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ケンブリッジにある墓地は白い霧に満たされ、草地は朝露で濡れていた。
整然と立ち並ぶ十字架の間を、一人の女性が歩いている。
アンネ・ラインハルトはその中の一つの前で足を止め、花を置いた。
「……不思議ね。なぜか、あなたがここに眠っているとは思えない」
アンが墓標に語りかけても、聞こえてくるのは目を覚ました街の音だけだった。
「あなたを知っている人に会ったわよ。辞書を返すようにって預かったけど……しばらく借りていてもいいわよね、エドワード」
返事はない。しかしアンは、リリィたちの言う心の世界で、エドワードが聞いていてくれることを祈った。
「行くわね」
そう言い残して去ろうとした時、霧の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。
目を凝らして見ると、それはスーツを着た日本人の男のようだった。
男は一直線にアンの前まで来ると、その場に立ち尽くす。
「誰かのお墓を探しているの? それなら――」
「いいえ、あなたに会いに来ました」
日本での経験もあり、アンは身構える。
「……誰?」
「私は佐伯アラタ。CIAの者です。エドワード・アダムズがビルから飛び降りる時、その場にいました」
アンは胸をどんと押されたような思いだった。
しかしエドワードの仇を目の前にしても、不思議と怒りの感情は沸いてこなかった。そのためには、時間が流れ過ぎていた。
なにも言わないアンを見て、佐伯は頭を深く下げる。
「申し訳ありませんでした。私がもっと注意深く対応すれば……」
「あなた、そんなに簡単に素性を明かしていいの? 問題になるんじゃない」
「どうしてもあなたに、伝えたいことがあったんです」
静かなアンの声に、佐伯は頭を下げたまま答える。
「伝えたいこと?」
「私は、彼の最期の言葉がずっと気になっていた。あなたなら意味がわかるのではないかと」
最期の言葉。それまで凪いでいたアンの気持ちが、にわかに昂る。
「エドワードは、最期になんて?」
佐伯は顔を上げ、訝しげな表情で言った。
「それが……“ありがとうエドワード”と……。まるで自分のことを他人のように……」
アンにも、その言葉の意味がすぐにはわからなかった。
しかし佐伯がもう一度頭を下げて去り、墓地から霧が晴れていく頃になって、アンの全身に鳥肌が立った。
「そうなのね……」
アンは足元に立つ墓標を見下ろす。
「あなたはもう、ここには眠っていないのね」
そしてアンは、なにかに背を押されたように駆け出した。