[4-10]
「ヒノテの名前を聞いた時のイーサンの顔、最高だったわね」
「まったく、徹頭徹尾無茶苦茶だ……」
二人は無事解放され、ヤルダバオートのビルを背にヒリフダ市を歩いていた。アンの先導で、人気のない路地へ入る。
「イーサンは利用されているだけみたい」
「ああ。おそらくエトセトラは本気で国家を作ろうとしている。さながらここは約束の地というわけだ」
「ジーニアスの国……。実現したらどうなると思う?」
「間違いなく、世界の脅威となるだろう。エトセトラの規模がどの程度のものかわからないが、所属しているジーニアスの性質によっては国を侵略することも難しくはない」
「本気なの?」
「俺が千人いたとしたらどうだ」
少し考えて、アンは肩をすくめた。
「……やり方次第では、って感じ」
「しかも相手のジーニアスの能力は未知数。下手をしたら暦史書管理機構総出でも太刀打ちできないかもしれない」
「そうなったら終わりかしらね……」
話が最悪の結末に至って、二人は押し黙った。しかしすぐにアンが口を開く。
「ねえ、一つ思ったことがあるんだけど」
「なんだ」
「なぜ暦史書管理機構はジーニアスたちを隠そうとするの? イーサンの話じゃないけれど、もっと表に出て活躍してもいい気がするわ」
「お前、イデアのエーフェスの話を聞いたか?」
「ええ。……ああ、そういうことね」
「そういうことだ。行き過ぎた力は、人類の寿命を縮めてしまう。ゆえに我々がコントロールしなければいけない」
「この星の延命措置、か。少し傲慢な考え方にも思えるけど」
「エトセトラに鞍替えするか?」
「いいえ。私はエドワードの信じたものを信じる」
シノユキは薄く微笑んだが、路地の突き当りを曲がったところでいつもの険しい表情に戻る。アンも気づいて足を止めた。
少し先には、奇妙なデザインのコートを着た何者かが立っていた。
「……なにか?」
「ぎひひ、ぎひ」
路地に不気味な笑い声が響く。
「やばいやつ?」
「隠れてろ」
シノユキはアンを路地の奥に押しやると、眼前の敵に注目する。
その顔は中性的で、一見しただけでは性別が特定できない。コートによって全身がほとんど隠れているため、体格や武器の有無さえもわからなかった。
加えて距離が近い。悠長にエイシストールの書を実体化させる余裕はない。
「話ができるか?」
「話? が、できる」
「名前は?」
「名前っ。ダリアっ」
「ダリア。そこを通してほしいんだが」
「ぎひーっ」
歯を剥き出しにして笑う。
「それ、できない。殺せ、言われてる」
「……あまり得意じゃないんだが」
シノユキはコートを脱ぎ捨て、肉弾戦を想定して立つ。
「あ? やる? やる?」
ダリアは嬉しそうにその場で飛び跳ねた。そして何度目かで、勢いを利用して前へと飛び出す。
スプリンターのような前傾姿勢でシノユキに迫り、コートの袖を横なぎに振った。
当初シノユキは、まだ間合いに入っていないと考えて軽く後退しようとしていた。しかしそのコートの中に見えた手の形を見て、咄嗟に腰を落とす。
頭上で風を切るような鋭い音がして、次にビルの壁を這っているパイプが真っ二つに切断された。
シノユキはそのまま後転し、さらにダリアとの距離を取る。
「あーっ、あーっ」
ダリアは悔しそうに地団駄を踏んだ。
「こいつ、ジーニアスか……!」
「どういうこと?」
「イデアを見ろ!」
言われて、アンはダリアのイデアを見る。そのコートの両袖からは、刃渡り六〇センチを超える曲刀が伸びていた。
「イデアの、剣……?」
「おそらく、奴の殺意が最高潮に達した瞬間のみ実体化する。暗殺におあつらえ向きの能力だ。気づけなければ、首が飛んでいたな……」
「むーっ、むーっ」
ダリアは不満そうに頬を膨らませている。
「おい、俺が時間を稼ぐからシンに連絡を」
「わかった!」
その意味をよく理解してはいなかったが、ダリアは逃げ出した者を本能的に追いかけようとする。しかしシノユキが立ちはだかったため、障害物を排除する感覚で刃を振るった。
だがその斬撃は、シノユキがダリアの手首を取ったことで止まった。
「へっ?」
「軌道が読めれば止めることは容易い」
「いへっ」
驚きの表情はすぐに楽し気な笑みへと変わる。ダリアは地を蹴り、逆上がりの要領で身体に巻きついてシノユキを拘束する。常人離れした身のこなしだった。
すぐに倒れ込むようにしてダリアの身体をビルの壁へと打ちつけるが、拘束の力は尋常ではなく、シノユキが地面に転がっても、骨がきしむほどに締めつけた。
さらにダリアの冷たい手がシノユキの首元へと触れる。そして耳元で囁いた。
「今、出したら死んじゃうね」
「……そう、だな」
「死んじゃう? 死んじゃっていい?」
シノユキの視線の先には、路地によって切り取られた青い空が見えていた。そこになにかが集まりだし、日の光を反射して輝く。その輝きは次第に収束していき、一筋の光となって路地の中に差し込んだ。
「それは困る……っ!」
苦しみによってもがいているように見せかけながら、シノユキは慎重にダリアの位置を調整する。
「今だっ!」
「今よ!」
シノユキの合図を、陰から状況を見ていたアンが復唱する。それは電話越しに何者かに伝わり、その返答は文字通り光の速度で帰ってきた。
ダリアの横腹に、突如直径二センチメートルほどの穴が開く。
「えっ――」
その穴をダリアは不思議そうに観察する。集束した光線の高熱によって傷口は焼き塞がれていたが、徐々に血が染み出してくる。ほぼ同時に、痛みの知覚が始まる。
「ぎゃあああいだい! いだいいだいいだい!」
シノユキはダリアの拘束を逃れ、立ち上がって服についた土埃を払い落す。
「大人しくしていろ。出血が酷くなるだけだぞ」
「なっ、なんでっ……穴空いた……」
「これが連携の取れた組織の強みだ」
そう言って、シノユキは路地の先に建つビルの屋上に軽く手を振る。上空に展開された反射鏡が蒸発していく下で、金色の髪が揺れていた。
「シノユキ、代われって」
物陰から出てきたアンが端末をシノユキに手渡す。
「ヨミヒトか? 助かった」
『役割を果たしただけだ。半分はリリィの仕事だしな』
「……相変わらず可愛げのないやつだ」
『あんたには言われたくないな。すでにバニッシュメントたちの手配もしている』
「ちょうど来たようだ。切るぞ」
シノユキは端末をアンに返し、路地の入口を見る。入ってきたのは、黒いコートに身を包んだ長身の男性と、まだ十代と思しき小柄な少女だった。
「お疲れ様です、烏山さん」
「ああ。こいつは念のため保護する。チトセ」
烏山と呼ばれた男に言われて、少女は呼吸の浅くなりつつあるダリアの額に触れる。少しの間そうしていると、ダリアは落ち着きを取り戻し、地面に横たわって目を閉じた。
まるで抵抗する意思が“消失”したかのように。