第10話 三人で一人
チケットのことは、誰にも言えなかった。
言葉にした途端、何かが確定してしまう気がした。差出人の欄を見なかった、あの夜と同じように。
僕はチケットを泡に包んで、持ち物の奥にしまった。
そして、潜った。
【深度 -1,000m】
それからの夜は、たぶん、この海でいちばん楽しい日々だった。
*
狩った。
灯台を出て、群青のさらに下へ。光る烏賊の群れ、骨だけで泳ぐ魚、砂の中で眠る巨大な二枚貝。
「ルカ、右から三匹!」
ウタの歌が、僕たちの足を速くする。今度は、効果元の欄に、ちゃんと名前が入っていた。
【SPD +8%(効果元:ウタ/潮の歌)】
空欄だったところに、彼女の名前がある。それだけで、少しうれしかった。
交易もした。カゲロウの泡の束から、光る石を買い、潮の地図を売る。泡貨は、貯めずに使う。贈れば一日、弾けない。灯台では、誰かが誰かに、毎晩少しずつ泡貨を贈っていた。
昼間は、東京で泡を数えた。
目が覚めるとすぐ、メモ帳に丸を並べる。○ 光る烏賊は左に逃げる。○ カゲロウの温かい泡は、少ししょっぱい。○ 千歳さんは、兜をとらない。
丸の数は、夜ごとに増えていった。ほどけていく記憶より、増えていく記憶のほうが多くなった。
仕事を失ってから、初めてのことだった。
ジョブも試した。
一晩だけ、銛を置いて、灯守になってみた。
「ランタンはね、胸の前で持つの。自分の心臓の高さ」
ノアが教えてくれた。
僕のランタンの光は、ノアのものよりずっと小さかった。マッチを一本擦ったくらいの、頼りない灯り。それでも、暗い岩陰を照らすと、隠れていた小魚がいっせいに逃げていった。
【アビリティ「微光」を習得しました】
小さな灯りを一つ、ともすだけの力。回復量は、ほとんどない。
それでも、手放したくないと思った。
銛撃士に戻るとき、画面が一つひらいた。
【アビリティ持ち越し】
銛撃士 枠 1/1:微光(灯守)
覚えた力のうち、一つだけを次のジョブへ連れていける。
設計者なら、ここは一番強いアビリティを選ばせたい画面だ。迷わせて、組み合わせを考えさせて、楽しませる。
僕は、いちばん弱い光を選んだ。
「いいね、それ」
ノアが言った。理由は訊かなかった。
*
夜を重ねるたびに、泡殻が厚くなっていった。
ある夜の終わり、深度2,000mの岩棚で、それはまとめてやってきた。
ファンファーレが、五回ぶん、ひとつながりに鳴った。金色の泡が、群青の中に滝のように降る。
【LEVEL UP!】×5 Lv 11 → Lv 16
PRS 120 → 170 FRG 18 → 20
「わあ」
ウタが、降ってくる金色に手を伸ばした。
「ルカ、五つも光った」
「五つも光ったね」
まとめて鳴るファンファーレは、一回ずつより、少しだけ照れくさかった。
【深度 -2,000m】
【圧損 −15/分】
要求は200。僕のPRSは170。足りない30の、半分ずつ。
前より痛い。それでも、泡殻はきしむだけで、潰れはしない。このくらいの不足なら、一人でも潜れる。
僕たちは、岩棚の上で休むことにした。
ウタは、千歳さんの隣にちょこんと座って、新しく覚えた潮の歌を口ずさんでいた。
六つの音の旋律とは、別の歌だ。歌潮士の歌は、ちゃんと始まって、ちゃんと終わる。
「ウタちゃん、上手になったねえ」
「でも、前の歌のほうが、すき」
「終わらないほうかい」
「うん。終わらないほう」
千歳さんは、兜の中で小さく笑ったようだった。
「終わらない歌は、いつか誰かに、終わらせてもらうといいよ」
ウタは首をかしげた。僕も、その言葉の意味は分からなかった。
*
カゲロウが、泡の束から温かい泡を配っていた。
「ほい、兄ちゃん。嬢ちゃんも。ノアちゃんは甘いほうな」
関西の言葉。陽気で、少し早口。
視界の隅の、現実の時刻を見た。
【2:29】
「カゲロウさん」
「なんや」
「前から、訊きたかったんです。話し方が、ときどき――」
「ああ、それな」
カゲロウは、笑って頭をかいた。
「隠しとるつもりは、なかってんけどな。わしらは――」
【2:30】
カゲロウの動きが、一拍、止まった。
まばたき一回ぶんの、空白。
それから、同じ口が、まるで違う置き方で言葉を続けた。
「――わたしたちは、三人なんです」
丁寧で、少し硬い声。語尾を一つずつ確かめるような。
「さっきまで話していたのは、湊くんです。大阪の高校生で、今、眠りが浅くなったところ。続きは、わたしが話しますね」
「……あなたは」
「ジウといいます。ソウルで、介護の仕事をしています。今夜は夜勤で、二時半から五時まで、仮眠の時間なんです」
ジウさんは、少し恥ずかしそうに笑った。同じ顔なのに、笑い方まで違った。
「夢潜行は、眠っているあいだしかできませんよね。三人とも、長くは眠れないんです。湊くんは受験生で、寝つくのが零時。わたしは、仮眠の二時間半。もう一人は、ラゴスにいて」
「ラゴス」
「ナイジェリアです。日本との時差は、八時間。向こうの夜九時が、こちらの朝五時」
零時から二時半。二時半から五時。五時から先。
三人の眠りが、リレーのバトンみたいに、一つの体を夜の向こうまで運んでいく。
「一人じゃ、ひと晩もたないんです。でも、三人なら、朝まで灯りをつけておける」
ジウさんは、泡の束を見上げた。
「だから、この子を、家族って呼んでいます」
*
僕は、ずっと気になっていたことを訊いた。
「名札が、三つに切り替わるのは」
「三人の登録名を、順番に映しているんです。カタカナが湊くん、漢字がわたし、ローマ字がトゥンデ。いちばん最初に名前をつけたのが、わたしで」
「だから、ウタには漢字に見えた?」
「わたしにも、理由は分からないんです。深民の子には、いちばん奥にしまわれた最初の字が、そのまま見えてしまうのかもしれません」
ウタが、こくこくとうなずいた。
「虫の字、二つ。ずっと、もぞもぞしてる」
ゆっくり侵されていく名前と、規則正しく交代する名前。浅瀬で感じたあの違いは、間違っていなかった。
カゲロウの名前は、壊れていなかった。最初から、三つあったのだ。
「泡身代わりも、三体までしか出せないんです」
ジウさんが、泡の束から三つの泡を浮かべてみせた。小さな人の形をした泡が、三つ並んで、ぺこりと頭を下げる。
【泡身代わり 最大 3体】
「一人一体、みたいで、かわいいでしょう」
ジウさんは、コートの内ポケットから、厚い帳面を取りだした。
「これは、三人の交易帳です。誰が、いつ、何を売って、何を買ったか。それぞれ、自分の時間のぶんしか書けないので、ページごとに字が違うんです」
めくると、本当に三種類の字が並んでいた。勢いのある崩し字と、几帳面な楷書と、英語の走り書き。
「読み合わせないと、三人とも、全部は分からない。……それが、ちょうどいいんです」
ジウさんは、帳面を閉じた。
*
五時になった。
【5:00】
カゲロウが、また一拍、止まった。
「――Good morning, everyone! いや、こっちは夜か。ハハ!」
明るい声が、岩棚に響いた。
「トゥンデだよ。ラゴスは今、夜の九時。ジウから聞いた? オーケー、じゃあ自己紹介は省略!」
トゥンデさんは、僕の頭上の名札を見上げた。
「キミの名前、クールだね。???。三人で一人の僕らより、ミステリアス」
「直し方、知りませんか」
「知らない。でも、名前がいくつあっても、ひとつもなくても、ここではみんな家族さ」
僕は、笑った。三人分の慰めを、一晩でもらった気がした。
ノアも、笑っていた。
ランタンを膝に抱えて、白い炎の向こうで、肩を揺らして。
その姿が、一瞬、ちらついた。
電波の悪い映像みたいに、輪郭が二重になって、すぐに戻る。
パーティ表示の、ノアの欄。その最後の数字が、音もなく書き換わった。
【FRG 88 → 89】
僕は、自分のFRGが上がった夜を思い出していた。泡が割れて、礼拝堂で目を覚まして。壊れたぶんだけ、脆く、強くなる。
ノアは、今夜一度も割れていない。
僕の声は、思っていたより小さかった。
「……破泡してないのに、なんで上がるの?」




