いましょうか」
アンは少し悩んだ。
「あなたやばい人ね?」
「うーん……もっと単刀直入に言うべきですね」
男は苦笑する。
「私はケルビム。エーフェスの命により、実在の世界とイデアの境界を案内しています」
「ケルビムってあなた……天使? 本当に?」
「本当ですよ。どうかそこは鵜呑みにしてください。座って、少し話しましょう」
ケルビムに勧められて、いつも座っていたテーブルの端の椅子に腰かける。ケルビムはそれを見て、反対側の端の椅子に。
「ということは……私死んだのね?」
「そう結論を急がないでください。確かに私は、肉体を離れた心を案内する者です。本来ならばあなたにも、生まれ変わるか、永遠にイデアを彷徨うかの選択をお願いするところなのですが……。今回は少し特殊でして」
「特殊?」
「確かにあなたは今、死に瀕している。ですがあなたは、それを覆すことができる」
アンは思い悩むように沈黙する。
「正直これまでのこと、あまりよく思い出せないの。私にそんな力があるとは思えないし……。だけど一つだけはっきりしていることがあるわ。まだ死にたくはない」
ケルビムは深く頷いた。
「そうおっしゃると思っていました。エーフェス――いや、エドワードからの言伝があります」
「エドワードから……?」
アンは身を乗り出す。
「“始めに言葉ありき”です」
「……なぜ今、ヨハネによる福音書なの?」
「あなたも聞いたはずです。イデアは言葉であるという話を」
「……ええ、確かに」
「あなたは力を持っているんですよ。“イデアという言葉を書き換える力”を」
その意味を理解するまでに、時間はかからなかった。
アンは創り出す。アイデア・ノートではなく、アイデア・ノートに書き込むために使っていた万年筆を。
・・
アンの目が薄く開く。そして、右手がかすかに動き始める。
「……アン?」
最初はアンの指先からだった。拷問で剥がされた爪や、ガラス片による切り傷が、綺麗に治っていく。それによって右手はさらに動きを増していく。
シノユキはイデアを見た。アンは床になにかを書いていた。しかしそれは、様々な異端書に目を通したシノユキですら知らない言語だった。
その文字は美しかった。
アンがその文字を紡ぐと、その周辺の心が形を変えていく。崩れかけ、曖昧になっていた印象が形を取り戻していく。
手から腕、肩、焼かれた髪も元に戻っていく。顔の傷や打撲の痕も消え、アンの目に生気が宿り始める。
「……アン! お前っ……」
「泣くんじゃないわよ……男でしょ……」
アンは言葉を紡ぎ続ける。滲んだ文字を書き直すように。歯抜けになった小説を埋めるように。
その様子を、マシューは目を細めて見ていた。
アンは起き上がると、ついには自分の足を書き始める。焼失したはずの足は、輝く粒子を舞い散らせながら再生していく。
「お前……その力は……」
「黙って」
アンの足が完全に元に戻ると、今度はシノユキの足を書き始める。
「あなたこそ、なによその羽根。鳩にでもなったの?」
シノユキはこらえ切れず、アンを抱きしめた。
「良かった……生きていてくれて……」
アンは驚いたが、すぐにその抱擁を受け入れる。
「ありがとう、助けてくれて。――もう大丈夫よ」
ゆっくりと丁寧に、アンはシノユキを書き直した。髪の色は元に戻り、羽も消えた。
アンは立ち上がり、ジェームズの方を見た。
「おはようございます、ジェームズ教授」
「き、君は……一体……」
「天使か、地獄の番人と言ったところかしらね」
アンはそこにいた男三人に向かって筆を走らせた。そしてマシューの方を振り向く。
「終わったわ。この街全部、書き直してもいいわよ」
全身の肌が粟立つのを、マシューは感じた。
「やはり、君は……“真のコロニスト”――」