第25話「ムーフィン一派の逆襲 親子に迫る魔の手」
ジークがバイト先のBAR Luminousに到着すると、店内はまだ開店前の静けさに包まれていた。
グラスは拭き上げられて棚に整然と並び、カウンターの木目は柔らかな照明を受けて艶を帯びている。
レモンの皮を削ったような柑橘の残り香と、磨いた金属。いつもの――“仕事の匂い”だ。
すでにセレナは開店準備を始めていて、氷のケースを確認したり、ボトルのラベルを揃えたりしていた。
「あ! ジークくん、お疲れさまです」
気づいた彼女が振り向いて、いつもの眩しい笑顔で迎えてくれる。
その瞬間、ジークの胸の中の疲労がすっとほどけた気がした。
「お、お疲れさまです! きょ、今日もよろしくお願いしましゅ!」
……噛んだ。
ジークは一瞬固まって、次の瞬間には自分の舌を恨む。
いつまでたっても彼女の笑顔には弱い。
セレナはこらえきれないようにクスッと笑った。
「ジークくん可愛い」
さらっと一言。しかも追撃のニッコリ。
「うぐぅ……は、恥ずかしい」
噛んだ恥ずかしさと、“可愛い”の破壊力のダブルパンチで、ジークの頬は一気に熱くなる。
「ふふ……。それじゃあ今日もよろしくお願いしますね」
「はい、今日もよろしくお願いします!」
二人が仕事始めの挨拶を交わした、その時――
「ジークさん、こんばんは。今日は急遽、私も店に立てることになったから3人だよ。セレナと2人きりにしてやれなくてごめんよ?」
背後から、柔らかい声。
振り返ると、マスターのリチャードがエプロン姿で立っていた。夜の店に馴染みすぎるその佇まいは、やっぱり“この店の中心”だ。
「お父さん、あまりジークくんをからかわないでね?」
セレナが困ったように言うと、リチャードは肩をすくめて笑う。
「ははは! ごめんごめん! 2人ともよろしく頼むよ」
そう言い残してバックヤードへ入っていく背中は、どこか軽い。
(マスター、相変わらずセレナさんには弱いなぁ)
ジークは思わず頬が緩む。
オルティス親子の空気は、店の照明みたいに温かい。
その温度を壊さないように、ジークは黙々と準備を手伝った。
そして――開店時間。
扉のベルが鳴るより先に、空気がざわついた。
重い靴音がいくつも重なり、ドカドカと乱暴に店内へ踏み込んでくる。
十人ほどの男たち。
酒の匂いと汗の匂い、そして“人を見下す視線”。
ジークとセレナは、その風貌だけで察してしまった。――昨日の酔っぱらいの仲間。つまり、ならず者たちだ。
「俺らの仲間2人が昨日このお店で世話になったって聞いたもんでよ? しっかしせめぇ店だな。俺らみたいな大所帯はお断りってか? 店長さんよ」
先頭の男が、挑発するようにカウンター越しに言い放つ。
わざと椅子を蹴るように動かし、音を立てる。
店の空気を“壊しに来た”のが丸わかりだった。
リチャードは表情を変えず、落ち着いた声で返す。
「お客さま、当店は礼儀とマナーを守っていただける方であれば、どなたでも歓迎いたします」
「んん? 俺たちは礼儀もマナーも知らねぇけどな! とりあえず酒と食いもん持ってこいや」
笑い声。怒鳴り声。
カウンターの上に乱暴に手を叩きつける音。
“ここは俺らの場所だ”と言わんばかりの威圧。
だがリチャードは淡々と、言葉を重ねる。
「あなたがたはそうではないようです。どうぞお引き取りください」
一瞬、空気が止まった。
「あぁん? 俺らがその気ならこの店、ぶっ壊してもいいんだぞ!?」
ならず者たちが声を荒らげる。
その瞬間、セレナが一歩、前に出た。
「マスターの言葉が聞こえませんでしたか? ご退店願います」
声は静か。けれど鋭い。
目つきが、氷みたいに冷たかった。
「セレナさん……」
ジークは思わず、心配で彼女を見る。
だがセレナは怯まず、堂々と立っている。
「嬢ちゃんよ……。どうやらあんたにはわからせてやんねぇといけねぇようだな……?」
男たちはじりじりと距離を詰め、取り囲むように動く。
下卑た笑み。視線の舐め回し。
店内の照明が、急に暗く感じた。
セレナは無言で息を整える。
肩の力は抜けているのに、足元は揺らがない。
「へへっ、そんな態度でいられるのもいつまでかな?」
男の一人が、懐から武器を抜いた。
刃が光る。ナイフがセレナへ向けて突き出され――
「!……セレナさん!!」
ジークが叫ぶのと、ほぼ同時。
パシッ――と乾いた音がした。
ナイフを持った男の腕を、誰かが掴んでいる。
「え……?」
間抜けな声を上げた次の瞬間、男は膝から崩れ落ちた。
顔が強張り、息が詰まる。
セレナだった。
掴み、流し、投げた。
それだけで――男は床へ叩きつけられる。
「ぐあ!」
鈍い衝撃音。グラスが小さく震える。
セレナは冷たく言い放つ。
「……もう一度言います。ご退店願います」
睨まれ、ならず者たちは一瞬ひるむ。
だが次の瞬間、怒りと恥で顔を歪めた。
「この女! とっ捕まえて裸にひん剝いてやれ!!」
「おう!」
数人が一斉に飛びかかる。
だが、セレナは――“踊る”ように躱した。
肘、手首、足。
急所を外さず、無駄なく、正確に。
一人、また一人と、床へ転がっていく。
「あが!」「ぐっ!」
(すげぇ……)
ジークは見惚れてしまう。
それほどまでに、動きが洗練されていた。
「くそっ、やりやがる……!」
ならず者たちの表情に、驚きと恐怖が混じり始める。
「ここはマスターが何十年も大切にして来たお店。あなたたちなんかの好きにはさせない……!」
セレナは呟くように言い、さらに制圧する。
「ぐあ!」「がっ!」
二人が倒れ、残った男たちは足が止まる。
「な……なんなんだよこの女! バケモンか!?」
“強い”という事実が、やっと彼らに届いたのだ。
――その時。
店の扉が、また鳴った。
「見事な体術ですねぇ、ですがそこまでですよぉ~、ムッフン!」
ねっとりした声。
長く伸びたヒゲを弄りながら、三人の部下を引き連れて入ってきた男。
(あいつは——!)
昨日、町で騒ぎを起こした――ムーフィン。
やはり、酔っぱらいも、今ここにいるならず者も、彼の部下だったのだろう。
店内の空気が、さらに冷える。
「あなたがこいつらのリーダーですか?」
セレナが睨むと、ムーフィンはニタリと笑った。
その笑みは“人を玩具にする”類のものだった。
ムーフィンが合図すると、さらに多くの部下が雪崩れ込む。
店の中へ、土足で踏み荒らすように。
(くっ……、店内に入られた……!)
セレナは三人がかりで襲ってくる男たちをあしらう。
だが人数差は明らかで、しかも彼女は店や店内の物を守りながら戦っている。
壁際のボトル、棚のグラス、床の段差――守りが多いほど、動きは制限される。
「セレナさん、俺も戦います!」
ジークが踏み出しかけた、その瞬間。
「周りをよく見ることですよぉ、坊や。ほら、マスターさんに銃が向けられています」
ムーフィンの声に、ジークの動きが止まった。
視線を向けると――少し離れた位置から、部下が二人。
リチャードへ銃口を向けている。
一歩でも間違えれば、取り返しがつかない距離。
ジークとセレナの表情が強張る。
「セレナ、ジークさん。こんなことになって残念だが……私のことはいい。今すぐに2人で逃げなさい」
リチャードは落ち着いた声で言う。
その落ち着きが、逆に痛かった。
「お父さん! でも……!」
セレナが言い返そうとしたが、リチャードは首を振って続ける。
「セレナ。たしかにこのお店、そしてお酒もグラスも道具も……全て私の宝だ。だが物はまた手に入る。元に戻せる。……だけど、セレナ。私の最も大切な宝であるお前は、そうはいかない。私の願いはお前の幸せなんだ。だからどうか逃げてくれ」
リチャードは、微笑んだ。
震えるような優しさを含んだ笑みだった。
「お、お父さん……」
セレナは歯を食いしばり、俯く。
拳が小さく震える。
「セレナさん……」
ジークは、息が詰まる。
守ると決めたのに。守りたいのに。
ここでうかつに動けば、マスターの命が危険だ――。
二人を見て、ムーフィンが高笑いした。
「ムッフフフフ! 良いですなぁ~! 美しい親子の絆……感動的ですねぇ~。ですが、その願いは叶わないのですよぉ~!」
さらに、悪意を滲ませる。
「マスター、あなたの大事な宝、娘さんはねぇ~。今からあなたの前で私たちによって汚されるのですよ! どうです? 絶望するでしょう? ムッフフ!」
ムーフィンは下卑た笑みを浮かべる。
その言葉に、リチャードの目が大きく見開かれ、顔色が一気に失われた。
「そ、そんな! それだけは! 娘に酷いことをするのだけはやめてくれ! 私の命でもこの店の物でも、お金でもくれてやる! だからそれだけは!」
悲痛な叫び。
ムーフィンの部下たちがリチャードを床に組み伏せ、身動きを封じる。
「ぅんん~? おかしいですねぇ? 私がいつ、あなたの命やお金がほしいと言いましたか?」
ムーフィンは銃を弄びながら、不気味に笑う。
「私の目的は最初から、あなたの娘さんなのですよ。私の部下を2人も警察に突き出してくれましたからねぇ。たっぷりとお礼をしてやらないといけませんからねぇ! ムッフッフ!」
高笑いが店内に響き、ジークの奥歯が軋む。
(くっそぉ……マスターが人質に取られてたんじゃ、下手に動けないし……)
悔しさで唇を噛みしめるジーク。
この状況を見てか、セレナが静かに口を開いた。
「ジークくん、私のことはいいから逃げてください。ふふ、大丈夫。私がなんとかします……だから……」
微笑んでいるのに、どこか寂しげで、儚げで。
まるで“覚悟”を決めた目だった。
「セ、セレナさん……でも……」
ジークが言いかけた、その時。
「何を言っているのやら。目撃者を逃がすわけないでしょう? それに従業員の彼にも見てもらいましょうよ。凛としたあなたが汚される姿を、ね」
ムーフィンはニヤリと笑い、ゆっくりとセレナへ歩み寄る。
セレナは身構える。
だが、父が人質に取られている。
――動けない。
「くっ……!」
ジークは苦虫を噛み潰したような顔になった。
(この状況をなんとかしないと、早く……!)
胸の奥で叫びながら、ジークは必死に状況を見据えるのだった。
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