気持ちのいい涼やかな風が
気持ちのいい涼やかな風がぼんやりと頬を撫ぜて、唯咲はうっすらと瞼を持ち上げた。さわさわと草の擦れる音に包まれている。遠くからはさらさらと小川の流れる音や、ざわざわと騒ぐ木々枝葉の音も届いてきた。
唯咲は、ゆるゆると瞼を落とした。それから、軋んで痛む全身に澄み渡る新鮮な空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
すうっと、頭の先から足の先まで冴え渡るような爽快さだった。自然と綻ぶ口元を自覚しながら、唯咲は思った。
なんて素敵な夢だろう。
一度でいいから、こんな安らぎを感じたいと常々思っていたのだ。夢でも叶って良かった。
いっそこのまま、夢から醒めなければいいのに。
少し残念に思いながら寝返りを打とうとし――悶絶。何だこれ。全身が滅茶苦茶に痛い。確かに散々殴られたし蹴られたし物投げられたし、心当たりはたっぷりあるのだけれども。
唯咲は寝返りを打つのは諦めて、息を詰めたままゆっくりと元の体位に戻った。そろりと最初のように大の字に寝そべって、やっと息を吐き出す。
ああ、痛かった。
――痛かった?
唯咲は不信に感じて目を開けた。痛覚がある。これは、夢のはずなのに。
すん、と空気を嗅いでみると、草木や水の清涼な匂いが確かに感じ取れる。もちろん風の温度も、草がそよいで頬に当たるのも、全部確かに受け取れた。
――もしかして、これは。
胸中にせり上がってくる疑惑を裏付けるかのように、突如地鳴りが静寂を切り裂いた。
何か大きなものがこちらに向かってくるのを感じて、唯咲は背筋を凍り付かせた。地面が揺れている。大きな音がする。――怖い。
もしかすると、地震かもしれない。唯咲は恐怖と不安で錯乱し、訳も分からずうずくまった。
終われ、終われ、早く終われ。
歯を食いしばって心の中で繰り返し唱える。地面が振動する度に全身の打撲傷から鈍痛が走ったが、そこは慣れたもので黙って耐えた。
その轟音と振動は、収まるどころかさらに勢力を増した。間違いない。明らかに何かがこちらに向かって迫ってくる。
異変が激しくなると比例して増幅していく恐怖に、唯咲は全身が小刻みに震え始めるのに気付いた。自らの身体をかき抱いて震えを抑え込む。
ついに爆音のように鳴り響き始めた轟音に、唯咲は死を覚悟した。
するとどうした事だろう、間近に迫って来ていたはずの轟音が、馬の嘶きと共に大慌てで収束していく。
――馬の嘶き?
唯咲は涙の滲んだ目を開けて、そっと顔を上げ辺りを伺った。
蹄の音がゆっくりと唯咲に近付いてきた。身体中の痛みをひとまず頭から押し出して、ゆっくりと上を見上げる。
「――女か」
空から、ずしんと下腹に響く重低音が降ってきた。稲妻のような声だと思った。低く垂れ込めた暗雲の隙間から威嚇の光を零しながら、低く唸って相手を威圧する絶対的強者のようだと思ったのだ。きっと彼がひとたび怒れば、尋常でない破壊力と圧倒的存在感で大地を大きく穿つだろう。
馬上の人は、言わずもがな男性だった。それも、とても立派な美丈夫だ。
逆光で良く見えないが、広い肩幅に長い手足の、とても均整の取れた長身の人だと分かる。しなやかで獰猛で野性的で凶暴な印象を与える、体つきと雰囲気だった。こうして対峙しているだけで威圧感に圧倒されて、息苦しくなってくる。彼の隅々から、堅気でない危険な香りが漂っていた。
「見覚えのない衣装、見覚えのない肌の色……」
ゆっくと音が紡がれる度に、止めどなく恐怖が沸き上がってくるのを感じた。稲妻のような金色の眼光が唯咲を貫き、地面に縫い付ける。体の自由がきかない。
掠れた重低音が、ゆっくと唯咲に問いかけた。
「名前は?」
「……こむら、いさき」
張り付いたような舌の根で、舌っ足らずに名乗る。声が震えるのを抑えることはできなかった。
「………コムラ?」
重低音に、訝しげな響きが乗った。
その人の周りから、さっと扇状にざわめきが広がって、唯咲は激しく後悔する。不用意に名乗るべきではなかったのだ。この場所では、よほど奇っ怪な名前なのだろう。
けれど彼は、周囲の動揺をものともせずに落ち着き払って問いを発した。
「コムラ・ソウシ。……この名に、心当たりは?」
その名前を理解した途端、全身を支配していた痛みも恐怖も全て吹き飛んだ。唯咲は柔らかな草に覆われた大地から、弾かれたように身を起こす。途端に忘れていた鈍痛が全身を駆け巡り、無様に倒れ込みながらそれでも唯咲は縋るように問いかけた。
「父を……父を知っているんですか!?」
古村 宗志。
それは、唯咲の父の名だった。