第13話「ジークの初出勤!」
翌日の夜――と言っても、ジークにとっては「朝」みたいな感覚だった。
空は暗く、街灯の光が石畳を濡れたように照らしている。風は冷たく、でも胸の奥は妙に熱い。
(……初出勤だ。よし、気合い入れていくぞ)
ジークは肩にかけた鞄の紐を握り直し、看板の灯る店の前で一度だけ深呼吸する。
《BAR Luminous》の文字が、柔らかな光で浮かび上がっていた。
ドアを押すと、鈴の音が軽やかに鳴る。
中は静かで、木の香りとほんのり甘い酒の匂い。壁にはボトルが整然と並び、琥珀色の光が棚のガラスに滲んでいる。
「お、おはようございます! セレナさん!」
勢いよく挨拶しすぎて、声が少し裏返った気がした。
(うわ、やっちまった……!)と内心で顔を覆うが、引き返せない。
「おはようございます。ジークさん」
カウンターの向こうから、セレナが微笑んで返してくれる。
その笑顔だけで、緊張の針が少しだけ緩むのだから困る。
「セレナさん。俺、頑張ります! 今日からよろしくお願いします!」
ジークは直角に近い角度で頭を下げた。
たった二日。されど二日。
バーの作法やルール、グラスの扱い――ネットや本で調べられるだけ調べてきたのだ。
(無駄にならないといいんだけどな……!)
「はい、よろしくお願いしますね」
セレナは優しく頷くと、ジークを手招きして店の奥へ案内した。
バックヤードに入ると、表の落ち着いた空気とはまた違う、仕事場特有の匂いがする。清潔な水と洗剤、乾いた布、そして微かに漂う柑橘の皮の香り。
二人は手分けして開店準備を始める。
「今日は、お客様があまりいらっしゃらないと思いますので……。まずはグラスの磨き方をお教えしますね」
「はい!」
――が、そこでセレナがふと手を止めた。
スポンジを持ったまま、何か考え込むように視線が宙を泳ぐ。
「あ、あの……セレナさん?」
ジークが恐る恐る声をかけると、セレナはぱちりと瞬きをして我に返った。
「あ、ごめんなさいね」
そして少しだけ頬を染めると、言いにくそうに言葉を続ける。
「考えてみたんですけど……ジークさんは一緒に働く従業員です。さん呼びだと、ちょっと距離があるので……あの、ジークくんって呼んでもいいですか?」
「へ?」
脳が一瞬止まった。
(く、くん!?)
耳が熱くなるのを感じたジークは、慌てて頷こうとして首がカクンと揺れる。
「あ、は、はい! もちろんです!」
声も動きもぎこちない。
自分でもわかるくらい、完全に動揺していた。
「ふふ」
セレナは小さく笑い、いたずらっぽく目を細める。
「私のことは、ジークくんの呼びやすい呼び方で構いませんよ」
(え、えええ……!? それって……)
ジークの心臓が、秒針を追い越して走り出す。
――いや違う。仕事だ。仕事。これは職場の距離感の話だ。
わかってるのに、わかってるのに。
「そ、それじゃあ……セレナさんのままで! なんか気恥ずかしいので!」
結局、全力で逃げた。
「はい、わかりました」
微笑むセレナは相変わらず知的で大人っぽい。
なのに、今のやり取りのせいで、いたずら好きな少女みたいな可愛らしさも見えてしまって――ジークはもう、どこに視線を置けばいいかわからない。
「それじゃあ、まずはグラスの磨き方から始めましょうか」
開店までまだ時間がある。
セレナは手際よく手を洗うと、透明なグラスを一つ手に取り、説明しながら洗い始めた。
「このようにして、まんべんなく全体を綺麗に水で流してください」
スポンジに少量の洗剤をつけ、グラスの内側を優しく撫でる。
水滴が光を弾いて、グラスの縁がきらりと光った。
「なるほど……こうですか?」
ジークは真似をしてグラスを洗う。
慎重に、でも手早く。
指の力を入れすぎないようにしながら、角度を変えて水を当てる。
セレナはその様子を見て目を丸くした。
「ジークくん……初めてなのに上手ですね」
「そ、そうですか?」
褒められて、ジークの心の中で盛大なガッツポーズが決まる。
(無駄かもと思ったけど、家で少し練習しておいてよかった~!)
そして数分後。
ついにジークの「初日」がスタートするのだった。
セレナの言った通り、その日のお客はあまり多くなかった。
店内に流れる音楽は静かで、氷がグラスに当たる音がよく響く。
ジークの主な業務はグラス磨きと清掃。
それだけでも、慣れない動きと集中で、気付けば肩が重くなっていく。
(割るなよ……割るなよ俺……!)
祈るように磨き続けた結果――。
「……お、終わった……」
閉店後、カウンター越しに見える店内はすっかり片付いていて、グラスは曇り一つなく並んでいる。
ジークはヘトヘトになりながらも、なんとかやり切った達成感で息を吐いた。
「お疲れ様でした。初日からよく頑張りましたね!」
セレナの労いの言葉が、じんわり染みる。
(よし、この調子で頑張るぞ~!)
「閉店作業は……今日は疲れただろうから、また明日にしましょうか?」
セレナは気遣うように提案した。
でもジークは――ここで引くわけにはいかない。
「いいえ! 早く仕事を覚えて、役に立ちたいですから! それにセレナさんを一人残して帰れません!」
言い切ってから、勢いのままメモ帳を取り出す。
目はギラギラ。自分でもびっくりするくらい元気が戻っていた。
セレナはそんなジークを見て「ふふ」と微笑み、頷く。
「ふふ、ジークくんはやっぱり勉強熱心ですね。それじゃあ、閉店作業の手順を教えますね」
こうして二人で閉店作業を終え、ジークのアルバイト初日は終了した。
店を出る頃には、空の色がほんのり明るい。
夜と朝の境目――冷たい空気が肺の奥まで入ってくる。
「それじゃあ今日の夜に、また。ゆっくり休んでね、ジークくん」
「はい! ありがとうございました!」
ジークは深く頭を下げ、勢いよく帰路についた。
(よし、早く帰って寝よう!)
元気よく駆けていく背中を、セレナはしばらく見送る。
(ほ、本当に元気ね……。でもあんまり無理をさせないようにしてあげないと。ジークくんには“世界政府に入る”って夢があるんだもの)
小さく息を吐き、セレナも自宅へ歩き出すのだった。
早朝に家へ着いたジークは、まだ眠っている二人を起こさないように、忍び足で自室へ戻る。
ドアを静かに閉め、そのままベッドに潜り込んだ。
(んん~、疲れたけど頑張った~! さて、今晩も頑張るぞ!)
布団の温もりに包まれた瞬間、意識が遠のく。
「んん……、ん?」
目を覚ますと、すでに昼を少し回っていた。
ケインは出社済み。アミは買い物に出かけている。
テーブルには、アミが作り置きしてくれた昼食が置いてあった。
ふわっと湯気が立つ匂いがして、腹がきゅっと鳴る。
「ありがとな、アミちゃん」
感謝しながら食べ終えると、ジークはすぐ部屋に戻って世界政府職員試験の勉強を始める。
机に向かう背中は、昨日より少しだけ「大人」になった気がした。
一時間ほどして、アミが買い物から帰ってきた。
軽く会話をしたものの、邪魔をしないほうがいいと判断したアミは、別の部屋で結婚式の準備を進める。
夕方少し前。
ジークはシャワーを浴びて、服を着替える。
髪を拭きながら、メモ帳を開き、昨夜の反省点と手順を再確認する。
さらに一時間ほど、酒の本を読み、頭を仕事モードに切り替えていく。
ケインが帰って来る少し前になると、荷物をまとめて店へ出発するのだ。
「セレナさん、おはようございます!」
「……あ、ジークくん。こんなに早く来なくても大丈夫なのに。でも、ありがとう」
セレナはジークを見ると微笑む。
その笑顔に、疲れが一段軽くなる気がするから不思議だ。
「いえ! 早く仕事を覚えたくて!」
その言葉に、セレナは嬉しそうに笑い、開店準備を一緒に進めていく。
開店時間になると、セレナがジークに声をかけた。
「ふふ……本当に勉強熱心ね。それじゃあ、本日もよろしくお願いいたします」
「はい、よろしくお願いします! セレナさん」
こうして二日目がスタートするのだった。
それから一週間。
ジークは目に見えて仕事に慣れていった。
セレナには「早い」と驚かれたが、家でも酒とバーテンダーの勉強をしている成果だ。
ある日、店の扉が開き、久しぶりにリチャードが店に顔を出した。
「どうも、ジークさん。仕事には慣れてきましたか? セレナ、ジークさんの教育はどうだい?」
背筋の伸びた紳士の声に、ジークは思わず姿勢を正す。
「マスター。ジークくんは飲み込みも早くてとても助かっています。あともう少しで一通りの作業を覚えてもらえるので、カクテルづくり以外はこなせるかと」
その報告に、リチャードは嬉しそうに頷いた。
「そうか、それは良かった。私の見込み以上に仕事熱心でしたね。ジークさん、これからもどうぞよろしくお願いします」
「は、はい!」
ジークは力強く返事をすると、鏡の前に立ってユニフォームのチェックを始めた。
襟元、袖口、ボタン、エプロンの位置――よし。
(ヨシ!)
背筋を伸ばして振り返った、その瞬間――。
セレナがすっと近づいてきて、ジークの首の後ろに指先を伸ばした。
ほんの少しだけ、触れられた感触が残る。
「ふふ、後ろに小さなゴミが付いていましたよ、ジークくん」
「うわぁっ、すいません。あ、ありがとうございます!」
ジークは慌てて頭を下げる。
(距離が近い! 近いって!)
心臓が勝手に騒ぎ出す。
そんな二人の様子を、リチャードがどこか楽しそうに眺めていた。
その視線に気付いたセレナが首を傾げる。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもないさ」
リチャードは口元に笑みを浮かべて続ける。
「セレナはいつから、ジークさんを“くん”づけで呼ぶようになったのかな、と思ってね」
「――っ!?」
セレナが珍しく動揺した。
視線が泳ぎ、頬が一気に赤くなる。
「い、いや、ですね! ジークくんは年下ですし、従業員ですから! でも、あまり距離を感じてほしくなくって……」
そこまで言って、セレナは顔を手で押さえて黙り込む。
そして――。
「か、開店時間までは少し時間があるので、少し休憩してきます。お父さん、ジークくんに変なこと吹き込まないでくださいね!」
逃げるようにバックヤードへ消えていくセレナ。
リチャードは、その後ろ姿を微笑んで見送った。
「いや~、青春だね」
そう言うと笑いながら、ジークの肩をトントンと叩く。
「え!? いや、あの……」
ジークが戸惑っていると、リチャードは「ハハハッ!」と豪快に笑った。
(セレナさんが取り乱してた? も、もしかして俺のこと……? い、いやぁ~、そ、そんなわけないなぁ。けど、セレナさんの可愛い一面が見れて、ラッキー!)
ジークは胸のあたりを押さえながら、必死に平常心を装うのだった。
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