[2-7]
車内で話した通り、シノユキは次のパーキングエリアに入った。しかしそのあとに続くように、黒のワゴン車も駐車場に入ってくる。
空いているスペースに車を停めると、ワゴン車もすぐ近くに停車した。
「ねえ、なにか物騒なことが起こる感じなの?」
「八割だな、その確率は」
「私はここで待っていていいわよね?」
「いや、一緒に来い。一人でいるより俺の目に入る場所にいてくれた方が安全だ」
「そのひょろひょろの身体でなにができるって言うのよ……」
シノユキはアンの愚痴を一切無視し、アタッシュケースを持って車を降りた。アンは自分も指示を無視して車内に残ってやろうかと考えたが、うんざりした様子を見せながらも車を降りる。
そしてすぐにそれを後悔した。少し先にはシノユキが立っており、その向こうではワゴン車から数人の男女が降りてくるところだった。
「話がわかる人のようだ」
ワゴン車から降りた一団の先頭にいた男が、人畜無害そうな笑みを浮かべて近づいてくる。
「なんの話だ」
「あなたが持っているその、おそらくは本だと思うのだが……。本なのかな?」
「ああ」
シノユキが肯定すると、男は髪をかき上げて喜びの表情を見せた。
「それを我々に渡してくれる、ということだね?」
「なぜそうなる」
「だって君は……車を降りたじゃないか。ねえ? 渡す気がないなら逃げればいいものを」
「やはりブックハンターか」
“ブックハンター”と呼ばれて、男は心外そうに笑った。
「我々をあんな有象無象と一緒にしないでくれたまえ。私は桑井ヒロミツ。“歴史書解放戦線”の一員だよ」
「歴史書解放戦線……?」
「あらゆる記録はすべて開示されるべきだと考え、歴史書を収集しては広く世間一般に公開している集団だ」
「それって――」
“暦史書管理機構とは真逆”。そう言おうとしたアンを、シノユキは手で制する。
「そう、非常に慈善的な組織だよ」
「古書販売業者の車を尾行して、稀覯本を追う組織が慈善的だって? 面白くない冗談だ」
その嘘で、アンは発言を止められた理由を察する。桑井たちは暦史書管理機構の存在をまだ知らないか、知っていたとしても二人がその関係者であることを知らない。
「我々からすれば、歴史的価値のある貴重な古書が、日銭を稼ぐために杜撰な管理状態で取引されていることの方が許せないのだが……。違うかな? どうだろう?」
「それが正しくなかったとしても、窃盗や脅迫をしていい理由にはならないと思わないか?」
「それはそうとも。我々が君を脅迫しようとしているとでも? 違う違う、単純に取引をしたいんだよ」
そう言うと、背後に控えていた部下が大きなアタッシュケースを持って前に出る。
それをシノユキに見えるように開けてみせると、中には紙幣がぎっしりと詰まっていた。
「君の取引相手がいくら出そうとしているかはわからないが、私はその相手よりも五パーセント多く出すよ。利益は少しでも多い方がいいだろう? どうやってその本を手に入れたのか知らないが、苦労したはずだ。うん」
「悪くない話だが、断る。この本を譲る相手には恩義があるのでね」
「うーん、どんな条件でもダメかな?」
「ダメだ」
桑井は笑みを浮かべたまま何度か頷いた。
「わかった。それならしょうがない。今日君は私に会わなかった。取引を持ちかけてなんかいない。いいね?」
「ああ」
思った以上にすんなり事が済んで、傍から見ていたアンは胸を撫で下ろした。
「君は今日この場におらず、その本を手に入れることもなかった。いいね?」
アンは血の気が引いていくのを感じた。その確認の言葉から、このあと起こることを想像することは容易かった。
シノユキが黙っていると、桑井の部下たちが二人を囲むように散開する。
「ちょっと、ここ日本よね? こんな物騒なこと起こるものなの?」
「日本は平和で安全だと思っているなら、それは幻想だ。どんな場所でも物騒なことは起こる」
戦線という言葉に相応しく、桑井の部下たちは戦闘の訓練を受けているようだった。アンの正面にいた女性の部下がナイフを取り出したのを見て、シノユキの話が正しかったことを再確認する。
「もう一度だけ聞こう。その本を譲る――」
「譲る気はない」
「残念だ。やりたまえ」
部下たちがじりじりと距離を詰めてくる。
「ちょっと、なんとかしてよ。さすがにまだあの世には行きたくない」
アンはシノユキと背中合わせになって言った。
シノユキはアタッシュケースを足元に放り、目を閉じて深呼吸する。
「おや、覚悟を決めましたか?」
桑井の言葉を聞き流し、シノユキは右手をゆっくりと掲げた。そして、わずかに伸ばした人差し指を、空中に“かける”。
それをゆっくりと引き抜くと、徐々に、空間からなにかが生じ始める。
本の背表紙のようだった。
「シノユキ……?」
「話かけるな。気が散る」
一同が呆気に取られる中、きらめく粒子を舞い散らしながら、シノユキは一冊の本を“生み出した”。その本をしっかりと掴み取る。
「な、なんだ……。なんだその本は……」
桑井の言葉に応えるように、シノユキは片手で本を開く。古びた本だった。革の表紙はところどころ剥げており、補強のための金具には錆が浮いている。そして表題の文字は、様々な言語の本に触れたアンも見たことがない文字で書かれていた。
「奪え! 絶対に逃がすな!」
桑井の指示で一斉に部下たちが動きだした瞬間、シノユキは指先を噛み切って本に血を滴らせ、唱えた。
「“エイシストール《心停止》”」
・・
「……え?」
次の瞬間アンが見たのは、駐車場に倒れる桑井の部下たちと、桑井の喉元にナイフを突きつけたシノユキの姿だった。
いつの間にか駐車場には複数の暦史書管理機構の車が停まっており、スーツ姿の職員と白衣を着た女性が近づいてくる。空は白んでおり、東の空からは太陽が昇り始めていた。
アンはこの状況を一切理解できなかった。
「な、なんだ。なにが起こった」
それは桑井も同じようで、目をぎょろぎょろと動かして状況を確認しようとしている。
「なにも起こっちゃいない。終わっただけだ」
シノユキはナイフを投げ捨て、桑井を解放する。