[4-17]
「う……」
ヒノテに水を浴びせられて、気を失っていたアンはまた目を覚ます。顔にはガラス片による切り傷だけではなく、殴られたような痣もできていた。
「アンネ・ラインハルト。申し訳ないですが、これは君から情報を引き出すための手続きです。必要な情報を手に入れるまで続きますよ」
「……喋らないって、言っているでしょ……」
容赦のない平手打ち。薄暗い倉庫に乾いた音が響く。
アンは涙を滲ませながらも、決してその口を開こうとしない。ヒノテはアンの髪を掴み、顔を寄せる。
「なんだかんだ言っても自分はなにかに守られていて、酷い目に合うなんてことはない。とでも思っていましたか?」
アンは答えない。
「正直な話をしよう。僕は心置きなく自分の力を振るいたいだけなんだ。なぜなんの能力も持たない奴らがこの国の上層にいて、特別な力を持った僕たちがお前たちに怯えて生きなければいけない。だからもう、ダリアと君の交換がどうなろうと知ったこっちゃないんだよ」
その言葉を、アンは鼻で笑った。
「なにがおかしい」
「……表面上は誠実そうに振舞っていても、あなたはやっぱり思った通りの小物だった……なにが特別よ……ただの底の浅い男だわ……」
ヒノテの目が炎のように揺れる光を放った。アンの髪を乱暴に掴み、鳩尾に膝蹴りを入れる。呼吸ができなくなって、喉だけが苦しげに鳴った。
さらに、周囲に異臭が漂い始める。掴まれていたアンの髪が、毛先から燃え始めていた。
「消えろ」
全力の干渉を行おうとしたその時、遠くの方でなにかが崩れるような音がした。少し遅れて叫び声が。それは同時多発的に様々なところで始まり、鉄のひしゃげるような音や、爆発音も交じり始める。
「な、なんだ――」
ヒノテの言葉を遮るように天窓のガラスが割れ、倉庫の中に火の球のようなものが落ちてきた。降り注ぐガラス片と土煙。
「見つけたぞ……」
顔を覆って破片を防いでいたヒノテは、腕越しに煙の方を見た。
一陣の風が吹いて、視界を遮っていたものが吹き飛ばされる。
「お前は……!」
そこにいたのは長南シノユキだった。だがその風貌は前回相対した時とはまるで違う。
黒々としていた髪は純白に変色し、目は赤い光を帯びている。右手には光を纏った剣のようなものを持ち、そしてなにより印象的だったのが――。
「なんだ……その翼は……」
シノユキの背には一対の白い翼が生えていた。呼吸に合わせて艶めかしく動き、皮膚を突き破った時の鮮血が点々と付着していて、作り物ではないことが一目でわかる。
「アルマンダルという本を知っているか? 古の魔導書の一つだ。その本には天使の召喚に関する記述がされている」
「天使を……召喚……?」
「俺も使うのは初めてなんだ。どういう結果になるかわからなかったからな。だが――こういうことらしい」
シノユキの意志に従って、天使の翼が力強く空気を叩きつける。一瞬でヒノテの眼前へと肉薄し、形而上の剣を振るった。
アンの髪を掴んでいたヒノテの腕が宙を舞う。
蒼白な顔で、ヒノテは自分の腕があった場所を見た。心臓が脈打つ度に鮮血が噴き出す。
「ああ……なんで……ああ……」
「因果応報なんて傲慢な言葉を使うつもりはないが――」
腕の中にいる満身創痍のアンを見て、シノユキは唇を噛みしめた。
「お前は俺のパートナーを傷つけた。その代償は払ってもらう」
シノユキは剣の形象を散らすと、手を天へと掲げる。そこに現れたのは、光と稲妻によって構成された形而上の槍だった。
「僕を殺すか……いいだろう」
「これで俺も業を背負うことになる。イデアで会おう」
軽く腕を振ると、槍は光速でヒノテの胸を貫いた。だがヒノテはその瞬間、口角を上げて笑ってみせた。
「――燃えろ」
「……っ!」
そう言ってヒノテが倒れた瞬間。油が撒かれた床に火のついたマッチが落ちたかのように、周囲のすべてが一斉に燃え上がった。火はシノユキがアンを抱えて飛び立つ動作よりも早く、絡みつくように二人の足から服に燃え移る。
シノユキはできる限りの速度でヒリフダ市の上空を滑空するが、火は消えない。自分の力ではどうにもならないことを悟って、進路をヤルダバオートのビルへと取った。
マシューたちが交渉を行っている部屋に目星をつけ、まっすぐに飛び続ける。そして窓に激突する直前。その翼で自身とアンを覆った。
そのままの勢いでガラスを突き破り、二人は交渉の最中だった会議室へと転がり込む。
一同が部屋の隅で茫然としている間にも、ヒノテの炎は二人を焼き続けていた。“すべてを焼き尽くす”というヒノテの今際の際の思いに従うように。
「リリィ! この火を消してくれ!」
「え、でも……ここには充分な水がない……!」
「頼む……!」
シノユキの必死の訴えに、リリィは大きく息を吸った。目を閉じ、自分の胸に拳を当てる。そしてそれをゆっくりと開く。
手が冷たい。流れているのを感じる。確かに水の存在をイメージできる。
「溢れ出す……」
手のひらの虚空から、水が零れ落ちた。リリィは確信した。
自分にもできるということを。
リリィは海辺で水を掬いかけるように、大きく手を振った。無から生み出された大量の水は、アンとシノユキを覆う。炎は酸素を失って、ようやく消え去った。
しかし、それは遅すぎた。
二人の足は膝のあたりまで焼失していた。リリィは口を手で覆い、目をそらす。ヨミヒトも直視することはできなかった。
「アン……?」
シノユキが呼びかけても、アンは目を開かない。
「おい、嘘だろ……」
顔に触れると冷たかった。唇に手を当てても、呼吸を感じることはできなかった。
「やめてくれ……もう嫌なんだ……アン――」