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COLON:SERIES - アンネ・ラインハルトの記録  作者: 志室幸太郎
ANNE:2018 - アンネ・ラインハルトの福音
36/53

[4-18]

 鳥のさえずりが聞こえた。薄く目を開けるが、窓から差し込む夕日が眩しくて顔をしかめる。

 アンは少しの間まどろんだあと、意を決して身体を起こした。

 そこはハーバード大学の寮だった。雑多に本が詰まれ、着替えが散乱している慣れ親しんだ自分の部屋。

 だがどこか、印象がはっきりとしない。それがなにかは認識できるが、はっきりと形を取っていない。まるで夢の中にいるようだった。

 不意に猫の鳴き声がして、アンは部屋の入口の方を見る。

 黄色い目の黒猫が、綺麗に足を揃えてそこに座っていた。猫はもう一度鳴くと、振り返って寮の廊下を歩いていく。


「素敵な夢だわ」


 アンは呟いて笑うと、ベッドを下りて黒猫のあとを追いかけた。

 黒猫は階段のところでアンを待っており、近づくと階段を下りていく。


「エスコートが上手な黒猫」


 黒猫に連れられて、アンは大学の中を散歩する。普段はそこかしこに学生の姿があるものだが、不思議なことに他の人の姿はなかった。

 夕暮れの大学内を爽やかな風が吹き抜け、アンのぼさぼさの髪を揺らす。心地の良い時間だった。

 黒猫は中庭を抜けて、赤煉瓦でできた古い建物の方へと歩いていく。


「……わかったわよ、あなたがどこへ私を連れていきたいか」


 建物の中に入って少し歩くと、黒猫は思った通りの場所で足を止める。

 アンはそのドアの前でしゃがみこんで、黒猫の頭を撫でた。


「案内ありがとう」


 立ち上がると、アンはいつもの調子でノックもせずにドアを開けた。

 かび臭い本の匂い。本の影が並ぶ床。使い古され、落書きだらけの椅子と机。大学を去ってまだそれほど時間が経っていないにも関わらず、強い郷愁を感じる。

 だがそこに誰かがいることに気づいて、アンは少し身を引いた。


「……エドワード?」

「いいえ、残念ながら」


 窓際の椅子に腰かけ、影の中で本を読んでいた男は、それを閉じて立ち上がった。


「初めまして。エドワードの知り合いの者です」


 白いシャツを着た柔和な顔の男は、微笑んで歩み寄ってくる。


「エドワードに友だちなんていたかしら……」

「いましたよ。でも私は、正確には友だちではありませんね」

「じゃあなんなの?」

「天使。あるいは地獄の番人とでも言いましょうか」


 アンは少し悩んだ。


「あなたやばい人ね?」

「うーん……もっと単刀直入に言うべきですね」


 男は苦笑する。


「私はケルビム。エーフェスの命により、実在の世界とイデアの境界を案内しています」

「ケルビムってあなた……天使? 本当に?」

「本当ですよ。どうかそこは鵜呑みにしてください。座って、少し話しましょう」


 ケルビムに勧められて、いつも座っていたテーブルの端の椅子に腰かける。ケルビムはそれを見て、反対側の端の椅子に。


「ということは……私死んだのね?」

「そう結論を急がないでください。確かに私は、肉体を離れた心を案内する者です。本来ならばあなたにも、生まれ変わるか、永遠にイデアを彷徨うかの選択をお願いするところなのですが……。今回は少し特殊でして」

「特殊?」

「確かにあなたは今、死に瀕している。ですがあなたは、それを覆すことができる」


 アンは思い悩むように沈黙する。


「正直これまでのこと、あまりよく思い出せないの。私にそんな力があるとは思えないし……。だけど一つだけはっきりしていることがあるわ。まだ死にたくはない」


 ケルビムは深く頷いた。


「そうおっしゃると思っていました。エーフェス――いや、エドワードからの言伝があります」

「エドワードから……?」


 アンは身を乗り出す。


「“始めに言葉ありき”です」

「……なぜ今、ヨハネによる福音書なの?」

「あなたも聞いたはずです。イデアは言葉であるという話を」

「……ええ、確かに」

「あなたは力を持っているんですよ。“イデアという言葉を書き換える力”を」


 その意味を理解するまでに、時間はかからなかった。

 アンは創り出す。アイデア・ノートではなく、アイデア・ノートに書き込むために使っていた万年筆を。


    ・・


 アンの目が薄く開く。そして、右手がかすかに動き始める。


「……アン?」


 最初はアンの指先からだった。拷問で剥がされた爪や、ガラス片による切り傷が、綺麗に治っていく。それによって右手はさらに動きを増していく。

 シノユキはイデアを見た。アンは床になにかを書いていた。しかしそれは、様々な異端書に目を通したシノユキですら知らない言語だった。

 その文字は美しかった。

 アンがその文字を紡ぐと、その周辺の心が形を変えていく。崩れかけ、曖昧になっていた印象が形を取り戻していく。

 手から腕、肩、焼かれた髪も元に戻っていく。顔の傷や打撲の痕も消え、アンの目に生気が宿り始める。


「……アン! お前っ……」

「泣くんじゃないわよ……男でしょ……」


 アンは言葉を紡ぎ続ける。滲んだ文字を書き直すように。歯抜けになった小説を埋めるように。

 その様子を、マシューは目を細めて見ていた。

 アンは起き上がると、ついには自分の足を書き始める。焼失したはずの足は、輝く粒子を舞い散らせながら再生していく。


「お前……その力は……」

「黙って」


 アンの足が完全に元に戻ると、今度はシノユキの足を書き始める。


「あなたこそ、なによその羽根。鳩にでもなったの?」


 シノユキはこらえ切れず、アンを抱きしめた。


「良かった……生きていてくれて……」


 アンは驚いたが、すぐにその抱擁を受け入れる。


「ありがとう、助けてくれて。――もう大丈夫よ」


 ゆっくりと丁寧に、アンはシノユキを書き直した。髪の色は元に戻り、羽も消えた。

 アンは立ち上がり、ジェームズの方を見た。


「おはようございます、ジェームズ教授」

「き、君は……一体……」

「天使か、地獄の番人と言ったところかしらね」


 アンはそこにいた男三人に向かって筆を走らせた。そしてマシューの方を振り向く。


「終わったわ。この街全部、書き直してもいいわよ」


 全身の肌が粟立つのを、マシューは感じた。


「やはり、君は……“真のコロニスト”――」

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