[2-6]
「――ン。起きてください、アン」
自分が眠ってしまっていたことに気づいて、アンは飛び起きた。すぐ横ではすでに着替えを済ませたユウコが膝を突いていた。
「今何時?」
「九時を少し過ぎたところです」
アンはぼさぼさの髪を撫でつけて、短く息を吐く。
「寝過ごしたわ……どうして起こしてくれなかったの?」
「とてもよく寝ていたので。お疲れだったのでしょう」
「あの男は?」
「長南さんですか? すでに食事を済ませて、お母様と移送の件で打ち合わせをしていますよ」
「最悪だわ……」
アンはものの数分で身支度を済ませると、すぐにシノユキたちのいる客間へとやってきた。
「重役出勤だな」
「ジュウヤクシュッキン? そんな日本語は知らないわね」
予想通りに小言を言われて、アンはいつも以上に口をへの字に曲げる。
「どうぞ。残り物のサンドイッチですが」
アンはテーブルの上にあったサンドイッチを掴み取ると、少し離れたところにある姿見の前の椅子に腰かけた。
「失礼だぞ」
「いいんですよ。気を遣われて良い顔をされるよりも、気を遣わずにありのままの姿を見せてくれる方が嬉しいこともあります」
「そうよ。あなたも見習いなさい」
シノユキに反撃できたこともあり、アンは心おきなく口いっぱいにサンドイッチを頬張った。
「……それで、移送先の件なのですが」
「京都です。旧アーカイヴの者へ渡してください。……何事もなければ」
「何事もなければ、ですね」
繰り返して、シノユキは足元に置かれたアタッシュケースを見た。
「準備は大丈夫ですか?」
「ええ。完璧ではありませんが、充分だと思います」
「それは良かったです。では、アンさんの食事が済んだら出発してください」
「もう済んだわ。お昼ご飯に包んで持っていってもいいかしら?」
・・
食欲旺盛なアンとは裏腹に、シノユキは胃が痛くなるのを感じていた。
東京を出発してから数時間。車中の二人は一切会話をすることがなかった。
アンとしてはシノユキに聞きたいことが色々とあったものの、口を開けば嫌味を言うシノユキに辟易していたのが正直なところだった。
リツコが作ったサンドイッチを頬張り、ユウコが持たせてくれたマグボトルのコーヒーを啜って、車窓を流れる景色を見る。そんな時間が延々と続いた。
そして日が暮れ始めた頃、ようやくシノユキが口を開く。
「休憩は必要か?」
英語だった。
「……そうね、少し休みたいわ」
「次のサービスエリアに入る」
「というかなんで車なの? 電車を使えばいいのに」
「緊急時、一般人に迷惑をかけたくない」
「……緊急の事態が起こることを覚悟しておけということね。昨日からの話で察してはいたけど」
「そういうことだ」
そこでまた会話は途切れた。しかし一度口を開いたことで、アンの心が少し緩む。
「あなた、なぜそんなに英語が上手いの?」
シノユキはすぐには答えなかった。長いトンネルを抜けたところで、一呼吸置いてようやく話し始める。
「アメリカに友人がいたからな。言語を習得したいなら、その国の友だちを作ることが一番の近道だ」
「へえ、どんな人?」
「……甘っちょろいやつだった。いつもへらへらしていて、悩むことを知らないようで、お前以上に神経に障る。だが確固たる意志を持っている。そんなやつだ」
アンは表情を変えずに、窓の外を流れる木々を眺めていた。
「奇遇ね。私にもそんな友だちがいたわ」
「それは災難だったな」
「……本当よ。おかげで酷く傷ついたもの」
「友人だったことを後悔しているか?」
「いいえ」
即答するアンの声は震えていた。
「あいつがいなかったら、きっと私はずっと一人だった。そっちの方が幸せだったかもしれないと思うこともあるけど……でも、あいつを忘れたくない」
初秋の空は加速度的に暗くなり、相反して街の灯りが浮かび上がってくる。
アンがエドワードのことを思い出して静かに涙を流していると、その膝の上になにかが置かれた。
服の袖で涙を拭うと、それを手にする。古ぼけた英和辞書だった。
「なにこれ」
「俺はそれで英語を勉強した。必要なら使え」
街灯の光を頼りに中を見ると、例外なくどのページにも書き込みがしてあった。その辞書の持ち主がいかに勤勉であるかを物語っている。
「持ち主に返しておいてくれ」
「あなたのじゃないの?」
「奥付を見ろ」
アンは最後のページを開き、そこにも手書きの文字を見つけた。
“Edward Adams”。そう書かれていた。
どこで誰が便宜を図ったのかはわからないものの、アンは自分が長南シノユキと引き合わされた理由を理解した。
「まったく気が利いているわ……」
「なんだ」
シノユキはアンの呟きを聞き取ることができずに聞き返す。
「……ありがとう」
アンは日本語で言った。
「ああ。だが感傷に浸るのは一旦中断しろ」
「は?」
「緊急事態だ」
バックミラーに映る黒のワゴン車を見て、シノユキは言った。