真実の愛に気付いた王太子に告げられた婚約破棄を受け入れた公爵令嬢の話
真実の愛に気付いた王太子に告げられた婚約破棄を受け入れた公爵令嬢のその後のその後の話
星も姿を隠す王都の夜。小さな蝋燭を囲み、二人の男が向かい合わせに座っている。二十歳そこそこの若者である二人は、ひどく神妙な、あるいは厳かな表情を浮かべていた。一人が重苦しいものを吐き出すように口を開く。
「……聞いたか? ケルゼン峠の話」
悲鳴のように風が吹き、窓がカタカタと音を立てる。安普請の兵舎は隙間風を拒まず、初夏が近いというのに肌寒さを感じる。もう一人の若者がごくりと喉を鳴らした。
「ああ。バーゼル辺境伯の精鋭三千が、わずか一刻で全滅したっていう、あれだろ?」
蠟燭の火が揺れ、踊るように影が形を変える。赤く照らし出された若者の顔は血の気を失って青白く夜闇に浮かんでいた。
「俺の親戚の知り合いの息子が、その部隊にいてさ。聞いたんだよ、その時何があったのか。どうして三千人もの兵士が、逃げることもできずに全滅したのかを」
若者がぶるっと肩を震わせる。もう一人の若者がかすれた声で問いかける。
「……何が、起きた?」
まるでおぞましいものを見たかのように目を見開き、浅い呼吸をしながら、若者は声を絞り出した。
「でたんだよ。化け物が。あの――」
若者が自らの肩を強く抱く。しかし震えは止まらず、何かから逃れるように若者は目を瞑った。
「――『血塗れスカーレット』が!」
耳をつんざく轟音が鳴り響き、雷光が室内を侵食する。もう一人の若者が怯えたように小さく息を飲んだ。
隣国イシュガルとの国境を守るバーゼル辺境伯は野心家で知られる。イシュガルは今、国王が病に倒れ、第一王子ロランが国政を代行しているが、ロランは統治者の器に非ず、王国内部は混乱の最中にあると言う。その間隙を突き、バーゼル辺境伯が兵を動かしたのは今からおよそ一か月前であった。
「ケルゼン峠は狭く険しい。イシュガルを攻めるのに使うような道じゃない。実際、過去の歴史の中でイシュガル侵攻にケルゼン峠が使われたことはないらしい。だが、バーゼル辺境伯はそれを逆手にとっての奇襲作戦を企てた」
若者はぽつり、ぽつりと状況を説明する。入念な準備を経て、訓練された精兵三千人が満を持して峠を登る。まともに管理もされていない峠道は獣道と大差なく、一歩踏み外せば二度と戻れぬ奈落がすぐ隣で口を開けている。早朝に進発してから兵士たちは黙々と足を踏み出し、昼過ぎには峠を越えた。峠を越えれば、地図の上ではイシュガル領である。しかし敵は侵攻に気付く様子もない。峠を一気に下り、要衝グリーンバゥムを陥とす――士気は大いに上がり、鉄靴の足音が勝利を告げるように響き渡った。その、はずだった。
「……声が、聞こえたそうだ」
凍えるようにカチカチと歯を鳴らし、若者が言った。
「声?」
もう一人が訝しげに問い返す。若者はうなずき、ひどく抑揚のない平板な声で答える。
「『ワ・タァ・シノサン・ポコォス・デナ・ニヲシ・ティル』」
「ど、どういう意味だ!?」
不吉な言葉の響きにもう一人は動揺し、声を荒らげた。若者は蒼白な首を横に振る。
「わからない。ただ、おそらくは呪詛の類だ。何せ、バーゼル伯の精鋭たちがその声を聞いた途端、金縛りにでもあったみたいに動けなくなったということだからな」
もう一人が喘ぐように息を吐き、上着の第一ボタンを外した。乾いた喉を唾で湿し、若者は話を続ける。
「地獄の底から響くような、恐ろしい呪詛の言葉と共に姿を現したのは――」
「姿を、現したのは?」
聞きたい、でも聞きたくない様子で、もう一人が若者に顔を近づける。禁忌に触れるように顔を歪め、若者は浅く早い呼吸の合間に言葉を紡ぎだす。
「……若い、女だったそうだ」
「女!?」
完全に予想外だったのだろう、もう一人は一段高い声で叫ぶ。大きくうなずき、若者は深く息を吐いた。
「……だが、ただの女じゃない。そいつはほとんど誰も通らない峠道にあってあまりにも不自然な、真っ赤なドレスを着ていた」
「ま、真っ赤な……」
もう一人がそう言葉を繰り返し、気圧されたように続きを失う。若者は再びうなずいた。
「ドレスだけじゃない。赤いハイヒールに赤い髪。紅を引いたような赤い唇。そして、透き通るように白い肌――人間にはあり得ぬ金の瞳で兵士たちをにらみ、そいつはもう一度呪詛を繰り返した。『ワ・タァ・シノサン・ポコォス・デナ・ニヲシ・ティルト・イーティル』」
「ひっ!」
遠く稲光が空を走り、もう一人の肩がびくりと跳ねる。若者もまた、心を鎮めるように目を閉じ、沈黙する。何度も呼吸を繰り返し、若者は目を開けた。
「バーゼルの兵は動くこともできず、ただ女を見ているだけだったそうだ。剣を抜くことも、槍を構えることもできない。信じられるか? 最強と謳われるあのバーゼル兵だぞ? それが揃いも揃って、一人の女を目の前にして突っ立ってるだけだったなんて」
事態の異常性を認識し、もう一人が喉を鳴らす。若者は低く重い声を作った。
「『ワン・チャンガ・オビェトール・ヤ・ロガ!』」
「新たな呪いが!?」
再び紡がれた不吉な呪言に、もう一人の顔が絶望に染まる。悲痛な面持ちで若者は言った。
「その呪言と共にその女は兵士たちに襲い掛かったそうだ。ドレスの裾をひらめかせ、まるで優雅に踊るようにな。だが、女の拳は鋼鉄の鎧を容易く貫き、剣を折り、兜を砕いたという。そんなことができる人間などいはしない。あの女は人間じゃなかった。あの峠に棲む化け物に違いないんだ」
自らも呪われることを怖れるように若者は膝を抱く。もう一人が床に手を突き、大きく息を吐いた。
「三千人を拳で地面に沈めた後、返り血を浴びたような真っ赤な姿で、化け物はこう言ったそうだ。『我が名はスカーレット・バゥム。再び我が地を侵すことあらば、その代償は汝らのみならず、汝ら祖国の頂に及ぶものと知れ!』」
「人語を解するのか、その化け物は!」
絶望の表情でもう一人が叫ぶ。若者は拳を握りしめてうなずいた。
「奴は全てを知り、全てを見通すのさ。奴から逃れる術はない。一度その金の瞳に捉えられれば、待っているのは破滅だけさ」
風が木々を揺らし、葉擦れの音を立てる。ぽつぽつと雨が窓を叩いたかと思うと、すぐに横殴りの豪雨となった。若者は膝に顔をうずめる。
「バーゼル伯は再侵攻を決め、王に援軍を要請したそうだ」
「体面ってやつがあるからな。化け物とはいえ女の姿をした、しかもたった一匹に負けたままではいられまい」
迷惑な話だ、ともう一人が眉をひそめた。顔を上げ、若者はもう一人をじっと見つめる。
「……王の返答次第で、俺たちもケルゼン峠に向かわねばならなくなる。『血塗れスカーレット』がいる、その場所に」
もはや絶望を隠す余力もなく、若者は弱々しくもう一人を見る。もう一人は大きく息を吸うと、
「……その時は――」
覚悟を決めたように右手を差し出した。
「――逃げよう」
「ああ、全力で逃げよう」
若者は差し出された手を取り、互いの意志を確かめるように強く握った。




