プロローグ 死者からの荷物
深度表示が、嘘をついていた。
翠の光に満ちた、空洞の大聖堂。僕の手の中には、角の擦りきれた古い企画書が一冊。
「なぜ泡は、弾けなければならない?」
その問いに、僕はまだ答えを持っていなかった。
――そこで、世界は暗転する。
*
三か月前。
死んだ人から、荷物が届いた。
二〇三五年、東京。僕が仕事を失った日の夜のことだ。
玄関脇で、ファブの受け取り口が短く鳴った。壁の時計は、23:14を指していた。
受け取り口には、白い箱がひとつ収まっていた。注文した物を部屋で出力する小型の製造機は、配送便の受け口も兼ねている。
箱には、淡い灰色のラベルが貼られていた。
〈遺言配送〉
〈配達指定時刻 23:14〉
故人が生前に指定した日に、指定した相手へ品物を届けるサービスだ。広告なら何度も見た。受け取る側になるとは、思っていなかった。
差出人の欄は、見なかった。
見れば、何かが確定してしまう気がした。
蓋を開ける。緩衝材の細かな泡の中に、銀色の細い輪がひとつ沈んでいた。
非侵襲型のニューロバンド。眠っているあいだに、意識を夢の海へ“潜らせる”ための機械だ。
その下に、二つ折りの紙が一枚。
今どき珍しい、手書きのメモだった。右上がりの、急いだような字。
『潜って。名前を、なくさないで。――澪』
僕はしばらく、その一行を読むでもなく眺めていた。
箱の底には、名刺ほどの白いカードが一枚、貼りついていた。印刷された文字は一行だけ。
〈接続先 VERDANT//ZERO〉
名前だけは知っていた。世界中の海底ケーブルと、海洋観測のデータを“海水”にして、勝手に育っていく深海。運営会社も、管理者もいない。眠った人だけが潜れる海。
都市伝説みたいなものだと思っていた。
部屋の灯りは、デスクライトひとつだけだった。
*
解雇の通知は、前の日の夕方に届いていた。
丁寧な文面だった。誰が書いたのだろう。たぶん、誰も書いていない。
今朝、社員証は九時ちょうどに失効した。私物は段ボール一箱ぶんもなかった。
僕の仕事は、世界の終わらせ方を作ることだった。
正確には、サービス終了イベントの設計者。運営を終えるゲームや仮想空間の“最後の一日”を組み立てる。
最後の花火の打ち上げ順。住人たちが別れを告げる台詞の長さ。ログアウトの直前に流れる、感謝の言葉の速度。
閉じていく世界を、そこにいた人たちが泣いて、笑って、見送れるように。
先月、僕が最後に手がけたのは、小さな農園ゲームの閉園式だった。
畑のかかしたちが、一体ずつ帽子をとって礼をする。最後の一体だけは、礼の途中で止まる。続きはプレイヤーが、自分の手で帽子をとらせてあげる。
そこを作るのに、三週間かかった。
それを手で設計する人間は、もう要らないらしい。
後任はエンディング自動生成AIだ。世界の記録を読みこんで、四分で“最適な最後の夜”を書きあげる。泣いた人の割合まで、きちんと計測して。
引き継ぎの資料を作ろうとしたら、上司に止められた。
「要らないよ。あっちは、もう全部知ってるから」
そのAIには、名前がなかった。社内では型番で呼ばれていた。
名前のない後任に、僕は席を譲った。
帰りの電車で、ホームの壁一面に“最後の夜”が流れていた。
今夜閉じるという、どこかの小さな仮想の町。住人たちが一人ずつ灯りを消し、手を振り、最後に空いっぱいの花火が開く。
ホームで足を止めた人たちが、静かに泣いていた。
よくできている、と思った。間の取り方も、台詞の短さも、花火の色の順番も。直すところが、ひとつも見つからなかった。
それが、いちばんこたえた。
*
窓の外では、東京の夜景が音もなく瞬いていた。何千万もの灯りのうち、どれが本物で、どれが広告の描いた偽物なのか。もう誰にも、どのAIにも見分けはつかない。
ベッドの端に腰かけて、メモをもう一度ひらく。
潜って。
名前を、なくさないで。
意味が分からない。分からないのに、字の癖だけはよく知っていた。
大事なことほど紙に書く人だった。画面に打ったものは、誰に読まれるか分からないから、と。
学生のころ、赤ペンで企画書を直されるたび、この右上がりの字を見た。余白にはいつも、同じ書きこみがあった。
『終わらせ方が、まだ甘い』
あの人は言っていた。物語は終わらせ方で、それまでの全部の意味が決まるのだ、と。
だから終わらせ方を設計できる人は少ないのよ、と。
その言葉を信じて、僕はこの仕事を選んだ。そして今日、その仕事をなくした。
ニューロバンドを指でなぞる。冷たい金属の内側に、小さな刻印の手ざわりがあった。灯りが弱くて、文字までは読めない。
ふと、思った。
遺言配送には、ときどき誤配があるらしい。ニュースでそう聞いたことがある。
配達の指定時刻も、妙に半端だった。十一時でも、十二時でもない。23:14。
似た名前の、知らない誰か。どこかの見知らぬ「澪」が、どこかの見知らぬ相手に宛てた荷物。
そうであってほしい、と思ったのか。そうでないことを確かめたかったのか。自分でもよく分からない。
僕は箱を裏返し、ラベルを灯りの下に向けた。
宛先には、僕の名前。汐見ルカ。
そのすぐ上の欄に、ずっと目をそらしていた文字が並んでいた。
差出人の欄には、半年前に僕が弔辞を読んだ人の名前が書いてあった。




