第12話「セレナの笑顔とアミの笑顔」
「それじゃあ私は品出しをして来ます。マスター、少しの間お店をよろしくお願いします。……ジークさん、明後日の晩からよろしくお願いしますね」
セレナはカウンター越しに柔らかく会釈すると、店の奥へと引っ込んでいった。
小さな足音が、木の床にコツコツと吸い込まれていく。
「は、はい! よろしくお願いします!」
ジークは反射的に背筋を伸ばし、ほとんど敬礼みたいな勢いで返事をしてしまう。
……しまった、ちょっと気合い入りすぎたか? と内心で赤くなるが、今さら引っ込められない。
カウンターには、ウィスキーの香りと柑橘の名残が混ざった、落ち着いた夜の匂いが漂っていた。
棚のボトルは琥珀色や深い緑、透明な光を反射して、まるで小さな宝石箱みたいだ。
リチャードは静かな手つきで書類を取り出し、ジークと向き合う。
雇用の条件、勤務時間、簡単な業務内容、注意点。ひとつひとつを丁寧に説明してくれる声は落ち着いていて、聞いているだけで不思議と心が整っていく。
ジークは何度も頷きながら、用紙を受け取り、ペンを握った。
サインをする瞬間だけ、胸がきゅっとなる。
(……ほんとに、働くんだ。ここで)
文字を書き終えたペン先を離すと、妙に現実味が増して、肩の力がすうっと抜けた。
「……これで大丈夫です。では、今日のところはここまでにしましょう」
「はい! ありがとうございました!」
こうして雇用契約を終え、今日のバイト――いや、正確には“初日の前の準備”は終了となった。
ジークはふと、どうしても気になって口を開く。
「でも……なんで俺なんですか? 今日会ったばかりなのに……。他にも優秀な人材は探せば見つかりそうですが……」
ジークがそう尋ねると、リチャードはグラスを指で軽く回し、氷が小さく鳴る音を一つだけ響かせた。
そして、微笑んで言う。
「いいえ。あなたでなければダメなんですよ」
「え? それはどうして……」
思わず首を傾げると、リチャードは少しだけ遠くを見るような目になった。
「セレナが最近よく笑うようになったんです。十年前の、あの事件で母親を亡くし……父である私も病魔に侵されてしまった。それ以降、あの子はあまり笑わなくなって……」
言葉は穏やかだ。けれど、そこに沈んだ時間の重みが滲む。
「自由に生きて欲しかったのですが、私の跡を継ぐ、と頑なでした。私としては、彼女には自分の人生を生きて欲しかったのです。私の存在があの子の枷になってしまうのだけは避けたかった。……それでも、あの子は私の跡を継いでくれると言ったのです」
リチャードはそこまで話すと、少し寂しそうに微笑んだ。
笑みの奥に、父としての愛情と、申し訳なさが同居しているのがわかる。
「そんなセレナが最近よく笑うようになったんです。ジークさんのおかげです」
「え!? いや……俺は何も……」
ジークは慌てて手を振る。
だって自分は、ただ客としてやって来て、彼女の言葉に救われて、この店の雰囲気に癒されていただけで――。
だが、リチャードはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。あなたの存在が、あの子の心を癒やしたのでしょう。テリーくんが連れて来た“可愛いお客さん”がいる、と私に嬉しそうに話してくれました。……ジークさん、あなたのことです」
「…………」
「セレナは、あなたのことを……再び夢を追いかける決断をしたあなたが素敵だ、とも言っていました」
その言葉が胸の奥に落ちて、じわっと熱が広がっていく。
「……セレナさん……」
小さく名前を呟くだけで、心臓が変に跳ねる。
いやいや違う。そういう意味じゃなくて――。
リチャードは続ける。
「あの子は私の跡を継ぐために必死で勉強をしています。それは使命感によるものでした。従業員を増やす提案をしても、これまでなら“自分一人でやってみせる”と言っていたものです」
「ですが、今のあの子は違います。この仕事を楽しみながらやっている。あなたが夢のために必死になる姿に、良い影響を受けたのでしょうね」
リチャードの視線が、まっすぐジークを捉える。
「だから、あなたには感謝しているのです。セレナが笑うようになったのは、きっとあなたの影響なのでしょうから」
ジークにとって、その言葉は――何より嬉しかった。
テリーに連れて来られて以来、セレナの言葉に何度も救われた。
だけどまさか、自分もまた、彼女の力になっていたなんて。
「……ありがとうございます」
ジークは深く頭を下げた。
胸がいっぱいで、うまく言葉が続かない。
「こちらこそ。このお店をよろしくお願いしますね」
リチャードはそう言うと、グラスのウィスキーをゆっくり口に含んだ。
その所作は静かで、大人の余裕があって――格好良すぎる。
その時。
「マスター、ジークさんのユニフォーム……。あら? ジークさん、まだいらっしゃったんですね」
奥からセレナが顔を出した。片手には布地の入った袋。
二人が真剣な表情で向き合っていたものだから、セレナは小首を傾げる。
「どうしたんですか? 二人揃ってそんな顔をして」
リチャードはニッと笑って答えた。
「男同士の大事な話さ。セレナには内緒」
「なにそれ? ふふ、まぁいいけどね」
セレナは呆れたように笑い、口元に手を当てた。
その笑い方が、さっきまでの“お店の微笑”とは違う、素の明るさで。
リチャードが、ジークの耳元へ小声で言う。
「ああやって笑うようになったのは、つい最近なんだよ」
声が本当に嬉しそうで、ジークも自然と笑顔になる。
(セレナさんがたくさん笑って、それを見たマスターもたくさん笑えるように――俺も明後日から、アルバイト頑張らないとな!)
ジークは、心に誓うのだった。
「たっだいマンボ~♪ ケイン、アミちゃん!」
仕事が決まり、喜び勇んで帰ってきたジークだったが、返事がない。
家の中は静かで、電気はついている。――いる、はず。だけど姿が見えない。
「お~い、二人とも……どこに……」
廊下を進むと、二人の部屋の方から――かすかな物音。
布が擦れるような音と、小さく漏れる声。
(あ! ……これは今、新婚二人だけの甘くて大切な時間。邪魔しちゃいけない!)
ジークはその場でピタッと止まり、足音を殺して方向転換。
忍者みたいな動きで自分の部屋へ滑り込むと、電気もつけずにベッドに倒れ込んだ。
(やっぱり夜も俺がいると、二人とも気を使っちゃうよなぁ。やっぱ夜間勤務のバイトでよかったな)
新婚なのに、同居している自分のせいで夫婦水入らずの時間が削れるのは申し訳ない。
ベッドの上で天井を見ながら、ジークはぼんやり反省する。
翌朝。
ジークは二人に、アルバイト先が決まって明後日から働くことを伝えた。
「そっか。そんなに頼りにしてもらえるんなら、よかったじゃん」
ケインは素直に嬉しそうに言う。
その隣でアミも、ぱっと表情を明るくする。
「うん。マスターやセレナさんも良い人でなぁ」
「それはよかったです! おめでとうございます、ジークさん♪」
自分のことみたいに喜んでくれる二人を見て、胸の奥がほっと温かくなる。
「そういうわけだから、ケイン。俺の勤務は夜から早朝だから、お前とは入れ替わりで仕事に行く形になるし、アミちゃんには悪いんだけど午前中いっぱいは疲れて寝てると思う。これからそんな感じの生活になるから、二人ともなにとぞよろしくね」
「ああ、わかったよ。兄ちゃん、久しぶりの仕事だから無茶すんなよ?」
「はい。私、できるだけ音を立てないように家事をしますね!」
二人の返事は、まるで当たり前のように優しい。
ジークは照れ臭くて、頭を掻いた。
(……この家、ほんとあったかいな)
その日。
ジークは自室でパソコンを開き、バーテンダーの歴史や入門知識を調べていた。
画面には“カクテルの基礎”“グラスの種類”“氷の扱い方”――見慣れない単語がずらり。
(少しでもセレナさんの負担が減るように、と……。だぁ~、奥が深いなぁ~、お酒ってのは!)
頭を抱えたところで、階下からアミの声が響く。
「ジークさん、そろそろお昼食べませんか? 私、カレーライスを作ったので!」
その声に、ふぅ、と息が抜ける。
ジークは元気よく返事を返した。
「ありがとう! 今行く!」
パソコンをスリープにして、椅子を引く。
階段を下りていくと、ふわっとスパイスの香りが鼻をくすぐった。
「さぁジークさん、食べましょう! 今日のお昼はカレーライスともずくスープと、きゅうりの和え物です」
テーブルには湯気の立つカレー、つるりとしたもずく、瑞々しいきゅうりの和え物。
家庭の匂いがちゃんとする。
「アミちゃん、ありがとう! さっそくいただきます!」
ジークはスプーンですくって一口。
「……おお、うまい!!」
「本当ですか!?」
アミの目がきらっと輝く。
そして、可愛らしく小さくガッツポーズ。
「やったぁ!」
その無邪気さに、ジークは思わず笑ってしまう。
……だけど、少しだけ真面目な話もしておきたくなった。
「……なぁアミちゃん。いつも美味しいご飯ありがとう。けど、毎日俺に気を使う必要はないぞ? カップ麺とか、自分で握ったおにぎりで済ませるから。あんまり負担にならないようにね」
「そ、そうですか? でも私も好きでやってるので! せっかくなら一緒に食べたいじゃないですか♪」
アミは明るく言う。
それでもジークは、頭を掻きながら続けた。
「いやぁ……あんまり一緒にいるとケインが妬いちゃう、と思うんだ。だから、俺のことは気にせず、アミちゃんは自分の時間も大事にしてほしい」
少し真面目な表情で言うと、アミは一瞬目を丸くした。
それから、ふっと優しく微笑む。
「やっぱりジークさんは優しいですね。自分だって大変なのに、ケインや私のことを第一に考えてくれる。ジークさんは優しくて強い人です」
「そ、そうかな……」
照れ臭くて、ジークは視線をスープに逃がす。
アミは笑顔で頷いた。
「はい。でもジークさんの考えも一理あると思います。ケインにとっても、ジークさんにとっても今が大事な時期ですから。私もこれからは無理せず、家事をやれる範囲でやっていきますね!」
そう言って、アミは和え物を口に入れる。
「うん! 我ながら美味しくできたかも♪」
その横顔を、ジークは優しく見つめるのだった。
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