第35話「セレナの親友の店で」
レストランを出ると、夜の空気がふわりと頬を撫でた。
昼間の熱が少しだけ落ち着いて、街灯の光が路面を柔らかく照らしている。
窓から漏れる灯り、遠くの笑い声、食後の街のざわめき。
それらが全部、“今日”の余韻みたいに心地よかった。
二人は再び街中へ向かって歩き始める。
さっきまでの写真の距離感が、まだ体に残っている気がして――ジークは少しだけ歩幅を調整した。
(……落ち着け、俺。落ち着け)
そんな自分に言い聞かせつつ、ジークは横を歩くセレナへ尋ねる。
「これからどうしますか? 帰るなら駅まで送りますよ?」
セレナは足を止めるほどではないけれど、ほんの少しだけ考える仕草をした。
視線が上を向き、指先がそっと髪に触れる。
それから、少しだけ照れたように――でも、ちゃんと聞こえる声で言った。
「ん~……。もう少しだけ一緒にいて欲しいな……なんて」
(っ——!)
ジークの心臓が、また跳ねた。
断れるわけがない。というか、断る選択肢など最初からない。
「いいですよ! じゃあどこかで飲み直しましょうか? 俺もセレナさんともう少し一緒に居たいですし!」
勢いよく言い切ってから、ジークは少しだけ恥ずかしくなって咳払いをする。
セレナはそんな様子にくすっと笑って、うなずいた。
「ありがと。じゃあ、おすすめのお店があるからそこに行こう?」
「いいですね! 行きましょう!」
こうして二人は、二軒目へ向かうのだった。
しばらく歩いたところで、セレナが嬉しそうに言う。
「ここはね~、私の親友がやってる居酒屋なの。お酒も料理も美味しいから、ジークくんも気に入ると思う!」
そう話しながら、彼女は木の扉に手をかける。
小さな提灯の灯り。
店の看板には、手書き風の文字で――『月光』
扉を開けると、ふわっと香ばしい匂いが流れ出た。
醤油、揚げ物、炭火、そして――軽く混ざる酒の香り。
こぢんまりした店内には、ほどよい温度の活気がある。
「こんばんは~!」
セレナが元気よく挨拶すると、カウンターで作業していた女性が顔を上げた。
「お、セレナ! 久しぶり~! ……って……」
その女性はセレナに気づいて笑った――次の瞬間。
セレナの後ろから現れたジークを見て、口がぱくぱくと動く。
「セ、セレナ……あんた、ついに彼氏が……?」
「ち、ちが……あ、いや……嫌じゃないんだけどそうじゃなくて、彼はお店の後輩で……」
セレナがしどろもどろになる。
耳まで赤い。今日一番赤いかもしれない。
ジークは慌てて一歩前に出て、頭を下げた。
「セレナさんと同じBARで働いてます、ジーク・ハワードといいます」
女性はジークを興味深そうにじっと見て、にやっとした。
「ふぅん、セレナのお気に入りの子ってことね♪ はじめまして、アタシはセレナの親友で、この居酒屋『月光』を経営してるヒカリ・ルツキです! よろしく!」
元気の塊みたいな自己紹介。
ヒカリはそう言いながら、二人にカウンター席を促す。
二人は並んで座り、生ビールを注文した。
ほどなくしてジョッキが置かれる。
泡がふわりと盛り上がり、金色が照明を映して揺れる。
「乾杯」
「乾杯」
ジョッキが軽く触れ合い、澄んだ音が響いた。
二人で飲むビールが、やけに美味しい。
ヒカリはその様子を、微笑ましそうに眺めていた。
「それにしても、あのセレナがまさかボーイフレンドを連れて来るなんてねぇ……。さ、こいつはアタシの奢り。たくさん食べてね!」
そう言うとヒカリは、おつまみをどんどん皿に盛って二人の前に置く。
唐揚げ、枝豆、お刺身。
湯気と磯の香りが、幸福そのものだ。
「ひ、ヒカリ!? こんなにサービスしてもらったら悪いよ……!?」
「いいのいいの! 気にしないで! ……いいところ見せてもらった礼よ!」
「ちょ、ちょっと……! もう……!」
セレナが慌てる。
ヒカリはくすくす笑いながら、二人を楽しそうに見つめた。
初々しさに当てられているのは、ヒカリの方かもしれない。
ビールとつまみが進むと、自然と会話も弾む。
「でね、その時のお父さんがね!」
「うん、昔から引っ込み思案で……。でも、お店に立つようになってから。特にジークくんと出会ってからは……」
「ジークくんは優しくて、面白くて、でも頼りになるよね……!」
セレナが楽しそうに笑って話す。
その笑顔を見て、ヒカリは嬉しそうに目を細めた。
(セレナ、そんなにたくさん笑うようになったんだね……いい顔してるよ)
心からそう思っている顔だった。
「ちょっとお手洗いに行ってくるね」
「わかりました! ここで待ってますね!」
セレナが席を離れる。
残されたのはジークとヒカリ。
ヒカリはセレナの後ろ姿を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「あのセレナがねぇ……。ハワードくん、セレナがあんなに楽しそうに笑うなんて久しぶりなんだ。あなたのおかげね、ありがとう」
「えっ……い、いや……」
ジークは照れくさくて頭を掻く。
ヒカリは優しく微笑んで、続けた。
「セレナのこと……よろしくね?」
「……え?」
ジークが意味を理解しきれない間に、ヒカリは静かに言葉を重ねる。
「あの子昔から引っ込み思案で、人付き合いが苦手な子でさ。10年前のあの事件があって、お母さんを亡くしてからはますます人と距離を取るようになって。こういうお酒の仕事ってさ、人間関係が大事でしょ? 愛想はいいし話はよく聞いてくれるんだけど、いつも誰にでも壁を作っていて……。でも……」
「でも……?」
ヒカリはまた微笑む。
「今のセレナはあなたのおかげか、すごく生き生きとして見えるわ。あの子はきっともう大丈夫」
その言葉が、ジークの胸にすとんと落ちた。
ジークはまっすぐうなずく。
「はい! 俺もセレナさんの夢を応援したいです!」
「ふふ、ありがとうね」
ヒカリは嬉しそうに笑って、さらに言う。
「それにしても、セレナが男の人を連れてくるなんてビックリよ。あの子、子供の頃から妙に真面目で将来の夢一筋だったから」
ジークは意外そうに目を瞬かせる。
「セレナさん、モテるだろうに……」
「あの子、恋愛には奥手なのよ。それに仕事大好き人間だから、恋愛よりもバーテンダーとしての腕を磨くことに夢中なのよねぇ」
(だから反応があんなに初々しいのか……。いや、それは俺もなんだけどさ……)
ジークは心の中でこっそりうなずく。
ヒカリはぐいっと身を乗り出して、断言した。
「でも断言できる。あの子、今すごくときめいてるわ。親友のアタシにはわかるわ! ハワードくん、これからもセレナをよろしくね?」
最後にウインク。
ジークは返事が遅れそうになって、慌ててうなずいた。
そんな会話をしていると、セレナが戻ってくる。
「あれ? 2人でなんの話してたの?」
セレナが微笑むと、ジークとヒカリは顔を見合わせて笑う。
「な、なに? あ、もしかして私がいない間にジークくんに余計なこと言ったんじゃ……?」
「アハハ! そんなんじゃないわよ! 2人の仲の良さを話してただけ!」
ヒカリは笑いながら言って、ジークの肩をぽんと叩いた。
「ハワードくん! 今日は飲んだらセレナを家まで送ってあげてね?」
「ちょ……!? ヒ、ヒカリ!?」
「だってもう夜も遅いじゃない? 最近は何かと物騒でしょ? だからハワードくんに送ってもらってね?」
セレナは真っ赤になって、ジークを見る。
「も、もう! 2人で私をからかって……。ジークくんも何か言ってよ!」
ジークは笑って、やさしく返した。
「あはは。じゃあ今日は俺が送っていきますね」
セレナは少し不満そうに頬を膨らませた。
ジークにはそれがまた可愛らしくてたまらなかった。
それから二時間ほど飲んで食べて――。
「あ~美味しかったぁ! また来ようね!」
セレナが言うと、ヒカリは嬉しそうに笑った。
「いつでもいらっしゃいな! 2人のデートならいつでも大歓迎よ!」
「もう! ヒカリったら……しつこい!」
セレナは恥ずかしそうにしつつ、でもまんざらでもない顔だ。
ジークは深々と頭を下げる。
「じゃあ、また来ます! ごちそうさまでした!」
「ええ! 待ってるわ!」
二人は店を出る。
夜風が少し冷たくて、頬の熱がちょうどよく冷める。
そして、そのままセレナの家へ向かって歩き出した。
道中、二人は今日の思い出を語り合う。
笑って、少し黙って、また笑って。
「本当に送ってくれるの? なんだか悪いなぁ……」
セレナが申し訳なさそうにジークを見る。
「気にしないでください! セレナさんが強いのは知ってますけど、俺が送りたいだけなので!」
その返事に、セレナの口元が少しだけ上がる。
「あぁ……楽しかったなぁ」
夢見心地の表情を浮かべるセレナ。
仕事中の凛とした姿からは想像できない柔らかさに、ジークは思わず見惚れた。
「……ねえ、また一緒に出掛けてくれる?」
「もちろんです! むしろこちらからお願いしたいです!」
セレナは嬉しそうに微笑む。
二人はもう一度見つめ合って、隣を歩く。
最初の頃は沈黙が怖くて、無理に話していた。
でも今は違う。
沈黙さえも、心地いい。
やがて、セレナの家が見えてくる。
「あそこが私の家よ。……着いちゃった、ね」
「着いちゃいましたね」
名残惜しさが、言葉の隙間に滲む。
「またすぐに会えるのに寂しいなんて、変な話よね」
セレナは小さく笑って、ジークに向かって言った。
「今日は本当にありがとう! すごく楽しかった!」
その笑顔があまりに綺麗で、ジークは一瞬、言葉が詰まった。
「こちらこそ、すごく楽しかったです! 今日はいつもと違うセレナさんをたくさん見られたし!」
「もう……! ジークくんったら……」
照れて頬を染めるセレナ。
その反応が可愛すぎて、ジークは思わず微笑んでしまう。
「私もね、いろんなジークくんの一面を見れてよかったです……。プレゼントにネックレスまでもらっちゃったし……。本当にありがとう」
セレナは胸元のネックレスを指先でそっと触れて、嬉しそうに眺めた。
ジークは名残惜しさを飲み込んで、笑顔で告げる。
「それじゃあ名残惜しいですけど、今日はこれで失礼しますね。また明日、お店で会いましょう。おやすみなさい、セレナさん」
ジークが手を振って歩き出す。
「うん! ありがとう。おやすみなさい、ジークくん」
二人は、互いの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
そしてジークの姿が消えると、セレナはそっと家へ入っていく。
夜道を帰りながら、ジークは胸の奥が温かいままなのを感じていた。
静かな街灯の光が、足元を照らす。
風が、少しだけ優しい。
セレナの声。笑い方。恥ずかしそうな顔。
料理の話。お酒の話。
親友ヒカリの意味深な笑み。
全部が、心の中でふわっと反芻される。
ジークの足取りは、自然と軽くなっていた。
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