[3-2]
閉館時間いっぱいまでセーラーサンに託された本を読んでいたアンは、追い出されるように図書館を出た。
外はすっかり暗くなっており、図書館のある有栖川宮記念公園は深い闇の中にあった。
掴みかけたなにかを脳内で整理しながら、頼りない照明を頼りにゆっくりと歩いていると、突然人影が現れてアンは身をすくめる。目を凝らして見ると、大きなショルダーバッグを肩から下げた男子大学生のようだった。
「あ、もう図書館閉まっちゃいました?」
「あー、はい。閉まりました」
アンの日本語は発音もかなり自然になってきていた。しかしまだ多少の訛りがあり、学生の男は声のトーンを上げる。
「あ、外国の方ですか? 日本語上手ですねー。僕外国語学部なんですよ」
「ああ、そうですか……」
セーラーサンに比べればかなりまともそうな人ではあったが、一日に二回も突然絡まれることはあまりなかったため、アンは若干うんざりしていた。
「良かったらちょっとお話しませんか? ご飯ご馳走するので」
「いいえ、折角だけどもう帰ります」
「そんなこと言わずに。じゃあ、駅まで送りますからその間だけでも」
「大丈夫です。ありがとう」
アンが愛想笑いを返して男の脇を通り過ぎようとした時、なにかが弾けるような音がした。それは風船が破裂する音や車のタイヤがパンクする音とは違う、もっと危険な音だった。
瞬時に異常を感じ取ったものの、高電圧のスタンガンがアンの太腿に押しつけられ、再度鋭い破裂音が響く。
抵抗する間もなく、アンは短い悲鳴と共にその場に倒れ込んだ。気を失うほどではなかったが、アンは激痛に喘ぎ、地面をのたうち回る。
アンはなんとか視界の端に男を捉えた。男は一言も発することなくアンの上にまたがって、動きを封じようとする。そしてスタンガンをちらつかせ、“騒いだらもう一度やる”と表情だけで言ってきた。
そして、淡々とアンのコートのボタンを外していく。
できることなら股間を蹴り上げてやりたかったが、スタンガンを受けて足の感覚はほとんどなかった。背中から地面の冷たさが伝わってくると同時に、自身の無力さや絶望感が溢れ、自然と涙がこぼれる。
その涙はアンの眼尻を伝って落ちそうになり――途中で止まった。
アンも暴漢もそのことには気づかなかった。
さらにその涙の粒はアンの肌を離れ、球体となって宙を漂う。
そして、上空へ向かって急加速する。それは弾丸のように暴漢の男の耳を貫き、空中で散った。
「あああああああ! いてえ! なんだ! いてえ!」
男は絶叫しながらアンの上から飛び退き、穴の開いた耳に魔法でもかけるかのように手をかざしている。しかし、その穴からは血液が滴り落ちるばかりだった。
「バレたら始末書ね……」
薄闇の中から声がして、男の情けない声は喉の奥へと引っこんだ。
脇道から現れたのは、淡く発光するような金色の髪の少女だった。黒いコートと夜の闇によって、その髪の美しさと肌の白さが際立つ。
「ははぁ、金髪の外国人にも会えるなんて! 今日は運がいい!」
男はそう言いながらも、片手で耳を抑えながら後退していく。
「でも犯罪者を見逃す方がもっと罪深いと、私は思う」
金髪の少女は男に向かって手をかざした。男は気にせず後退を続けたが、次第に身体の異常に気づき始める。
「な、なんだ……げほっ……喉が……渇く……」
冬の乾燥した空気や、罪の意識によるものではない。純粋に、“身体の水分を奪われている”という表現が適していた。
一方で、金髪の少女がかざした手の中に水球が渦巻き始める。
男の皮膚は水分を失ってひび割れ、喉からは風鳴のような音しか出なくなっていた。
「人間から水分を抽出するのって、結構難しいのよね。ありがとう、練習になった。……でもこれには触りたくないわ」
そう言うと、少女は手を軽く振る。バレーボールほどの大きさになった水球は生垣に向かって飛んでいき、地面に触れると同時に水風船のように割れて形を失った。
そして、倒れたアンに肩を貸して抱き起こす。
「大丈夫ですか? 歩ける?」
「え、ええ……片足はまだダメみたいだけど……」
二人は干からびた男を残して、園内にある休憩スペースへと歩いていく。
少女はアンをベンチに横たえると、膝枕をする形で自身も座った。
「あなたは……」
「私はリリィ。リリィ……アダムズ」
そのファミリーネームを聞いて、アンは少女の顔を見上げた。リリィは複雑な笑みを浮かべて応える。照明に照らされてうっすらと見える整った顔立ちは、エドワードによく似ていた。
「エドワードの、妹……?」
「話は聞いています。兄がお世話になりました、アンさん」
その優しい声をきっかけに、恐怖や安心感、エドワードへの思いなどの感情がアンの中で溢れだした。
しばらくの間リリィのお腹に顔をうずめて泣いていたアンは、落ち着きを取り戻して体を起こす。
「大丈夫なんですか?」
「ええ。もう痺れもなくなった。あの男の近くにいたくないから、歩きながら話しましょう」
そう言ってアンは立ち上がるが、やはりまだ歩くのは辛いようで、リリィが慌てて寄り添う。
二人は公園を出ると、駅を目指して歩いた。
「助かったわ。どうしてここに?」
「さっき、変な人に話しかけられたでしょう。あ、図書館の中です」
「……ええ、とっても変な人にね」
「私も一緒にあなたに会いに来ていたんですが、どんな顔で会ったらいいかわからなくて……外で待っていたんです。だけど、やっぱり兄の話がしたくて公園で待っていたら……」
「そう……。またエドワードに助けられたわね」
リリィは駅前でタクシーを拾い、アンを乗せて自分も乗り込んだ。そして運転手に暦史書管理機構の所有する寮の住所を告げる。
「同じ寮じゃない」
「日本に来たのは少し前なんですけどね。なぜかたまに……兄のいた場所を辿りたくなるんです」
「私も最初に日本に来たのはそのためだった」
アンは座席に背を預け、目を閉じたまま言う。
「寮についたら、兄の話を聞かせてくれますか」
「もちろん。でも私も聞きたいことがある」
「なんですか?」
「あなたも“使える”のね」
アンが視線を送ると、リリィは宝石のような青い瞳を向けて頷いた。