初雪の日
目の前をフッと、白い小さなものが過ぎる。
コートの合わせ目から入り込んでくる寒風に、ちょっとだけ青年は後悔した。
胸に抱えている小さな花束には、現状、さぞや迷惑だろう。
色も鮮やかに束ねられた花々のほとんどはこの季節に咲くものではない。
だけどもうすぐだから、と心の中で呟いて、彼は肩からズレ落ちた鞄を掛け直す。
革靴が音を立てて踏みしめる道行き、この静かな通りにすれ違う人もない。
先ほどから彼の周りをフワリフワリと浮遊する小さな生き物くらい。
それが「雪虫」であると教えてくれたのは、彼がこれから訪ねようとしている少年だ。
友人、のような。けれど、なんだかそれだけだと言うわけでもないような。
誰かに説明するなんて難しい。
正直、自分でさえもよく解っていないのだから。
ふわり。
―――この雪虫は、近いうちに雪が降ることを教えてくれる。
あの少年の言葉が本物ならば。
否、儚い笑顔で笑った彼の言うこと。きっと、間違いは無い。
街から離れた小さな病院は、小高い丘の上にあるため風景を一望できる。
有名観光地ほど見栄えのする景色ではないが、それでも中々の眺めだ。
少年は、ここにいる。
枯れ草が横たわる正面玄関から入り、誰も居ない受付を通り過ぎ、タイルが剥げ落ちた階段を上がって二階へ。
そして右手にある一番奥、扉が壊れた部屋に一歩足を踏み入れると、既に割れ散ったガラス窓の縁に腰掛けていた先客がこちらを見て微笑んだ。
この街では良く見かける高校の制服に身を包み、けれどこの寒さの中、上着は着ていないようだ。
「よお」
「うん」
いつも、この挨拶で始まる。
軽く頷いて彼に近づいて、青年はそっと花束を差し出す。
「これ、いつもの」
そう言うと、照れたようにまた笑って、少年はありがとうと受け取った。
青年が病室のベッドへ腰掛けると、そこから他愛の無い話が始まる。
今日は寒い、テレビの内容はどうだった、なんて。
これも、いつものこと。
「そうだ。名前覚えてる?二組の吉井≪ヨシイ≫、今度結婚するんだってさ」
「ああ、覚えてるよ。で、相手どんな子?」
「とてもいい子だよ。見かけもいい感じだし」
「……ちなみに、胸は?」
「……とある情報筋によれば、Dらしい」
「うわお」
少々下品な笑いを含め。それでも少年は嬉しそうだ。
「しっかし、あのオクテ者の吉井がねえ。……そいや、お前もいい歳だっつうのに、ぜんぜん浮いた話一つ無いんだな?」
「そうでもないよ」
今度は、青年が悪戯っぽく笑う。
きょとん。
目を丸くしてこちらを見ている少年をよそに、カバンを開いて小さな白い封筒を取り出した。
それを、少年へ。
「天野、これお前の分だ」
少年――――天野≪アマノ≫は、まさか、という目で一度青年を見てから、受け取った封筒の表紙を凝視する。
そこには、青年の苗字、「西江≪ニシエ≫」と、もう一つ見覚えのない誰かの名前が並んでいた。
添えられている日付はそう遠くない未来のもの。
“招待状”―――その金色の飾り文字をゆっくりと、指先でなぞる。
何かをこらえるように。
そして次の瞬間。
泣いているようなくしゃくしゃの顔を上げて、けれど天野は本当に嬉しそうに笑っていた。
「おまえ……、っこの、卑怯だぞ!黙ってたなんて!」
「悪い、黙ってたわけじゃないんだけどさ。なんか言い出し辛くて」
「はいはい……お心遣い痛み入りますぅ~」
口先を尖らせ、拗ねたフリをしてみせる。けれど西江にも解っている。それが「フリ」だなんてこと。
「本当に悪かったって。それに付き合ってる彼女が居るって先に言ってたら、お前絶対からかってただろう?」
「何言ってるんだ、当然だろ!」
一瞬の間の後。
双方とも、爆発したように大笑い。
冷えて澄んだ空気に、わんわんと響き染み渡る。
ここには誰も居ない。遠慮もいらない。
息が苦しくなり、止めようとしても抑えきれない程ひとしきり笑い合って、そして。
どちらからともなく、いつの間にかの静寂に気がついた。
その場のものだけではない。
お互い、言葉も笑い声も止めているから、何も聞こえなくなったからではない。
紛れも無く己の内に。
ぽっかりと、小さな空洞が在る。
「―――もうすぐ雪が降るよ」
西江が不意にぽつんと呟く。天野が顔を上げた。
「雪虫でも見たのか?」
「ああ、ここに来るまで、たくさんな」
「そっか」
小さく返してから、天野はまた黙ってしまった。
何かを考え込んでいる訳でもないようだが、ただジッと、花束と白い封筒を眺めている。本当にその横顔は、あの頃と変わっていなかった。
姿も、仕草も、笑い方も何一つ。
変わらないすべてで、天野はとてもよく笑う。
けれど、それはとても不自然なことだ。
「……西江、ありがとうな」
「あ、なに?花束と招待状?」
「いや、それも含めて全部。本当に、ありがとう」
全部、ありがとう。
その後も、何度も天野はそう呟いた。
西江に聞かせるだけでなく、まるで自分にも言い聞かせるかのように。
「俺がこの病室から街を見てたときは、未来ってもう無いんだと思ってたんだ。自分が死んだら、何もわからなくなるんだなって」
「……」
「でも確かに時間は動いてたんだよ、間違いなく。お前はオトナになってくし、もうすぐきっと雪が降る」
とりとめのない言葉。まるで意味がちぐはぐにも思えるような言葉。
そういえば、天野はいつか、同じ様な事を言っていた気がする。
言葉自体は違うけれど、似たような意味の言葉を。
西江は必死に記憶を辿った。
この静寂を早く壊さなければとの思いで掴んだ、ようやっとの切れ端。
――――雪が降った後、世界はどうなっているんだろう。
その光景。
場所はやっぱりこの病室で。
天野はおびただしい量の点滴に繋がれて。
機械から伸びたホースとマスクで息をしていて。
白いベッドの上で、開いているのかそうでないのかわからないほどの瞼を必死に持ち上げて。
「世界は、どうなる?」
誰に訊いたのか、それともただ零れ落ちただけの呟きだったのか。
彼の両親は、その言葉が絶望だけ満ちたものだと信じて疑わなかったから、ただただ泣いていた。
西江はその時、本当にどういう意味か分からなかったから、どこか居た堪れない複雑な気持ちを抱いたまま、その場に立ち尽くしていたのだけれど。
こうして大人になった今。―――否、その過程で少しずつ、彼の言葉の意味がようやく理解できたのだ。
だから、天野が今何を思ってるのか、理解できる。
だけど聞かずにはいれなかった。
「……もう、会えないのか?」
「気がついてんだろ?……もう俺は居ないって」
誰も居ない病院。
だからここまで来る道で誰ともすれ違うことはない。
その場所に行く意味が無いからだ――――自分以外には、誰も。
「それにお前、本当はもうここに来るべきじゃない」
「いや、来るべきとか、そんなんで来てた訳じゃ……俺が来たいから来てただけで」
「そういう意味じゃねえよ」
ばっさり、言葉を切り落とされた。だから西江がそれ以上、先を告げる事は許されない。
なんて事だろう。
悔しさで胸が一杯になる。
もうどうにもならないのか。
西江は必死に言葉を探す。
けれど、何を言えば今を止められるのか、……今も昔も、結局分からないのだ。
どうすれば時間なんて止められるんだろう。
「大体、いい歳した大人がこんな廃墟に花束抱えてくるなんざ、おかしいと思われるに決まってるだろ」
妙にすっきりとした晴れやかな笑顔で、天野はそう言い捨てた。
「俺はもう消える。お前はもうここに来る必要はなくなるんだ」
「……」
先に結論を言われてしまった。
他ならぬ、彼の口から。
全身の力が抜けて、ベッドに上体を倒した。かび臭い匂いと、埃が舞う。
「……ひどいやつだよ、お前」
「ははは、何度でも言え。文字通り痛くも痒くもないんだからな」
「本当に嫌なやつ……」
豪快に笑う天野に背を向けて、西江は顔を隠した。
けれど無意味だという事は分かりきってる。
鼻をすする音は隠しきれないから、泣いてる、なんて彼にはお見通しだろう。
「だからさ、さっき言っただろう。全部ありがとうって」
ああ、言ったよ。確かに聞いた。
けれど、自分の中で割り切れない部分がまだ抗っているのだ。
彼の気配が、少しずつ消えていくのが分かる。
西江の中の何かがそれを止めたくて、必死に、子供のように駄々をこねている。
「あの時」のように。
「なあ、西江。幼なじみとして忠告しておくけど」
いつもの、何でもないような話をするような天野の声。
……忠告って、なんだよ。
そう返すけれど、涙を拭いながらでは、まだ振り向けない。
「幸せになれよ」
透明な音。
冷え切った空気の中、水の波紋のようにひとつ広がって。
ハッとして、西江が振り向いた時には、天野の姿はどこにも無かった。
窓辺に残された、少しだけ萎れた花束と、白い封筒。
「なんだよ、結局またそうやって居なくなるんだ」
毒づきながら、泣きながら。
彼は天野と同じ笑顔で、窓の向こうの寒空へ笑った。
自分と彼との関係はきっと、彼が最後に何気なく呟いたように幼なじみ、とやらになるんだろう。
なんとなく耳にした事はあるが、妙にしっくりくるものだと、西江は笑う。
……それもそうだ。
ずっと一緒に育って、そしてそれはずっと続いていくものだと、あの頃は思っていたから。けれどもう、ここへ来る事も無い。
彼は、消えてしまった。
廃墟を出れば分厚い雲が街全体を覆っていて、空気はいよいよ冬の匂いを膨らませる。
本当にもうすぐ、雪は降るのだ。
正直、ここへ来るようになった切欠が何だったのか、今ではもう思い出せない。
何よりここに通い始めてからが、西江にとって本当に楽しかったからだ。
つかの間の事だとしても、もう居ないはずの彼と同じ時間を共有できたから。
来た時と同じ道を、今度は振り切るために歩く。
あんなに纏わりつくように漂っていた雪虫は、帰り道には一匹として見当たらない。
嗚呼、―――本当に消えてしまったんだ。
止めたはずの涙が、また溢れ出してくる。
「幸せになれよ」
やけに明瞭な言葉が、頭の中で繰り返す。
――――分かってるよ。
強く握り締めた鞄の持ち手。
その僅かにかじかんだ指先に、今年一番の雪が降りて、溶けた。