冒険の書1のセーブ・データは消えました【23】(上)
『――記憶にないな』
翌朝。
宿屋から出て、少し離れた場所にあった一軒の食事亭に入り、小さなテーブル席に腰を据えて。
字の読めない俺の代わりにおっちゃんが適当に注文してくれたものは、今ではもう飲み慣れたマズイ木の実の水と、皿に三枚ほど載った干乾びたチーズのようなものだった。
それはともかく横に置くとして。
本当に覚えていないのか? 昨日の夜、俺に言ったこと。
『昨日はだいぶ飲んだからな。――おっと。言っておくが、お前と会話しながら宿に帰ったところまでは覚えているぞ』
その後のことは?
『……。昨日の夜、本当に俺がお前にそう言ったのか?』
うん、言った。
『そうか。そいつは悪かったな』
反省の色なく。
二日酔いにどこか抜けたような顔で、おっちゃんは干乾びたチーズを一口かじった。
『前にもそんなことをお前に話した気がするが、あれは俺の気のせいだったか』
やっぱり俺、こっちの世界の人間なのか? 白狼竜にも言われたから気になるんだ。記憶がないだけだって言われて……。
『で? お前はそう言われてどう思っている?』
え?
『その言葉を鵜呑みに信じてこっちの世界で暮らしたいならそれでもいい。
この世界での生き方が分からないというならば俺が教えてやる。お前にはクトゥルクがある。この世界で生きていこうと思えば何の心配もいらないし、何の苦労も不自由もなく生きていける。城に住んで豪奢な生活をしたいと思えば王様にクトゥルクであることを言えば神様のように扱ってくれる。世界を制しようと思えば今すぐにでも白狼竜を呼び出して制圧することもできる。
向こうの世界のように将来を心配されて親から勉強勉強と言われることは一切ない。もちろんテストも無ければ宿題だってやらなくていい。ここはお前にとって毎日が自由に遊んで暮らせる世界だ。大好きなドラゴンだっているし、魔法だって使いたい放題だ』
いや、別に……。
なんだかこっちの世界に現実逃避しろと言われているような気がして、俺は込み上げてくる苛立ちを顔に滲ませた。
ぶっきらに言い返す。
別に俺、向こうの世界での生活に不満を覚えたことなんて一度もないし、宿題とかもそこまで嫌だと思ってない。そりゃ色々自由がなかったりストレスたまったり嫌なことはたくさんあるけれど、それでもこの世界に逃げたいなんて微塵も──
『そうか? 交信を聞いている限り、お前は向こうの世界で【テスト、宿題、勉強】という言葉を非常に多く使ってストレスを溜め込んで』
俺の思考、全部筒抜けかよ。
『ラジオ感覚で暇つぶしに聞かせてもらっている』
やめろよ、そういうの。俺のプライバシーは完全にゼロじゃないか。
『完全じゃない。俺が暇な時に聞いているだけだ』
ほぼ完全っていうんだよ、そういうの。
『俺がそこまで暇人だとでも?』
いつも何やってんだよ。
『教えない』
ほらな。なんで言わないんだよ。
『野郎のプライベートなんて知りたくもないだろ? 俺だってお前のプライベートには興味がない』
その割にはガンガンと俺の図星を突いてくるよな。
『気のせいだ』
おっちゃんの弱点って何?
『教えない』
教えないとかじゃなくて、なんかもう──何でもいいから本当の教えてくれよ。なんで教えてくれないんだ? ずっと何かを誤魔化そうとしているだろ?
『そう思うか?』
思うよ。だって、なんか──なんで隠すんだ? 本当のこと言えばいいだろ。俺だっておっちゃんの言うことを否定とか拒絶とかしないし、受け入れられることはちゃんと受け入れるよ。俺は本当のことが知りたいんだ。
『教えない』
だから、なんで教えてくれないんだよ。
『……』
最後の一欠けらを口の中に放り込んで、おっちゃんが皿を押して俺にチーズを勧めてきた。
『そろそろこっちの世界の食いモンにも慣れてきただろ。食ってみるか? うまいぞ』
……。
俺は呆れるようにため息を吐いた。
なぁおっちゃん。
『なんだ?』
本当のこと、言う気ないだろ?
肩をすくめておっちゃんは否定する。
『いや、別に』
もういいかげん俺を振り回すのはやめてくれよ。俺、あれから一睡もできなかったんだぞ。
『見ればわかる。目の下のクマが酷いな』
ってか、この世界で眠るってなんだよ。アバターだぜ? 俺。眠る必要なんてないはずだ。
『ゲームの主人公が宿屋に入れば画面が勝手に暗くなって音楽が鳴り、ベッドで寝ているのが基本だ』
どこのファンタジーゲームだよ。だったら言わせてもらうが、ここがゲームの世界だと言うんなら、なぜ俺のHPが回復していないんだ? めちゃくちゃ眠いぞ、今。
『疲労ポイントは蓄積するものだ。そんなことで回復するくらいなら俺の二日酔いも今頃治っているはずだ』
知るかよ、そんなこと。ってか、何の為の宿屋だ?
『何の為もない。宿屋は寝るだけだろ。他に何がある?』
ここはゲームの世界だって言ったよな?
『あぁ……そうだったな』
だったらなんでこんなにリアリティがあるんだよ。
『この世界に入れば誰もが現実味を覚えてくる。そんな感覚だろ?』
だろ? って、それを俺が訊いているんだ。疑問形で返してくるなよ。
『俺は元々この世界の住民だ。お前にとってはゲームでも俺にとっては現実だ。訊くだけ無意味なのがわからないのか?』
もういい。おっちゃんから何聞いても無駄だってことがわかった。
『そうか。そりゃ早めに気付けて良かったな』
じゃぁ最後の質問だ。これだけは教えてくれ。
――俺はいつ、元の世界に戻れるんだ?




