どうやら私は、ずっと好かれていたらしい
このお話は、
泣かせるための恋愛ではありません。
ただ、
「好き」や「ありがとう」に
なかなか気づけなかった二人が、
ちゃんと恋をするだけの物語です。
重い話の合間に、
少しだけ肩の力を抜いて、
気楽に読んでいただけたら嬉しいです。
恋愛って、もっと分かりやすいものだと思っていた。
たとえば、毎日「好き」って言われるとか。手を繋がれるとか。目が合っただけで赤くなるとか。そういう、分かりやすい“イベント”が起きて、恋が始まるものだと。
でも、私の恋は――たぶん、ずっと前から始まっていた。
ただ、私が気づいていなかっただけで。
「おつかれ。これ、いつもの」
退勤のタイミングがぴったり重なっただけで、彼――篠原さんは、当たり前みたいに紙袋を差し出してくる。
中身は、駅前のカフェのシナモンロール。しかも、アイシング少なめのやつ。
「……え、なんで」
「今日、雨。冷えるでしょ。甘いの食べたら元気出る」
元気、出るけど。というか、欲しいのはそこじゃなくて。
「私、元気ない顔してた?」
「ううん。いつも通り。……でも、元気ない日でも、甘いのは必要」
言い方があまりに自然で、私は返す言葉を見失う。
篠原さんは、同じ職場の一つ上の先輩だ。仕事が早くて、人当たりが柔らかくて、でも、変なところでまじめ。職場の人からは「良い人」として扱われていて、私もそう思っていた。
そう、“良い人”。
きっと誰にでも親切なんだろうな、って。
「ありがと……ございます」
私は、いちいち丁寧語になる。距離を測るみたいに。
篠原さんは、肩をすくめて笑う。
「丁寧すぎ。可愛いけど」
「……え?」
「ん? あ、今のは、独り言」
独り言で「可愛い」って言う人、いる?
その瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねた。なのに私は、知らないふりをしてしまう。
――違う。私は“気づけないふり”が得意なんだ。
だって、気づいたら、怖いから。
もし勘違いだったら。もし私だけが舞い上がったら。もし私が、好かれてるなんて思って、恥ずかしいことになったら。
私は、いろんな“もし”に守られて生きてる。
守られてるせいで、何も受け取れないまま。
⸻
篠原さんは、よく覚えている。
私の苦手な電話対応のタイミングを、なぜか察して隣に座ること。資料の字が細かいとき、さりげなく照明の角度を変えること。私が忙しくなると、勝手にコピーを取っておいてくれること。
そして、紙袋を差し出すこと。
「今日は、抹茶。昨日はシナモンだったから」
「……なんでそんなに把握してるんですか」
「好きだから。……じゃなくて、好み。好み、把握してるだけ」
え、今、好きって言った?
聞き返す前に、篠原さんはいつも通りの顔で歩き出す。私だけが、足元に小さな穴が開いたみたいにふらつく。
こういうのが、何度も続く。
ある日なんて、私が椅子の背に引っかけていたカーディガンが床に落ちたのを見つけて、黙って拾って、私の肩に掛けてくれた。
「寒いでしょ」
そのとき、私は思った。
……これ、誰にでもやる?
いや、やらない。
でも私は、その疑問を喉の奥に押し込む。代わりに、へらっと笑った。
「篠原さんって、優しいですよね」
「優しいのは、君にだけだよ」
「……え?」
「……はい、独り言。独り言、得意なんで」
いや、得意にならないでほしい。
こっちは受け止め方を知らない。
⸻
決定的だったのは、昼休みの会話だった。
「湯気、こっちに来てる。熱くない?」
篠原さんが、私のカップスープの向きを少し変える。
「ありがとうございます」
「うん」
「……え、それだけ?」
「何が?」
「いや、……今の、ありがとうって言ったのに」
「言ったね」
「……普通、どういたしまして、とか」
篠原さんは、少し考えるふりをしてから言った。
「“どういたしまして”って、なんか距離ある」
「距離……?」
「君が言う“ありがとうございます”は、ちゃんと受け取りたい。だから、うん、って言う」
心臓が、また変な跳ね方をした。
それは、優しさのふりをした告白みたいだった。いや、告白のふりをした優しさ? 分からない。分からないけど、胸が熱い。
「……篠原さん、たまに変なこと言いますよね」
「たまにじゃないよ。君の前だと、常に変」
「それ、なんでですか」
「えー……」
篠原さんは、困ったように笑って、でも目を逸らさなかった。
「……君の前だと、ちゃんとしたくなるのに、逆に変になる」
私は、その瞬間、何も言えなくなった。
だって、そんなの。
好きな人の前でしか起きないやつじゃない?
⸻
その日の帰り道、私は同僚の美咲に捕まった。女子更衣室の前で、腕をがしっと掴まれる。
「ねえ、あんたさ」
「……なに」
「篠原さん、あんたのこと好きだよね?」
「え!? な、なに言って……」
「言ってない? じゃあ、私の目がおかしい? “あなただけに甘い”って空気、職場の空調より分かりやすいんだけど」
「……いや、でも、私、別に」
「別に? 別にって何? 別に好きじゃないの?」
私は口を開いて、閉じた。
好き。
そう言ってしまえば簡単なのに、言葉にした瞬間に、世界が変わりそうで怖い。
「……私が、好かれるわけないし」
出てきたのは、最悪の自信のなさだった。
美咲は、真顔になって言う。
「それ、やめな。好かれるわけないって、相手の好きを否定するのと同じだよ」
胸の奥が、ずきっと痛んだ。
私は何度も、自分を守るために、誰かの好意を踏みにじってきたのかもしれない。
⸻
翌日、篠原さんは、いつも通りだった。
いつも通り、私のデスクに紙袋を置く。
「今日は、いちご」
「……なんで毎回、私の好きなものばっかり」
「だって、君が好きだから」
今度は、独り言じゃなかった。
私は、息を止めた。
「……今、言いましたよね」
「言った」
「……好きって」
「言った」
篠原さんは、笑わなかった。ごまかさなかった。逃げなかった。
私だけが、心の中で転んだ。派手に。
「……なんで、そんなに平然と言えるんですか」
「平然じゃないよ。すごい緊張してる」
「してるように見えない」
「見えないようにしてる」
「……なんで」
篠原さんは、少しだけ息を吸って、言った。
「君が怖がると思ったから」
その言葉が、優しすぎて、私は泣きそうになった。泣かないけど。今日は“涙なし”って決めたから。いや、決めたの私じゃないけど。
「……私、怖がってばっかりで」
「うん」
「受け取るの、下手で」
「うん」
「……ありがとうって言うのも、下手で」
「うん」
篠原さんは、いつもみたいに、ちゃんと受け取るための「うん」をくれた。
それが、怖さを少しだけ溶かした。
「……篠原さん」
「なに」
「私、……その紙袋、毎回、嬉しかったです」
「うん」
「……言うの、遅くなりました」
「うん。遅くても、言ってくれたら嬉しい」
私は、喉の奥で、言葉を整える。
好き、という言葉はまだ、熱すぎて持てない。でも、今言えることはある。
私は深呼吸して、言った。
「ありがとうございます」
篠原さんの表情が、ふっと柔らかくなる。
「どういたしまして、って言っていい?」
「……距離あるんじゃないんですか」
「今日は言いたい。……君に、ちゃんと“返す”」
「じゃあ……はい」
篠原さんは、少しだけ照れた顔で、言った。
「どういたしまして」
それから、ほんの少し間を置いて、続ける。
「好きだよ。君の、そういうところ全部」
私は、顔が熱くなって、視線を逸らした。
逸らした先に、紙袋の中のいちごドーナツが見えた。
甘い香りがする。
なんだか、世界まで甘くなったみたいだった。
「……篠原さんって、ずるい」
「どこが」
「優しいのに、ちゃんと攻める」
「攻めてない。やっと言っただけ」
「……じゃあ、私も、やっと言います」
言葉を口にする直前、心臓がうるさい。
でも、逃げない。今日は逃げない。
「……私も、好きです」
篠原さんが、息を止めたみたいに固まって、それから笑った。
ああ、この笑顔は。
私がずっと見てきた“良い人”の笑顔じゃない。
私に向けられた、好きの笑顔だ。
「……じゃあさ」
篠原さんが、少しだけ距離を詰める。
「そのドーナツ、半分こしよう」
「え、そこ?」
「そこ。好きって言えたから、次は普通のことしたい」
「……普通のことって、半分こなんですか」
「うん。あと、手を繋ぐ」
「……普通じゃないです」
「君にとって、普通にしたい」
その言い方が、反則だった。
私は観念して、手を差し出した。
指先が触れて、篠原さんの手が、当たり前みたいに私の手を包む。
怖さが消えるわけじゃない。
でも、“怖いままでもいい”と思えた。
だって、受け取っていいって、今、分かったから。
「……ねえ、篠原さん」
「なに」
「これからは、ちゃんと言います」
「何を?」
「ありがとう、も。好き、も」
篠原さんは、少しだけ眉を上げて、嬉しそうに言った。
「うん。待ってる」
私は、手を繋いだまま、紙袋を揺らす。
「じゃあ、まず」
「うん」
「……今日も、いちごを選んでくれて、ありがとう」
「うん」
その「うん」が、今まででいちばん甘かった。
涙は出ない。
でも胸の中が、幸せでだだ漏れだった。
こういう恋も、あるんだな。
王道って、やっぱり強い。
私は、やっと知った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、
特別な事件も、劇的な別れもありません。
けれど、
日常の中に紛れてしまいがちな
「好意」や「大切にされている感覚」を、
すくい上げるように書きました。
もし読後に、
「この二人、好きだな」
「こういう恋もいいな」
と思っていただけたなら、
それ以上に嬉しいことはありません。




