其の3.心傷(トラウマ)
――法名 無我、十歳。ガルラF地区、義務教育学科校舎。
「――悪ぃ、仕事が入った。ちょいと行ってくるわ」 教室の窓から無我がレビテーションで飛び出していく。――ここではすでにいつもの光景と化していた。
無我の衣服がEXPERT制服に変わり、学校の生徒が見守る中、無我はテレポーテーションで消える。
いまの無我からは想像の出来ないような光景だった。EXPERTを隠すことなく、学校との両立。無我にとってきっとこの時が一番楽しかった事であろう。
――あの出来事が起こるまでは。
無我の去った教室。授業の中断もあいまって、生徒たちがざわつきはじめる。
「やれやれ。またいつものボイコットですかい」
「うらやましいこった。これもEXPERTさまさまか」
EXPERTということで特別扱いの無我をよく思わないクラスメイトも少なからずいる。――だが、こういった陰口が出ると、次の行動はいつも決まっていた。
机が大きな音を立てた。掌を思いっきり机に叩きつけたその音で、ざわついた教室は一転静まり返る。
桐生 幻斗、音を立てたのは彼だった。机を叩きつけ、立ちあがった幻斗に視線が集まる。
「はいはい、授業に戻りますよ。――桐生くんも席について」
幻斗が着席すると、何事もなかったように授業が再開される。
――帰り道、無我と幻斗が並んで歩いていた。
「――なぁ、無我? 一つ聞いていいか?」
「ん? なんだ、幻斗? 急に?」
「いや、な。なんでお前は学校に通うんだと思ってな。無我、お前ほとんどEXPERTの仕事でまともに授業を受けれていないだろ? それなのに、朝早く起きてまで学校に通う理由がわからないんだ。そんなにしてまで通う場所か、学校は?」
「……ようするにお前は『仕事がない時は寝ていた方がマシだろ』って言いたいんだろ?」
「ま、まぁ、寝るに限定はしないが……」
「――学校にはな、EXPERTにはないものがあるんだよ」
「EXPERTにないもの?」
「ああ。俺はそのためだけに学校に通っているんだ」
分かれ道。いつもここで無我と幻斗は別れる。
「――っと、ここまでだな。じゃあな、幻斗。俺は帰って寝るわ」
「待て、無我。――EXPERTにないものってなんだよ?」
「……日常、だよ」
そう言い残し、無我は帰路についた。
――そして、その時は突然にやってくる。無我が望んだ日常が消えてしまう時が。
いつものように、授業中の無我に緊急通信のテレパシーが入ってくる。片耳を掌でおさえ、テレパシーの内容に集中する。これは授業中にテレパシーを受信した時の無我の無意識な行動。いつもならここで勢いよく立ちあがり、EXPERT制服に服を切り替えるのだが、今日は少し違っていた。
ゆっくりと立ちあがり、EXPERTの制服に姿を変える。
「――絶対に教室から出るんじゃねえぞ」 無我は真剣な表情でクラス全員にそう告げた。
ベランダに向かって歩き、そこから飛び降りた。テレポーテーションはなし、無我は校庭に降り立つ。
青い光が無我の身体を包み、赤く光り輝く斬糸を作り出す。
次の瞬間、無我は八体の大鷲テット『ガルーダ』に囲まれていた。
「――おい、見ろよ? テットだぜ」
「おお、すげぇ。あんなデケェ奴初めて見るぜ」
無我になにかと文句をつけるいつもの二人が、無我の言い付けを無視してベランダに出ていた。
無我を囲んでいたガルーダの内の二匹がベランダにいる二人に襲いかかる。
二人の少年は、ガルーダを目の前にして、軽口が消え、身体が震えあがる。
二人の少年に血しぶきがかかる。――瞬殺。テレポーテーションで現れた無我の斬糸で二体のガルーダが血しぶきをあげて絶命する。
「中に入ってろっ!」 声を荒げて無我は言う。斬糸を振って斬糸についた血をおとすと、無我は再度校庭に降りる。
八体のガルーダが無我の手で斬殺される。――それはあまりにも凄惨な光景だった。校庭は血に染まり、その中央に無我がいる。……だが、無我にとってこれはいつもの事。無我は事が終わると教室に戻ってきた。
「ふぅ、片付いた片付いた。さ、先生。授業の再開といきましょうか」
何事もなかったように授業に戻ろうとする無我。だが、いつもの仕事帰りと違い、教室は沈黙と重い空気に包まれていた。
「? どうしたんだ、みんな? テットはもう片付いたぜ?」
まず、いつも文句をつけてくる二人に近づく。
「今日はないのか? いつもの皮肉は?」
無我を見る目が尋常じゃない。その目は恐怖に怯えた目だ。
「おいおい。もうガルーダはいないって」
何を言っても耳に届かないようだ。
「どうしたんだよ? もう、終わったんだぜ?」
無我は幻斗の席へ。
「なぁ幻斗、お前からも――」 無我の手が幻斗の肩に触れる。
震えた幻斗の肩に触れた時、無我はこの空気の意味を初めて理解した。
「……」 無我は呆然と教室を見渡す。
ここにいる全員が、無我を恐怖の対象として見ていた。
「――くっ」 涙をこらえながら、無我は教室の戸を開けて教室を出ていった。
――次の日から、無我が学校に来る事はなくなった。
「――無我にそんな過去があったなんて……」 一通り話を聞いて、夕菜が陸にそう言った。
「今の無我からは想像出来んか? まぁ、無理もないな。今の無我があるのも、全ては幻斗くんのおかげなんだから」
「桐生のおかげ? でも、話の中じゃあ――」
「彼の話じゃ、その夜一晩中泣いていたらしい。――一瞬でも無我をそういう目で見たことに後悔をしてな」
「でも、恐怖に怯えることなんて本能なんだからどうしようもないんじゃない?」
「それでも――いや、そうだからこそなおさら後悔したんだろう。――次の日に幻斗くんは無我に会いにいったそうだ」
「――無我には、会えたの?」
「会えなかった。――その日を境に無我はガルラからいなくなっていたからな」
「いなくなった? どういうこと?」
「無我はもう自宅に帰ることはなくなったんだよ。――数日後、無我の家が売りに出されているのを見て幻斗くんは事の重大さに気付いたんだろうな、それから頻繁にEXPERT本部に電話がかかるようになったんだ」
「もしかして、それを四年も続けたなんて言わないよね?」
「それはないさ。――三日目にこちらから懇願してやめてもらったよ。仕事に差し支えるといってね」
「じゃあ桐生が無我のために費やした四年っていったい……」
「単純なことだ。電話が駄目になったんだ、――無我の居場所がわかっているが連絡が取れない、お前ならどうする?」
「そりゃ、居場所がわかってんだから、直接会って話せばいいんじゃない?」
「そうだ。――だが、言うには簡単だが実際に行動できるか、お前は?」
「出来るかって、そんなの簡単なんじゃ――」
「ちなみに、当時無我はEXPERTの本部にいた。本部の場所は知ってるな?」
「EXPERT本部? そんな、すぐ近くだったら――」
「簡単に会いにいけるか? ガルラからでも?」
「! ――そうだった、桐生は当時ガルラに……」
「でもな、幻斗くんは週末になると本部にやってくるようになったんだ。――土曜日、学校から帰ると日の入りまで仮眠を取って、夜に家を出て、そして、日曜の午前に本部に顔を出す。――初めてやってきたときは俺でも目を疑ったよ。ガルラからプラナの交通費なんて子供が簡単に用意できる金額じゃない、だから彼は自転車で気の遠くなるような距離を走って来たんだ。それが、義務教育学科を終えるまで続いた。それが心を閉ざしてしまった無我に対して幻斗くんが見せた最大の誠意――償いだ」
「……」 言葉がなくなった。
「幻斗くんが義務教育学科を卒業するころには、無我は元の明るい性格に戻っていたよ。――あとはお前も知っているな? その後は過去の自分を知るものがいない場所で、新しい生活を始めたってわけだ。我々EXPERTは正式に幻斗くんを本部施設に招き入れたよ。彼は両親を説得して、一人この街にやってきたってわけだ。――話はこれで終わりだ。今回の件で無我がどうなるかは正直わからん。――だが、お前の前でEXPERTになった以上、もう、俺の家には帰らないだろうな」
「……どうすればいいと思う?」
「お前はどうしたい? ――それがわかっているのなら、俺がどうこう言う問題じゃない」
「……うん」
「じゃ、帰るか。――今日は車がないから特別だぞ? テレポーテーションを使ってやる」
陸が夕菜とともにテレポーテーションでこの場から消えた。
――翌日。夏休み最後の日、夕菜はEXPERT本部の前に来ていた。




