[2-8]
「うん、健康状態に問題はないね。もういいよー」
アンは眼鏡をかけた白衣の女性の診察を受けたあと、暦史書管理機構のバンに乗り込んだ。そこには先に診察を終えたシノユキと、有栖川リツコの姿があった。
「なぜ……」
「責任者として、事態を見守る必要がありましたから」
「責任者?」
「説明しますので、座ってください」
促されて、アンはリツコの隣に腰掛ける。リツコはマグボトルから紙コップにコーヒーを注いで、アンに手渡した。
「寒かったでしょう。ごめんなさいね」
「そんなことより、説明をお願い」
リツコはその表情を少し曇らせ、申し訳なさそうに話し始めた。
「あなたたちは囮だったんです」
「囮……?」
「ええ。シノユキさん、ケースを」
助手席にいたシノユキは、アタッシュケースを差し出す。リツコはそれを受け取ると、膝の上に置いてロックを解除した。
中には古びた紙が紐で綴じられた、日本語の古書が入っていた。
「これは偽物です」
「偽物……?」
本物を知らないアンはそれを比較することができなかったが、少なくとも新しい紙で作られたレプリカのようには見えなかった。
「本物は無事京都へ移送できました。今回はあえて裏日本書紀の情報をリークし、暦史書を狙う人たちをあなたとシノユキさんへ引きつけることで、安全を確保したというわけです。本当に、ごめんなさい」
「違う」
「え?」
「私が知りたいのはそういうことじゃない。“なぜあの男の部下たちが一瞬で倒されていて、夕方だったのが朝になっているのか”という点よ」
アンは興奮を抑えきれない様子でまくし立てた。
「それは……」
リツコは助手席のシノユキに視線を送る。
「お任せします」
シノユキの承認を得て、リツコは語り始める。
「昨日の夜、寝る前にしたおとぎ話を覚えていますか?」
「おとぎ話? イデアだとかエーフェスだとかがどうのっていう? その、申し訳ないけど途中で寝てしまってあまり覚えていないわ……」
「いいんです。重要なのは、“エーフェスという創造主”と、“イデアという心の世界”が存在しているということ」
「創造主……? 心の世界……?」
「ええ。そして、その創造主の力の一部を受け継いだ人間がいるということも」
「ちょっと待って、話が飛躍しすぎていて……」
「もう一度、見てもらった方が早いでしょう。シノユキさん」
言われて、シノユキはまたなにもない場所に人差し指をかける。そしてそれを引くと、またあのきらめく粒子と共に本が出現する。それは空港でシノユキが読んでいた、古いSF小説だった。
シノユキはそれをアンに手渡す。
「正確に実体化できる本は六冊。この力は俺の記憶力に依存しているから、なんでも実体化できるわけじゃない。その裏日本書紀は急ごしらえだったから、外観は再現できているが内容はめちゃくちゃだ。そして――」
続けてシノユキは、アンが昨日の夕方に見た古びた本を出現させる。
「これは“エイシストールの書”。異世界からもたらされた魔導書だ。ジーニアスの血を吸って起動する。実験した限りでは、この本を中心に半径二十二メートル以内にあるすべての“心”を停止させることができる。使用者を除いてな。理解したか?」
続けざまに説明されて、アンは呆けた様子で頷いた。
「ええ。私がまだなにも知らないことを、理解したわ」