第8話 灯会
迎えに行く、と僕は答えた。
けれど千歳さんは、すぐには灯喰いのところへ向かわなかった。
「一人で行っても、もう一回割れるだけだよ。仲間を連れていきな」
礼拝堂を出て、群青の中を下へ。千歳さんの重い鎧は、沈むというより、水の中を歩いているように見えた。
【深度 -900m】
【深度 -1,000m】
泡殻が、低くきしんだ。
【圧損 −5/分】
この深さに必要なPRSは100。僕のは90。足りない10の、半分ずつ。
HPが、一分ごとに5ずつ削れていく。
「おや、足りてないね」
千歳さんが振り向いた。
「あたしの分担に入りな」
千歳さんの鎧から、淡い光の輪がひろがった。輪が僕の泡殻に触れて、膜の外側を薄く包む。
【水圧分担:千歳】
見ると、圧損の数字は、−5のままだった。
「減るのは止まらないんですね」
「止まらないよ。分担は、潰れないための傘さ。痛いのは自分持ち」
千歳さんは、からからと笑った。
「でも、傘があると、もっと深くまで行けるだろう」
分かりやすい、と思った。痛みと安全を、別の数字にしてある。
*
群青の底に、塔が立っていた。
灯台だった。
白い石を積んだ、細くて高い塔。半分は海底の砂に埋もれ、壁には光珊瑚がびっしりと絡んでいる。
そのてっぺんで、灯りが回っていた。
真珠白の光の帯が、ゆっくりと群青を掃いていく。光が通りすぎるたびに、遠くの珊瑚の森が、一瞬だけ翠に浮かびあがる。
「灯会の拠点さ。昔は、どこかのゲームの港の灯台だったらしい」
海の底で、まだ船を待っている灯台。
中に入ると、人がいた。
十人ほど。らせん階段の踊り場や、窓辺の石段に、思い思いに腰かけている。話している人、眠っている人、黙って光を眺めている人。
入口の扉がひらいて、泡殻の薄い若いダイバーが一人、ふらふらと入ってきた。
「……割れた。三回目」
「おかえりー」
「おかえり」
あちこちから、気の抜けた声が飛ぶ。誰かが手を叩き、誰かが温かそうな泡を一つ放ってやる。ダイバーは照れくさそうに笑って、踊り場の隅に座りこんだ。
それだけだった。誰も、なぜ割れたのかを訊かない。
「入るのも、出るのも自由。会費もなし。リーダーもなし」
千歳さんが言った。
「だから、あたしも偉くないよ。年寄りなだけ」
「兄ちゃん!」
聞き覚えのある声がした。
らせん階段の上から、継ぎはぎのコートが手を振っていた。泡の束が、風船みたいに揺れている。
【カゲロウ】
カゲロウ。蜉蝣。KAGEROU。名札は、相変わらず規則正しく瞬いていた。
「生きとったか。……いや、割れたんやな。顔に書いてある」
「書いてありますか」
「書いてあるわ。いっぺん割れた人の顔や」
カゲロウは、僕の肩を叩いた。泡殻ごしに、ぽん、と。
「灯会へ、いらっしゃい」
*
灯台のいちばん上の部屋に、もう一人いた。
回る灯りの真下で、女の子が、ランタンを膝に抱えていた。
僕よりずいぶん年下だろうか。肩までの髪に、丸い眼鏡。ランタンの中で、小さな白い炎が揺れている。
【ノア Lv 72 灯守】
「こんばんは。千歳さんが、また誰か拾ってきたって聞いて」
「拾ってきたんだよ」
千歳さんが、平然と言った。
「ノアちゃんはね、うちでいちばん光が強い灯守さ。割れかけた泡を、何べんも戻してもらった」
「千歳さんが無茶するからでしょ」
ノアは、ランタンを少し持ちあげてみせた。白い炎が、眼鏡のレンズに二つ映る。
「湘南のほうから潜ってるの。窓から海が見えるところ」
「現実でも海の近くなんですね」
「うん。だから、夢でも海にいるのかも」
ノアは笑って、僕の泡殻を見た。それから、頭上の名札を。
「……あれ」
「表示は、こうなんです」
僕は、初めて人に説明した。
名前を入力したら、二つの泡になって沈んでいったこと。何を入れても【???】になること。問い合わせ先がないこと。そして、闇の底から聞こえた声のこと。
「その名前、もらったよ、って」
話し終えると、灯台の中が少し静かになった。
「ふうん」
カゲロウが、腕を組んだ。
「名前、とられたんか」
「たぶん。……たぶん、です」
「本当の名前は?」
ノアが訊いた。
「ルカ」
「じゃあ、ルカくんだ」
ノアは、あっさりと言った。
「表示がどうでも、私たちはルカくんって呼ぶよ。それでいいでしょ?」
「ええな。ルカ。呼びやすい」
「ルカ、だね」
カゲロウと、千歳さんも続いた。
三人に、名前を呼ばれた。
頭上の名札を見上げる。
【???】
変わらなかった。
浅瀬で、ウタに呼ばれたときは、にじみが一瞬だけ薄くなった気がした。今は、それもない。三人が呼んでも、疑問符はぴくりともしなかった。
気のせいだったのだろうか。あのときだけ、何かが違ったのだろうか。
「名札なんか、どうでもええねん」
カゲロウが言った。
「わしらが呼んどる。それで足りる」
〈パーティ:???/ノア/カゲロウ/千歳〉
パーティの表示に、四つの名前が並んだ。僕の欄だけが、疑問符のままで。
ノアの名前の横に、小さな数字がいくつか並んでいた。Lv、HP、LUX。その最後に、【FRG 88】。
88。僕の18の、五倍近い。
Lv72なら、そういうものなのだろうか。そのときは、深く考えなかった。
*
「で、灯喰いや」
カゲロウが、床に泡を一つ置いた。泡の中に、小さな礼拝堂の模型が浮かんでいる。
「あいつ、強いで。何人も割られとる」
「戦い方、見せてもらってもいいですか」
僕は、泡の模型に指を入れた。小さな灯喰いが、礼拝堂の中で泳ぎだす。
頭の中で、一度割れた戦いを巻きもどした。
「噛みつきの前に、提灯が暗くなります。暗くなってから、一拍半」
「ほう」
「尾は、横から。三回に一回、提灯が明るくなったあとに来る」
「よう見とるな」
「灯りを食べると、一つにつき60回復します。そして、食べた灯りの数だけ、まわりの珊瑚が白くなる」
千歳さんの兜が、小さくうなずいた。
「それから、提灯。あれは灯りを食べたあとに、必ず一度、強く光ります。食べたものを、あそこに溜めているんだと思う」
言いながら、気づいた。
僕はいま、仕事をしている。
敵の行動を分解して、予告を探して、遊ぶ人が勝てる筋道を組み立てる。七年間、毎日やってきたことだ。誰にも頼まれなくなった、昨日までの仕事。
「作戦は、こうです」
千歳さんが、盾で噛みつきを受ける。ノアが、それを支える。カゲロウの泡の分身を祭壇のまわりに灯して、偽物の灯りにする。食べても回復しない灯りを。
「灯喰いが偽物を食べに行った瞬間、提灯が光ります。そこを、僕が突く」
「それと、もう一つ」
僕は、最後に見た告知を思い出していた。
【告知:深度 -800m 灯喰いが祭壇の灯りを占拠中】
【次の灯り:案内役#07】
次の灯り。灯喰いは、最初からウタを狙っていた。
「あいつは、ウタを“案内役#07”として狙っていました。僕がつけた名前じゃなくて、もう使っていない古い名前で」
「古い名前で、呼んで、食べたんか」
「たぶん。だから、ウタはまだ、あいつの中で“灯り”の扱いになってる。……溜めた灯りは、提灯に集まる」
提灯を割れば、灯りは外に出る。
ウタも、一緒に。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……あかん」
カゲロウが、頭をかいた。
「兄ちゃん、仕事できる人やん」
「元、ですけど」
「元でも、できる人や」
ノアが、くすっと笑った。
「ルカくん、いま、すごく楽しそうな顔してた」
そうだろうか。そうかもしれない。
誰かの役に立ったのは、ずいぶん久しぶりだった。
*
作戦の細かいところを詰めているうちに、ノアが時計を見た。
視界の隅の、現実の時刻。
【3:39】
「あ、そろそろだ」
「毎晩、3時40分ちょうどに落ちるんです、この子」
カゲロウが教えてくれた。いつのまにか、丁寧な言葉づかいになっていた。そういえば作戦の途中で一度、一拍だけ黙ったのだった。
「お薬の時間だから」
ノアは、なんでもないことのように笑った。
ランタンを膝から下ろして、立ちあがる。それから、僕の頭上を見上げた。
名札を見ているのだと思った。疑問符の三つ並んだ、にじんだ枠を。
けれど、ノアの目は、もう少し上を見ていた。
「ねえ、ルカくん」
灯台の灯りが、ゆっくりと一周して、ノアの眼鏡を白く光らせた。
ノアが言った。「ルカくんの名前、私には『???』じゃなくて、白い灯りみたいな空白に見えるよ」




