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第15話「父の一杯、娘の一杯」

 閉店作業を終えた後、店内はふっと肩の力が抜けたみたいに静かになった。

 看板の明かりは落とされ、外の街灯が窓ガラスに薄く映る。グラスを拭く布の擦れる音も、さっきまでの賑わいが嘘のように小さい。


 三人はカウンター席に並んで座った。

 木目のカウンターはほんのり温かく、疲れた腕を置くと気持ちが落ち着く。

 ジークは背もたれに寄りかけたい衝動をこらえて、きちんと姿勢を正した。

 リチャードがグラスを軽く回し、切り出す。


「疲れてるところ済まないね。……セレナ、今日私の常連さんにお酒を作って出してみてどうだった?」


 ――来ると思っていた話題だ。

 セレナもジークも、なんとなく察していたのだろう。

 セレナは自嘲気味に、小さな息を吐いた。


「レシピも完璧に覚えて、技術にも自信がついて来てた……。それに今日はいつもより完璧だったつもりだった……。でも、やっぱりまだまだでした。マスターの常連さんが飲みたいのは、マスターの一杯です」


 言い終えた瞬間、セレナの肩がほんの少しだけ落ちる。

 カウンターの上で、彼女の指が無意識にグラスの縁をなぞった。


 リチャードはそんな娘をまっすぐ見て、静かに言った。


「セレナ、それはしょうがないんだ。しょうがないんだよ」

「え? どういう……こと?」


 セレナの声がかすかに揺れる。

 ジークも息を潜めるようにして、二人のやり取りを聞いた。


 リチャードは、まるで痛みを扱うみたいに丁寧に言葉を選ぶ。

「私の常連さんはね、私が作ったお酒を飲みに来ているんだ。だからしょうがないんだよ」


 優しい口調。

 けれどセレナにとっては、それが一番刺さった。

「そんな……。レシピも分量も完璧だったのに……。どうして……? 私は一生、お父さんに追い付けないの……?」


 セレナはそう呟いて俯いてしまう。

 髪がさらりと頬に落ち、その影が表情を隠す。

 ジークは、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。


 リチャードはほんの一瞬、辛そうな表情をする。

 それでも、逃げずに続けた。

「いや違うんだ。そうじゃないんだよ」


「え?」

 セレナが顔を上げる。

 リチャードは諭すように、穏やかな声で続けた。

「……セレナのカクテルはね、私の味を完璧に再現している。でもそれは“私のレシピ通りに作ったお酒”なんだ。だからローリングさんたちは味は美味しいけど、何か物足りないって言ったんだよ」


 その言葉に、セレナの表情がまた翳る。

「わからない……。じゃあどうすればいいの? どうしたらお父さんの作ったお酒と同じように、満足してもらえるの?」

 声が少し震えている。

 “焦り”が透けて見える揺れ方だった。


 リチャードは、そこであえてきっぱり言った。

「それはね、無理だよセレナ。セレナがレシピ通りに作ったとしても、私の作ったお酒と同様に満足させるのはいつまでも無理なんだよ」


「……無理?」

 セレナは言葉を失う。

 まるで“一生追いつけない”と言われたように聞こえたのだろう。

 ジークも思わず、リチャードの顔を見てしまう。


 しかし――リチャードは、そこで終わらせなかった。

「私はね、セレナのその真っ直ぐな性格をとても尊敬しているんだ。大学に行くのを諦めて、ずっと努力して来て今はもう立派なバーテンダーだ。でもね、ずっと私を目標に頑張って来たセレナには申し訳ないんだけども……。だけどそれは駄目なんだ」

 リチャードはそう断言した。

 迷いがないぶん、重い。


 セレナは戸惑いを隠せない。

 口を開きかけて、結局何も出てこなくて、唇を噛む。


 その沈黙を破るように、リチャードはカウンターにグラスを二つ並べた。

 カチリ、と澄んだ音が静かな店内に響く。


「セレナ、ジークさんにそれぞれお酒を作ってあげよう。テーマはそうだな……。“このお店のために一生懸命働いてくれているジークさんへの感謝と労いを込めて”、というものにしよう」


 突然の提案に、セレナはぱちっと目を瞬かせた。

 けれどリチャードの眼差しは真剣で、逃げ道のないほどまっすぐだ。

 セレナは素直にうなずいた。

「うん、わかった。……ジークくん、ちょっと時間もらってもいい?」


「あ、はい。もちろん」

 ジークが同意すると、セレナはカウンターの内側へ回り、棚のボトルをじっと見比べ始める。

 ラベルの文字を追う視線は真剣そのもの。

 迷いながらも、“ジークに合うもの”を探しているのが分かる。

 一方でリチャードも、ゆっくり立ち上がった。


「ジークさん、仕事終わりで疲れてるところ申し訳ないけど、私とセレナ、二人が出すお酒を飲んで欲しいんだよ」

「はい……!」

 ジークは背筋を伸ばす。

 なぜだろう、まるで試験の時のように緊張する。


 そして二人は、それぞれのやり方でお酒作りを始めた。

 ボトルを取る音、氷が落ちる音、シェイカーの金属音。

 その一つ一つが、まるで魔法式の詠唱みたいに聞こえる。



 数分後――。


「ジークくん、お待たせしました。元からあるレシピを少しアレンジして作ってみたから、まだ試作品ですらないんだけど……よかったらどうぞ」

 セレナが差し出したカクテルは、光を受けてきらりと色を変える。

 香りがふわっと立ち上がり、眠気と疲れの膜を、やさしく剥がすみたいだった。


「ありがとうございます、いただきます」

 ジークは一口飲んで――目を見開いた。

「甘さと華やかの中に、うっすらと香る爽やかさと切れ味があって、これは……。セレナさん、これ美味いです!」


 言葉がストレートすぎて、自分でも少し恥ずかしい。

 でも嘘はつけない。

 疲れた体に、すっと染み込む。


 セレナは少し照れたように、視線を揺らす。

「あ、ありがとうございます」


 その二人を見て、リチャードは嬉しそうに微笑んだ。

 ――それは父としてではなく、マスターとしての「いい一杯だ」という顔にも見えた。


「さて、ジークさん、私のお酒はどうだろうか?」

 会話が落ち着いたところで、リチャードがグラスを差し出す。


「え? あ、はい! いただきます!」

 ジークは受け取り、一口。

「……うん! これはセレナさんのに味が似てて美味しい! あれ……けど、なんだろう……」

 もう一口。

 さらに一口。

 ジークは眉を寄せ、う~んと唸った。


「何か物足りない、かな?」


 リチャードがニッと笑う。

 ジークはギョッとした。


(お父さんのお酒が物足りない? そんなことがあるの?)

 セレナも驚いて、リチャードの顔、次にジークの顔を見る。


「あ、えっと……うまく説明できないんだけども……」

 ジークが困り顔で言うと、リチャードは満足そうにうなずいた。

「そう、つまりそうなんだよ。私が言いたかったことは」


「ど、どういうこと? お父さん」

 娘の問いかけに、リチャードはゆっくり答える。


「セレナ、レシピ通りに作ることは誰でもできるんだ。もちろんお店に立つとなると技術は必要になるけど、それも練習を重ねればできるようになる。本当に大事なのはね、レシピ通りに作ることだけじゃないんだ。飲んでくれる相手への思いを込めて作ることが大事なんだよ」


 セレナは理解しかけている。

 けれど、まだ腑に落ちていない顔だ。


 リチャードはジークとセレナの前に、今使った材料を見せる。

 ボトルも、シロップも、同じ。

 それを見てセレナはハッとする。

 ――自分が選んだものと、父が選んだものが同じだった。


「思いを込める、というのも簡単なことじゃない。相手のことを知っていないといけないからね。ローリングさん夫妻はセレナの作ったお酒を、美味しいけど物足りないと言ったね。そしてジークさんは今、逆に私のお酒を飲んで物足りないと思った。両方とも、私もセレナも同じ材料で作ったのにどうしてだと思う?」


 答えを返せないセレナ。

 その沈黙を破ったのは、ジークだった。

「マスターの方が自分の常連さんをよく知っていて……逆にセレナさんの方が、俺のことを知っているから……とかですか?」


 リチャードはうなずきながら、軽い拍手を送った。

「うん、正解! そのとおりだよ、ジークさん」


 セレナはまだ納得しきれない顔だ。

 リチャードは穏やかに、しかし丁寧に畳みかける。

「店に何度も来てくれるローリングさんたちのことは、セレナも知っていると思う。でもね、まだ知らないことも多いだろう? これまでの苦労したことや楽しかったこと、もっと踏み込むと好きな音楽、趣味や家族のことなどを知っていれば、もっと相手に思いを込めた一杯を作ることができるんだよ」

 リチャードはセレナの目をまっすぐ見て言った。

「ローリングさん夫妻はね、過去に相当な苦労をされている。来るたびに毎回違うお酒を注文していただいて、最後に今日のお酒に行きついたんだよ。それ以来、あのお二人にとってあのお酒は特別なんだ。だからレシピ通りに作っても、私とセレナとでは味わいが違って感じられるんだろう。それはまるで、それぞれの人生がお酒に込められているかのようだよね」


 セレナは考え込む。

 ――そして、何かを掴んだように小さく息を呑む。

「あ……!」

 思い当たる節があったのだろう。

 リチャードは優しく微笑み、再び語り始める。

「そう……。同じレシピでも作り手によって、そして作り手とお客さんとの関係性によっても、味わいが変わるんだ。あのお二人にとっては、私の作ったあのお酒が唯一無二の一杯だったんだよ」


 セレナは顔を上げ、ちらりとジークを見た。

「じゃ、じゃあ……。ジークくんが私の作ったお酒に比べて、お父さんのお酒を少し物足りないと感じたのも……? お父さんよりも、私の方がジークくんを知っているから?」

 リチャードは柔らかくうなずく。

「うん、そういうことだね。考えてもごらん? 私がジークさんとこうして顔を合わせるのは、最初に会ってアルバイトに勧誘した時を含めてこれでたったの四度目だ。それ以前にも、セレナから話は聞いていたけど直接会うのとは違うからね」

 リチャードはジークをちらっと見てから、セレナへ視線を戻す。

「逆にセレナは、テリーくんがジークさんを連れて来た日から、彼がこのお店を気に入って通うようになり、働き始めてからも彼のことを見ている。セレナは私よりもずっと、ジークさんのことを知っているんだよ」


 セレナは、ようやく腑に落ちたように小さくうなずいた。

「うむ、わかってきたか。セレナ、このお酒を作るにあたってのテーマは、“このお店のために一生懸命働いてくれているジークさんへの感謝と労いを籠めて”というものだったね。具体的にどんなところを工夫したのか、説明できるかな?」


「え? えっと……。ジークくんには“世界政府に入って多くの人を助ける”という夢がある。それにも関わらず、一生懸命この店のために働いてくれるから感謝していて……」

 セレナは一度言葉を区切る。

 そして、仕事に集中している時の顔に戻った。

「今日もたくさん疲れたと思うし、もう明け方なので、ベースのお酒は元にしたレシピよりも度数を低くしました。疲労回復効果を兼ねてハチミツを入れましたが、甘くなり過ぎないように爽やかなキレを感じられるものに仕上げようと考えました」

 リチャードは満足そうにうなずいた。

「うん、そうだね。ジークさんへの感謝と労いを込めるのがこのお酒のテーマだと言ったけど、セレナはそれがいいと思ったんだね」


 セレナはうなずきながら、さらに続ける。

「それに……。ジークくんっていつも笑顔で、疲れてるところを見せないんだけど……。でもこの仕事のこととか試験勉強で、きっと疲れてると思うの。だから、少しでもジークくんを癒しつつ疲れを取りたいなって……」


 その言葉に、ジークの胸がじんと熱くなった。

(セレナさん、そこまで考えてこの一杯を……)

 ジークはセレナのカクテルをもう一口飲む。

 喉を通る香りが、さっきよりも優しく感じた。


「あぁ……うまい……」

 心からこぼれ出たような感嘆。

 その表情は、満ち足りていた。

 それを見たセレナは、これまで感じたことのない衝撃に打たれる。

「ジークくん……」

(私の作ったお酒を飲んだだけで、ここまで喜んでもらえるの……?)


 リチャードも微笑みながら、静かに問いかけた。

「セレナ、嬉しいかい?」

 娘への問いかけは、それだけで十分だった。

 セレナは、ぱっと花が咲くみたいに笑う。

「……うん!」

 満面の笑み。

 その表情を見たリチャードは、深くうなずく。


「セレナ、これでわかったね? 私には私にしか作れない一杯がある。セレナにはセレナにしか作れない一杯があるんだ。一番大事なのはレシピでも技術でもない。相手への思いを込めて作ることなんだよ」

 今度はしっかり納得したように、セレナはうなずいた。

「ローリングさん夫妻は、私のあの一杯を飲みに来てくださった。それをセレナがレシピ通りに作っても、同じものにはならないんだ。だからね、セレナ。セレナは私の味を再現するバーテンダーになるんじゃなくて、セレナにしか作れない一杯を提供するバーテンダーになってほしいんだ。そしたらきっと、私の味目当てで来ていたお客さまたちも、セレナの作る一杯を求めてまた来てくれるようになるよ」


 ジークは、セレナに語りかけるリチャードの言葉を聞きながら、彼が作ってくれた一杯を飲んでいた。

 不思議なことに、先ほどよりもさらに美味しく感じる。


 苦さの中に、ふっとほどける甘さ。

 まるでいまのリチャードそのものだ――厳しくも温かく、娘を導く味。

(ほとんど同じレシピで、こんなに違う一杯になるのか? 奥が深いなぁ……)

 ジークがそんなことを考えていると、リチャードは彼の方を見てニコリと笑った。

 その笑みは、ウィスキーの余韻みたいに静かに残るのだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

次回もよろしくお願いします!

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