其の1.九十九(つくも)
それは夏休みも終わろうとした頃、舞川家の自室でくつろいでいた無我への緊急通信テレパシーで始まった。
《――九十九が、逃げただと!》 無我が聞いた内容をそのまま聞き返す。
テレパシーの相手は雫。本部からの緊急通信だった。
《わ、私に怒鳴らないでよ。……それにいつ脱獄したのかだってわからないんだって》
《どういう意味だ、雫?》
《無我。アンタ、九十九の能力については知ってるでしょ?》
《ああ。奴の能力は物質に心を宿らせて意のままに操る能力だ》
《でね、独房内の生活用品がまるで九十九がまだ独房内に存在しているかのように勝手に動いていたんだって》
《――やられたな。で、今俺にそのことを連絡してきたってことは?》
《うん。タケルが広域結界を張って九十九の動きを封じることに成功したって》
《広域結界か……、範囲は?》
《……一キロ》 無我に範囲を聞かれ、雫はそう答えた。
《はぁ? それで閉じ込めてるつもりなんかよっ》
《そんなことわかってるよ。でも、あのタケルでさえそれが限界なんだよ。――だから無我、アンタに出撃命令が出てる》
《――命令だと!?》 命令という単語を耳にした瞬間から、無我のテレパシーに怒りの感情ともとれる重い声が反映される。
《ど、どうしたのよ急に? 今のアンタの声、怖いよ?》
《……命令を出したのは虚空か?》 無我のテレパシーの声に凄味が増す。
《ちょ、ちょっと、無我。落ちついてよ、お願いだから》
《虚空の命令かと聞いているっ!》
無我の肩を、誰かが軽く叩く。
「そのへんにしておけ、無我」 いつのまにか、無我の部屋の扉が開いており、そこに陸の姿があった。
《No.71、もう通信を切ってくれていい。あとは俺から直接話す》 陸が仲裁に入った。
《……お願い、します》 事を陸に託し、雫はテレパシーを切断した。
陸は一息ついて、無我に語りかけた。
「虚空の命令で出るのは嫌か?」
「――その名前を口にするな」 いつもの無我では想像のできない光景だった。冷たい目で親しい仲であるはずの陸を睨み付ける。
と、陸が無我になにかを投げ渡した。――銀色に光る小さな物体、鍵だ。
「九十九はM地区の倉庫街一帯に閉じ込めている。そいつを走らせてそれまでに少し頭を冷やせ。――行くか行かないかはお前の判断でいい」 どうやら鍵の正体は陸の車のキーのようだ。
「――行かないと答えたら?」
「誰かが行くさ。――無理とわかっていながらな」
陸を押しのけて無我が部屋を出る。
「――車、どうなっても知らんからな」 鍵をチラつかせ、階段を降りていった。
(――知らなかったとはいえ、No.71が無我への出撃依頼を命令と伝えたのはまずかったな。……しかたがない、本部にいって虚空と話しておかないとな)
その時夕菜は自室に戻るため、1階の階段の前にいた。
「――車、どうなっても知らんからな」
(車? ――アイツ、車なんか借りて何をする気なの?)
無我が階段を降りてくる。――今の無我に、夕菜は目に入っていない。
(――よし) 夕菜は廊下を引き返し、玄関を出る。
車庫に出ると、車の後部座席のドアに手をかける。
(やっぱり鍵をかけてない……)
夕菜は車の中に入り、後部座席の足場の所に伏せて隠れた。
しばらくして、運転席側のドアが音を立てる。鍵を回し、エンジンが起動、車体が震え始める。
(ちょ、ちょっと? まさか動かす気なの?)
クラッチを踏みしめ、シフトレバーを左上――LOWギアに入れた。アクセルをふかし、クラッチの足を緩めると、車はゆっくりと前進し始める。
(嘘でしょ? ――なんで動かせんのよ?)
車はE地区を抜けて、J地区を素通りして走っていく。――M地区の手前の交差点で信号待ちをしている時だった。
「――お前はいつまでそうしている気だ、夕菜?」 突然に無我から声がかかった。
「あは、ははは、気付いてたの?」 夕菜は起きあがり、後部座席に座る。
信号が青に変わり、車が動き出す。
「ねぇ? アンタ、なんで車の運転が出来るわけ? それに、どこに向かってんの?」
「……」 無我の返答はない。
「答えてよ?」
「――着いたら、この中でおとなしくしてもらうぞ」
「な、なによソレ? どこに行くかも言わず、しかも降りるなっていうの?」
車が止まる。――辺りを見ると、港の倉庫街のようだ。無我が車を止めてからすぐ、運転席の窓ガラスが叩かれる。
そこにいたのは、EXPERT制服姿の男性。肩口のNo.は20。タケルだ。
「――陸さん、やっぱり無我はダメですか?」 タケルは車を見て、陸が来たものと思い込んでいるようだ。
「――九十九はこの先か、タケル?」 車の窓を開け、無我が顔を出す。
「無我!? お前、なんで陸さんの車に?」
「質問に答えろ。――九十九を封じたのはこの先か?」
「あ、ああ。――お前、まさか……」 あきらかに様子のおかしい無我に、タケルは何かを言いかけるが――
運転席側のドアを開け、無我が車から降りる。
「車を頼む。――あと、後ろの奴もだ」
「後ろ?」 無我にそう言われ、後部座席を覗き込むと――
「……どうもです」 ばつが悪そうに、夕菜がタケルにあいさつをする。
「キミはたしか……」
タケルが夕菜と顔を合わせた直後だった。周囲の空気が変わる。
「お出迎えか、九十九?」 無我が、倉庫街の方へと歩き始める。
現れたのは、眼鏡ごしに冷たい目を見せる男だった。
「ようやくお出ましか、EXPERT最強の男よ」 男が無我に向かってそう言った。
「大層立派なお芝居で出て来たんだってな、九十九。――覚悟は、いいか!?」
夕菜が目の前にいるというのに、無我の姿がEXPERT制服の姿に変わる。しかも、肩口にはNo.9ではなく『No.2』。そして、顔を隠すフードは――ない。
「! ――まずい」 タケルが突然、陸の車の運転席に乗り込んできた。あわてて扉と窓を閉めて、車全体に防御結界を展開する。
その直後、結界に守られているにもかかわらず、車が激しく揺れる。
「な、なに?」 突然に激しく揺れだす車に、夕菜が困惑の表情を隠せない。
「掴まってろ、身体をぶつけるぞ!?」 タケルが夕菜に、何かにつかまるように指示を出す。
夕菜が窓の外に目を向けると、窓越しに無我の姿が目に入る。
無我の身体を包む青い光と三本の赤く光り輝く斬糸、無我はすでにABモードを発動している。――ただ、それにより発生した衝撃は、仮想空間で凪がエレメンタルフォースを解放した時よりも激しく荒ぶっていた。
「あれが、無我?」 EXPERT姿の無我を目にし、夕菜は信じられない光景を見ているような表情を見せる。
「……ああ。あれが現EXPERTの中では最強の、EXPERT No.2、如月 無我だ」 タケルは無我の事を如月 無我と呼んだ。
「如月? ――法名じゃなくて?」
「ああ。無我がNo.2を身につけているからな」
「……なにを驚けばいいのかわからない、無我がEXPERTで、しかも最強とか言われて、しかも、名前が違ってて――」
「無我が人前でEXPERT姿になること自体、まずないよ。特に、キミのような一般人の前ではね」
言葉を失う夕菜に、タケルは言葉を続ける。
「……今から言う事は無我の前では禁句だ。――無我は二つのEXPERT No.を持っている。No.9の法名 無我と、No.2の――如月 麻衣という人物から受け継いだNo.をね」
「受け継いだって――、その、麻衣って人は?」
「――殉職したよ。旧姓、如月 麻衣。その時の名は、法名 麻衣」
「! ――じゃあ、その人って……」
「ああ。無我の、実の母親だ」
無我の赤い斬糸が九十九の足もとのコンクリートを破壊した。――正確には九十九が攻撃を回避したためそういう結果となったのだが、九十九は無我の攻撃に対して一歩下がっただけなのだ。
無我はさらに攻撃を繰り出す。だが、九十九は普通に後ろ向きで歩くよう攻撃を回避していく。
気が付くと、車を止めた港の入り口付近から離れ、波止場の方に出ていた。
「『木枯』」 無我の放つ、針状の無数の斬糸が九十九を襲う。
木枯は本来、攻撃力の弱い牽制用の攻撃技なのだが、Aモードの斬糸でこの技を使えば話は別である。――この攻撃は簡単には防げない。
「……なんで俺がここに移動したか、わかるか?」
九十九は突然そんなようなことを口にした。……そして、無我からの返答を待たずに言葉を続ける。
「ここには、モノが大量にある」 九十九の背後――防波堤の奥から、大量の波止めブロックが空中に浮遊する。
波止めブロックが無我と九十九の間に割り込むと、木枯に向かって飛来してくる。
針状の赤い斬糸に接触すると、波止めブロックは砕け散った。
しかし、波止めブロックは正面からでは攻撃が防げないと理解し、今度は直撃を避け、斬糸の軌道を上に反らすように波止めブロックが動く。
「健気と思わないか? こいつら、俺を守るためにいろいろ考えてくれているんだぜ?」
「『霹靂』」 無我が技を変更すると、上へと反れた木枯らしの斬糸が一つにまとまり、形状を雷状に変える。
落雷のごとく、霹靂は九十九の頭上へと落ちていく。
――金属が擦れる音を響かせながら、海中から船を固定するための鎖が姿を現した。鎖は無我の霹靂を受けとめ、攻撃を海へと逃す。
「俺を守ってくれるのは、ブロックだけじゃないぜ?」
鎖が無我を襲う。――Bモードに包まれた無我にとって、鎖はなんの効力ももたない。無我は鎖とブロックは無視し、九十九に対し斬糸を振りかぶる。
なんなく無我の攻撃を回避する九十九。――突然、九十九が無我に質問を投げかけてきた。
「――なぁ? なんで車でここに来たんだ?」
「……」 無我は答えない。そして、追撃の手も緩めない。
回避行動をとったまま、話を続ける九十九。
「そろそろじゃないかな? お前の車が暴れ出すのは」
「!」 九十九の意図に今気付いた無我。
「ようやく顔色を変えてくれたな? いかんなぁ、非情に徹することが出来ないんなら、足手まといを連れてくるような真似は遠慮しないとな」
「――なら、いますぐにお前の息の根を止めるだけだ」 無我は九十九に冷たい口調でそう告げる。
「さてさて。出来るのかな、それが?」 ――九十九が身体に青い光を纏い始めた。Bモードの発動だ。
「……Aモード、出力アップ」 それに合わせ、無我はAモードの出力を上げる。無我の斬糸がさらに赤く輝いた。
無我が九十九との間合いを一気に詰める。無我の斬糸は完全に九十九を捉えていた。




