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リリィが宿泊している寮の一室。
到着する頃にはアンの足も良くなり、自分で歩いて部屋に上がった。
あくまで短期的な宿泊のため、部屋には最低限の家具しかなく、あまり生活感がない。
「水、飲みますか?」
「お願い。とても喉が渇いてる」
リリィが冷蔵庫を開けると、中にはぎっしりと水の入ったペットボトルが詰まっていた。視線に気づいて苦笑する。
「沢山必要なんです。色々あって」
そう言いながら、リリィはアンにペットボトルを差し出す。アンは受け取ると、キャップを開けて一気に水を流し込んだ。緊張と恐怖で乾いた喉が潤っていく。
「どうぞ、座ってください」
まだペットボトルを口から離すことができなかったが、アンはそのまま移動してテーブルの傍にあったクッションに腰を下ろす。リリィもペットボトルを持って、アンの向かい側に座った。
アンは水を飲み干すと、深く息を吐いた。
「ありがとう、かなり落ち着いた」
「いいえ。……さて、なにから話しましょうか」
「ちょっと待って。あの鼻眼鏡から受け取った本を読んで、私なりに一つ仮説を立ててみたの。答え合わせに付き合ってくれる?」
「……ええ。話してみてください」
アンは自分のバッグから紙とペン、そして“猿でもわかる宇宙の始まり”を取り出し、机の上に広げた。
「私はこれまで、私の視点からしかこの世界を見ていなかった。だけど悔しいことに、この本を読んだことでもう一つの視点が加わって……この世界がもっと立体的に見えるようになった」
「つまり?」
「相容れないように思える宗教と科学だけど、ルーツは同じね」
リリィはこくりと頷いた。
「宗教や神話は作り話でもなんでもない。確かに脚色されている部分はあるものの、どれも事実に基づいて生まれたものです」
アンは本のページをめくり、宇宙の始まりについて書かれたページを開く。
「宇宙が始まる前、そこにはなにもなかった。でも見かけ上はゼロでも、相殺し合う大きなエネルギーが実際には存在していた。これが“真空のゆらぎ”。だけどある時そのバランスが崩れ、無から有が生まれる。そして……」
その本の隅では、猿のキャラクターが吹き出しでこう言っていた。
『その無から有が生まれるきっかけを作ったのが、神様だと言う人もいるんでござる!』
「この本を読んで、リツコから聞いたおとぎ話をはっきりと思い出した。なにもない場所で生まれた原初の心、エーフェス。エーフェスはヘブライ語でゼロを意味する。しかも男性形しか存在しない。……まさに神だわ」
「イデアのエーフェスは、私の家にも伝わっています。なぜか他のコロンシリーズのように本やメディアとしては残っていないのですが、それでも遥か昔から現在へと受け継がれている」
「おそらく形に残さないのは、それが事実であると知られないためね。……なるほど、確かにそんな文書が実在していたら、世界の宗教観はひっくり返る」
アンはペンを手に取り、紙にEFESと書いて線で囲う。
「そして、そのエーフェスが居場所として作ったのがイデア。さらにエーフェスは、そのイデアから実在の世界を生む。これも科学的な裏付けが存在した」
本を数ページ進めると、一人の日本人の写真が掲載されていた。
「“自発的対称性の破れによる質量の獲得”。初期の宇宙は質量を持たず、あらゆる素粒子が自由に飛び回っていた。完全に近い対称性を持つ初期の宇宙を、科学者たちは“美しい”と言った。イデアという名に相応しいわ。そして宇宙にヒッグス粒子が生まれ、質量を獲得する。はっきりとした実体を伴って存在できるようになる。ヒッグス粒子が発見されたのはごく数十年前なのに、おとぎ話は遥か昔から伝えられてきた……」
「それはつまり、“宇宙の成り立ちを知るもの”がこの星にいたことを意味する」
「エーフェスの器となった人間――アダムね。そして、もしユダヤ人たちがアダム直系の子孫であるとすれば、神の子孫に他ならない」
「ええ。私もあなたも……世界中のあらゆる人が、少なからず神の血を引いている可能性がある」
薄く息を吐いて、アンは天を仰いだ。
「ようやくユウコの言っていたことの意味がわかったわ」
「……兄の言っていた通りでした」
「エドワードが? なんて?」
「“彼女は放っておいてもいずれ真実に辿り着く”。いつもそう言っていました」
「……買い被り過ぎよ。助言がなければいつまでも迷子だったかもしれない。それに、もう一つ大きな問題が残っている。あなたたちの持つ魔法のような力よ」
リリィは自分のペットボトルの蓋を開けると、手をかざす。まるで無重力空間のように、水は宙を漂い始めた。
「呪術、魔法、超能力……それらの根源もすべて、エーフェスの器であるアダムの力」
「……この宇宙を創った力ね」
「そうです。言ってしまえばエーフェスは、この宇宙の管理者。物質や現象を操る力を持っている。そしてそれは、血筋――遺伝子によって、不完全ながらも受け継がれています。その力を持つ者を、我々はジーニアスと呼んでいます」
「コロニストの家系……そういうことね」
「ええ。血の純度が高ければ高いほど、イデアへの干渉能力は強い」
「イデアへの干渉って……イデアはまだ存在しているの?」
「勘違いされがちですが、自発的対称性の破れによってイデアという“相”が失われたわけではありません。今もこの物質の世界に重なり合う形で、どこにでも存在しています。エーフェスの話を聞いたなら、イデアは心の世界だという話も聞きましたか?」
アンは頷く。
「例えるならば、ゲームのプログラムと一緒ですね。キャラクターだけでは動かない。それを動かすためには、心というプログラムが要る。私たちの使う力は、その心を操る力なんです」
「心を、操る……」
「万物には心が宿っています。この水にも。私たちはイデアの心に働きかけることで、こうして超自然的な力を行使することができる」
語りながら、リリィは水を人型にしてテーブルの上を歩かせた。
「シノユキの力も同じなのね?」
「長南シノユキさん、ですね。あの方はさらに特別です。特A級のジーニアスと言っていい」
「特別?」
「ええ。私とシノユキさんには、決定的な違いがある。私はすでに存在している水を操ることはできても、“無から水を生み出すこと”はできない」
言われてアンも納得する。シノユキは、なにもない空間から本を取り出していた。
「そういう差はどこで生まれるの?」
「単純に遺伝子の強さもありますが、なにより大事なのは思い入れ……“執着”と言った方が正しいかもしれません」
「執着……」
「これは私の推測ですが、無から有を生み出す能力の仕組みはおそらくこうです。まず、自身の心を使って本をイデアで作り出します。そしてその心の対称性を破り、質量を与えて実体化する。具体的にどうやっているかは私にもわからないんですけど……」
「……神の御業ってやつね」
リリィは深く頷いて答える。テーブルの上を歩いていた人型の水は、ペットボトルをよじ登って中へと戻っていった。
「もう一つ教えて欲しいんだけど、シノユキが使っていた本はなに?」
「さらに話が飛躍しますが、大丈夫ですか?」
「もうどんな話が来たって驚かないわ」
アンの軽口に笑顔を見せたリリィは、再び表情を引き締めて語り出す。
「私は暦史書管理機構の“異能対策室”という部署に所属しています」
「異能対策室……? そんな部署初耳よ」
「内部でも限られた者にしか知られていない部署です。暦史書管理機構の裏側、ってところですね」
「なにをする部署なの?」
「その名の通り、異能力に関する事案に対処し、一般人に影響が出ないようにする部署です。暦史書管理機構に所属しない人でも、偶発的に干渉能力を持つことがありますから。あなたが“記録者”としての遺伝子を持ったように」
「偶発的に、ね……」
「大抵は能力の正体を知らずに悪用する者や、コントロールの仕方がわからず困っている者です。しかしごく稀に、“招かれざる客”が来ることもあります」
「というと?」
「異世界からの来訪者です」
どんな話でも驚かないと言っていたアンだったが、これにはさすがに唖然とした。
「異世界ですって?」
「イデアのエーフェスの話の中に、いくつか地球以外の星が出てきたことを覚えていますか?」
「……そういえば、あったわね」
「エーフェスは地球を創る以前に、試作品としていくつもの星を作っています。地球とはまったく違った文明が生まれ、当然のように誰もが干渉能力を使う世界もあれば、地球を凌駕する科学力を持った星の存在も予想されているんです。そして時折その世界から、“なにか”が地球へとやってくることがある」
「なにかって、例えば……?」
「人やそれに準ずる知的生命体、魔物、地球の科学力では解明できない装置。そして、魔導書」
アンは両手を床に突き、脱力しそうになる身体を支える。
「エイシストールの書……」
「シノユキさんの使うその魔導書も、異世界から地球へともたらされたものです。原典は機構内部の対立から焼失したそうですが、シノユキさんの超人的な記憶力と本への執着で、なんとか使用可能なレベルで複製できています」
「信じがたいけれど……この身で経験している以上疑うことはできないわね……」
「知りたいことは、すべて知れましたか?」
「……ええ、完全に受け入れるにはまだ時間がかかりそうだけどね。でもありがとう」
一通り話し終えて、リリィは姿勢を正す。
「代わりにと言ってはなんですが、私も聞きたいことが。兄のことで」
「教えられることがあれば教えるわ。でも私より圧倒的に長い時間一緒にいたであろうあなたが知らないことなんてないと思うけど……」
リリィはテーブルの上の水滴に視線を落としたまま口を開く。
「兄は、なにか隠し事をしていた気がするんです」
「隠し事?」
「ええ。具体的になにかあったわけじゃないんですけど、妹だからわかるというか」
「確かに、へらへらしているようでなにを考えているのか読めないやつだったけど……。コロンシリーズやコロニストの真実すらはっきりと教えてもらえなかったから。私じゃ役に立てないわ。ごめんね」
「いいえ、いいんです。わかってしまったら、それはそれで兄への思いが薄れてしまうかもしれませんし……」
アンはテーブルの上に手を置いた。リリィは少し躊躇ったが、自分の手を重ねる。
「エドワードのこと、好きだったのね」
「よくくだらないイタズラをされたし、情けないところもあったけど……尊敬できる素晴らしい兄でした。あなたも、兄が好きでしたか」
アンはリリィの手を撫でて、エドワードによく似た顔を見た。
「ええ。好きだった」