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ホテルに戻ったアンとシノユキは、一階のレストランに入って食事を取っていた。少し早い時間だったためか、他の客は数えるほどしかいない。
アンは隅の席で黙々とサラダを咀嚼しながら、視線をテーブルに落としてページをめくるように指先を動かしている。
シノユキはコーヒーのカップに口をつけたままその様子を見ていたが、やがて声をかけた。
「そのノート、書いたことは消えないのか」
「ええ。文字通りの“無限メモ帳”よ。書いたことは消えないし、ページが尽きることもない。正と負に分けられた実在とは違う、まさに理想のノート」
「ページを切り離すことは?」
「試したことはないけど……」
アンはページに指をかけ、手前に引いた。
「ダメみたい。私の理想では、ノートは破けない方が良いからかしらね」
「俺に渡してみてくれ」
シノユキは意識レベルを落とし、アンのノートを視認する。アンは少しためらったが、ノートをシノユキに手渡した。その瞬間、ノートは消失する。
アンが手のひらを上にしてノートを持つような形を作ると、ノートはそこにすっぽりと収まるように再び現れる。
「まるで手品ね」
「なるほど、大体性質はわかった。あまり連携に使えそうな能力ではないな」
「わからないわよ」
アンは右手に万年筆を出現させ、ノートに文字を並べる。
“例えば、覚られないようにメッセージを伝えることができる”
「手話でいいだろう。暦管式は目立ちにくいしな」
「うるさいわね……。でもなるほど、私の能力を知ることで連携を強化しようってことなのね」
「そういうことだ」
「それなら、あなたの能力についても教えてくれないと不公平よ」
シノユキは話声が聞こえる範囲に人がいないことを確認する。
「……まぁ、いいだろう。とは言え以前話した通りだ。完全に記憶してある本を実体化させることができる。今ならお前にも見えるだろう」
シノユキはアンと同じように手をかざす。シノユキの心を構成するイデアの粒子が蠢き、一冊の本の形を作っていく。それがいつものSF小説だということを、アンはぼんやりと知覚する。
「あとはこれの対称性を破れば実体化する」
「そこなのよ。どうやって対称性を破るの?」
「さあな。これは先天的な能力だ。感覚を説明するのは難しい」
「ふーん……。他にはどんな本を記憶しているの?」
少しの間沈黙して、シノユキはアンから視線を逸らした。
「それは……言えない。今はまだな」
「今は? いつかは言えるということ?」
「これは異能対策室の機密事項だ。だが暦史書管理部の上層部にも知る人間はいる。お前の努力次第では、自然と耳に入ってくるだろう」
アンは背もたれに腰を預け、シノユキの横顔を眺めた。
「ただの本じゃないってことね」
「そういうことだ。だが作戦に必要であれば使用する」
「そんな物騒なことにならないことを祈るわ。明日はヤルダバオートね?」
「ああ。記者として潜入する。だがお決まりの見学コースを案内されるだけで、普通にやってもカヤの書やエトセトラの情報は得られないだろう。どうする?」
「そうね……」
アンはフォークを揺らしながら思案し、不意にそれをぴたりと止めた。
そしてそれをシノユキの方へと向ける。
「迷子になりましょう」