[4-16]
明朝。
シノユキはヒリフダ市にあるビルの屋上から、ヤルダバオート本社を静かに見ていた。山から朝日が顔を覗かせて、目を細める。
その手からは血がしたたり落ちていた。屋上には血の印が刻まれており、シノユキはその中央に立っている。
街が動き出し始める音を聞きながら、シノユキは虚空へと手をかざした。
イメージする。赤茶けた革の表紙。日に焼けたページ。古書特有の甘い香り。骨を焼いた煤から作られたインク。記憶するために本と一緒に過ごした日々。
そしてその名を呼ぶ。
「――アルマンダル《銀の尖筆》」
古来より魔導書や呪文のようなものは実在していたが、それが次第に機能しなくなったのは最も重要なものが欠けていたからだった。
それは“血”。
どんな魔具も言葉も、神によって選ばれた血なくしては意味を成さない。
だがこの場にはすべての条件が揃っていた。
出血によって遠のく意識の中、シノユキは茜色の空から一冊の本を取り出していく。完全に姿を現したそれを、血の印の中央へと置いた。
ラテン語による詠唱が始まると、周囲に輝く粒子が舞い始める。その声はイデアを通して、“神話や伝承の中にしか存在しないとされていた者たち”へと届く。
最後にシノユキはこう呟いた。
「――ミカエル」
ヒリフダ市の空に、天使の羽根が舞った。
・・
「まさか、暦史書管理機構のトップがお出ましになるとは思わなかった」
「アメリカ人同士の方が話が通じるでしょう。お国柄というものもありますしね」
ヤルダバオート本社の応接室で、ジェームズとマシューが対面していた。ジェームズの背後にはイーサンとサイモン、マシューの背後にはリリィとヨミヒトが控える。
「あなた方の祖先は、ジーニアスたちを集めてこの街を作ったんですね」
「この街を見てどう思う?」
マシューは窓の外に広がる都市へと目をやる。
「素晴らしい街だと思いますよ。経済的に成功しているようですし、人々の生活も充実しているらしい」
「なぜかわかるかね。それは皆が、自分の才能を如何なく発揮しているからだ」
「……この街では、異能力が日常的に使用されていると?」
「ああ。君たちに感知されない程度にね。こうしたエトセトラの街は世界各地にある。君たちとは違って、堂々と表の世界に」
出されたコーヒーのカップを揺らしながら、マシューは微笑んだ。
「羨ましいことです」
盛大に音を立ててコーヒーを啜るマシューを見て、ジェームズは眉根を寄せる。
「それがこの国の他の街はどうだ。皆電車に押し込められ、やりたくもない仕事を嫌々こなし、鬱屈とした日々を送っている。ジーニアスだけではない、無数の才能が日の目を見ることなく散っていってしまう。悲劇的だよ」
「それは少し論点がずれている気がしますけどね。まぁ否定はしませんよ」
「私が言いたいのは、なぜ抑えつける必要があるのかということだ」
ジェームズは身を乗り出す勢いだったが、マシューは冷静に話を呑み込む。
「銃や兵器の規制と似たようなものですよ。行き過ぎた力は使い方を誤れば身を滅ぼし、星を滅ぼしてしまう」
「その規制を君たちだけが行っていることに、違和感を覚えるのは私だけだろうか。存在を公にした上で、管理や規制の方法を世界的に決めていくべきではないか?」
「なるほど、正論です。ですが――あなたたちが超能力と思っているものは銃や兵器ほど単純なものではない。日本には“餅は餅屋”という言葉があるらしいじゃないですか。そういうことですよ」
落胆したように、ジェームズは息を吐いた。
「我々は蚊帳の外ということか……。同じ力を与えられながら……。エトセトラの名のごとく……。これまでも、これからも……」
「同じ力――まさかあなたたちは……」
「ようやく気づいたかね。そう。我々は神より力を与えられながら、裏切りによって暦史に名を刻めなかった者の末裔だ」
ジェームズは淡々と言う。
「なるほど、納得しました。あなたたちが我々に執着する理由」
「同情など望んでいない。ましてや、祖先の犯した罪の赦しを請うつもりもない。我々は我々の力で、暦史を管理する座へと返り咲くまでだ」
「要求は変わらない、ということですか」
「その通りだ。どちらに転んでも君たちの暦史は終わる」
マシューはテーブルにカップを置き、何度か頷いた。
「わかりました。ダリアを引き渡しましょう。アンはどこに?」
「工業地帯だ」
その声は、通話状態になっていたヨミヒトの端末を通じてシノユキへと届いた。