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暦史書管理機構第一研究室。セーラの居室でもあるその部屋は、一見ガラクタのような自称発明品がそこかしこに散乱していた。壁の一面は特殊強化ガラスによる窓がはめ込まれており、その向こうは実験室になっている。
アンとセーラは実験室の中で、机を挟んで向かい合って座っていた。
セーラはパックされた注射器を開け、採血用の小瓶を用意する。
「う……」
「注射は苦手?」
「身体に針を突き刺されるのを好む人はいないと思うんだけど……」
「いやあ、世の中には色々な性癖を持った人がいるからね。まあでもダイジョーブダイジョーブ、痛くないよ~」
胡散臭い文句にさらに不安が増したアンだったが、ぎゅっと目を閉じているとなにも感じないうちに「終わったよー」という声が聞こえてくる。
目を開けると、確かに小瓶の中には少量の血液が入っていた。セーラは薄く微笑みながら、針を刺したと思われる場所を消毒している。
「上手いのね」
「針が良いからね、誰がやっても痛くないよ。検査の結果は二日後に送るね」
「ええ……」
セーラは止血用のテープを貼り、表情を曇らせたアンに笑みを向ける。
「心配?」
「まあ、多少ね」
「そっかそっか。心配事があったらいつでもセーラちゃんに連絡するんだよー。支給されてる端末に連絡先入ってるから」
「……今、一つ聞いてもいいかしら」
「なんだい?」
アンはまっすぐにセーラの目を見据える。
「イデアってなに?」
その質問の意図を探るように、セーラもアンを見つめ返す。
「リリィ女史が説明したって聞いてるけど?」
「リリィからだけじゃない。イデアを知る機構職員みんなに聞いて回った。天国、精神世界、理想郷……みんなそれぞれ違った認識をしていて、なにが正しいのか……」
「あーはーん。なるほどにゃー」
奇妙な日本語にアンが困惑していると、セーラはどこからともなく一冊の本を取り出した。それは小さなサイズの聖書だった。
「……あなたも本を生み出せるの?」
「ポケットに入っていただけだす。答えはここに書いてあるよ」
「聖書に?」
「“始めに言葉ありき”」
その文言を聞いて、アンは即座に聖書に手をかけ、確かめることもなく開いた。
「“ヨハネによる福音書”、冒頭の言葉ね」
セーラは指をぱちんと鳴らした。
「さっすがぁ、詳しいね。私はその記述通り、イデアとは言葉だと思ってるよ。ただの言葉じゃないけどね」
「リリィが言っていたわ。イデアはゲームのプログラムのようなものだと」
「そう。イデアはある種、この世界のソースコード。ジーニアスはそのコードを書き換えたり、書き足すことによって能力を行使する」
「なるほど……。いいえ、待って。もしイデアが言葉ならば、体系化することができるんじゃないの?」
「うんにゃ、それは無理だね。なんせさっきアンちゃんが言ってた通り、イデアの認識は人それぞれだからさ」
「母国語以外は理解不能ってことね……」
「そう。干渉能力の根源にあるのは、干渉対象への愛や執着、憎悪なんかもあるけど、とにかく強い思い入れが必要なんだ。――アンちゃんの能力のようにね」