古村唯咲は、
古村唯咲は、どこにでもいる高校三年生の18歳とはちょっと言い難かった。
小学四年生の頃に両親を亡くした唯咲は、日本各地の親戚の家を散々たらい回しにされた。今もお世話になっている、父方の親戚である野ノ居夫婦に引き取られたのは中学生になる頃だ。
六年間も居候をさせてくれているからといって、唯咲が歓迎された訳ではない。野ノ居家亭主は特に唯咲を嫌悪しており、毎日のように唯咲に暴力を振るった。唯咲は何も言わずに耐えたが、その態度がさらに不興を買った。
中学二年生なる頃には、唯咲は野ノ居家の家事全般を請け負うようになっていた。部活動などできるはずもなく、休日に友人と遊びに行くなど考え付きもしない。そもそも友人などいないのだが。学校での人間関係も上手くいかず、居候先では虐げられ、唯咲は常に独りだった。
高校に入ってからは学業と家事と、さらにアルバイトも掛け持ちするようになった。睡眠時間も限界まで削り、毎日を追われるように過ごした。
そんな唯咲が心の支えとしていたのは、父の形見でもある古い洋本だ。
どこの言語で書かれているのかもわからないのに、唯咲には何故かそれを読み解くことができた。それは手描きで、しかもどうやら日記のようだった。知らない暦や知らない国や知らない文化で埋め尽くされたその日記には、しかしよく馴染んだ言葉もよく出てきた。ファンタジーの物語のようなその日記は読むだけで非現実を感じさせて、唯咲に現実の苦しさを忘れさせてくれる。
それだけではない、その日記を書いている癖のある筆跡は、どこからどう見ても父の字だった。
父の趣味が創作だとは知らなかったが、唯咲は少しだけ、心の片隅で願っていた。
この世界が本当にあればいいのに、父がこの世界に本当に行ったのであればいいのに。
そうしたら、自分もこの世界に行けるかもしれないのに。
けれど唯咲がその世界に赴く事はなく、幸か不幸か無事高校三年生になった。住み込み可、の求人票を出している企業に事務員として入社試験を受けた唯咲は、見事内定を勝ち取ったのだ。
――ようやく地獄のような日々から解放されると浮かれていたのだ。
唯咲は内定通知を受け取ったその日も、帰宅してすぐに着替えを済ませ、家事に取り掛かった。家中の掃除をして、野ノ居家の子供達におやつを作り、食器を洗って、風呂場を洗ってお湯を張る。それから夕食の準備に取り掛かり、帰宅した野ノ居婦人を迎えて受け取った荷物を適所に片付ける。コーヒーを淹れておやつと共に持って行き、また夕食の準備。その後帰宅した野ノ居亭主を迎えて受け取った荷物を適所に片付け、コーヒーを淹れておやつと共に持って行く。出来上がった夕食を食卓に並べ、同時に作っておいた食後のデザートを冷蔵庫で冷やしておく。それから野ノ居家族に慎ましく食事の用意ができた事を報告し、食卓まで御足労頂くようお願いする。
そこまでは、いつも通り完璧だった。
本当に、少しだけ、浮かれていたのだ。
唯咲は野ノ居亭主にお代わりを要求されて、食器を手に取った。その日はクラムチャウダーだった。皿に並々とそれをついで、野ノ居亭主の前に置く――予定だった。
浮かれていた唯咲は少し注意力が足りなかった。唯咲は手元を狂わせて、野ノ居亭主にクラムチャウダーをぶち撒けて、尚且つ皿を落として割ってしまったのだ。
しまったと思った時には、もう遅かった。
まず耳を劈いたのは、野ノ居婦人の金切り声だった。続いて野ノ居子息達の下品な非難・罵倒が喚き散らされる。平身低頭して謝って、片付けをしようとした唯咲はそのまま壁際に叩きつけられた。野ノ居亭主に殴られたのだ。
罵詈雑言と暴力を全身に浴び、意識が遠のきかけた唯咲だったが、野ノ居長男があの古い洋本を持ってきた事で意識を覚醒させた。自分の唯一の心の拠り所の本だけは、たった一つ手元に残った父の形見だけは守りたかったのだ。
しかし非情にもその洋本は野ノ居亭主に取り上げられ、目の前でページをびりびりと破かれた。床に叩きつけられ踏みつけられて、ようやく唯咲は泣いた。
両親が死んでからは一度も泣かずに耐えてきたけれど、これはあんまりだった。
無駄に硬い洋本の丁装が気に食わなかったらしい。野ノ居亭主はその洋本を掴んで唯咲に振り上げた。
唯咲は今まで何をされても黙っていた。歯を食いしばって必死で耐えてきた。
けれどその日、唯咲は初めて叫んだ。
もしも。
もしも本当に異世界があるのなら。
もしも本当に父が行ったというのなら。
わたしも。
――私も連れて行って!!
命を削るように悲鳴をあげたその刹那、唯咲と洋本が共鳴し合うかのように光を放ち、
そして、消えた。