慌てて煙草を拾い上げた彼は、
慌てて煙草を拾い上げた彼は、大変苦々しい顔つきで唸った。
「おい、お嬢ちゃん……この男が何だか知ってて言ってんのか?」
恐ろしく低い声で凄むカウンター内の男性に、唯咲はきゅっと眉根を寄せた。
ヴィハーシュが、何か。
まず唯咲に分かることは、ヴィハーシュが人間だという事だ。父の日記にはファンタジーな物語が綴られていたが、モンスターの類いが現れた事はなかった。亜人種がいるのかどうかまでは唯咲の預かり知らぬ所だが、まあ亜人種とはいえ人は人だろう。多分。
次に、男だという事。これで女だったらさすがにこの世界の全てが信じられない。もしかしたら自分の性別まで疑い始めるかもしれないくらいだ。あとヴィハーシュのような色男が女だったら、全世界の女性が嘆くのは言うまでもないだろう。
そして、このギルドのナントカ隊長だという事だ。ナントカの部分はさっぱり覚えていないが、隊長だった事だけはしっかり覚えていた。責任のある仕事を任されているという事に、感心した覚えがある。
そういえば、唯咲の父を知っていて、なおかつ悪く思ってはいないようだった。そのおかげで唯咲の面倒を見てくれる気になったのかもしれないのだから、これは重要なところだ。
それから、片手でもとても上手に馬に乗る。彼の行動は一見するとそうは思えないが、ちゃんと唯咲の身体を気遣ってくれていた。でなければ唯咲は、今頃全身の痛みで動けないに違いない。
と、思いついた事をつらつらと口にしていくと、どんどん周りの空気が冷たく、重くなっていった。最後の方に行くと、上機嫌なヴィハーシュと死人のようなカウンターの彼との、纏う空気の落差がとんでもないことになっていた。
なにかおかしな事を言っただろうか。
唯咲はぴたりと口を閉ざして、こわごわとカウンターの彼とヴィハーシュとを見比べた。
「……私、いけない事、言いいました?」
おそるおそる問いかけてみると、ヴィハーシュは面白そうに目を細めて、きらりと金灰色を光らせた。うっすらと唇を歪めて、からかうように言う。
「いいや。もっと他にないのか?」
叱られるどころか続きを催促されて、唯咲は戸惑いながら再度口を開く。
「ええと……ヴィハーシュさんは物凄い気まぐれだと思います。なんとなくですけど。それから、面白い事が好きで、他人が自分に逆らってくると面白くなってからかいまくって遊びます。あと、結構親切で優しいです」
周りで聞いていた野次馬の何人かが、奇っ怪な呻き声を発しながらよろよろとどこかに行った。今にも卒倒しそうな人までいる。
それなのに、ヴィハーシュだけは愉快げに瞳をきらめかせて唯咲を促した。
「それから?」
「……底意地が悪くて傍若無人で大胆不敵で基本自分本位で我が道を突っ走りまくって巻き込まれる周りへの配慮を一切しないはた迷惑な実力派ですね」
あんまり楽しそうに訊いてくるものだから、唯咲は思い切って不平不満と褒め言葉を混在させて、きっぱり言い切ってみた。
するとカウンターの彼はほんの少しだけほっとした様子で、震える指で煙草の火を消していた。周りの野次馬たちも、地獄の底からかすかに光が見えたかのような反応を示している。
一体なんだというのだろう。
一方ヴィハーシュは、思った通り声を立てて笑っていた。先程よりもさらに楽しげに瞳を光らせて、勢い込んでまだ催促する。
「他には?」
「物凄い覇気を持ってる、優しくて頼りになる物凄い美男子かっこ性格に難あり!」
今までで一番自信を持って言い切ったそのセリフで、大変満足されたご様子のヴィハーシュ隊長は盛大に吹き出した。
無事煙草の火をもみ消した彼は、内側からカウンターに突っ伏している。
野次馬たちの中にはやけ酒に走ったり、一心不乱に神に祈りを捧げたりする者たちもいる。
唯咲は居心地の悪い思いをしながら、カウンターに突っ伏したまま動かなくなってしまった彼にそっと話しかけた。
「あのう……?」
唯咲の声かけに反応して、ゆるゆると頭をもたげる金髪の彼。近くにその顔を見て、彼の目つきが大変悪いという事に気付く。
「……この男が、《ガディー》の独立遊撃部隊隊長のヴィハーシュ・イクサだと知ってて、その妄言吐いてやがんのか?」
表情の抜け落ちた顔で重苦しく問いかけてくる金髪の彼に、唯咲はぽんと手を打って喜んだ。
「あ、そう、それです。独立遊撃部隊隊長。ああ、すっきりしたぁ」
ぱたん、と金色の頭がカウンターに沈んだ。