第二九話 帰宅
目を覚ますと、見慣れない天井があった。
ぼんやりとした視界の端に、蜘蛛の巣が見える。
天井の隅に、主がいるのかいないのか分からない古い巣が張っていた。
(そうだ、昨日は宿がなかなか見つからなくて...)
何軒も宿をハシゴして、ようやく見つかった年季の入った宿。
他に選択肢もなく、ここに泊まる事になったのを思い出した。
厚手の外套にくるまったとはいえ、床で寝た割には、よく眠れた気がする。
身体を起こそうとして、視線を感じた。
——クレアがこちらを見ていた。
ベッドに寝そべったまま、肘をついて頭を起こし...自分の寝顔をみていたのだろうか。
「——っ!」
寝起きの頭が、一気に覚醒した。
慌てて身体を起こす。
「お、おはよう!」
「おはよ」
クレアは姿勢を変えることなく、くすくすと笑った。
「驚きすぎでしょ」
「いや、だって...いつから起きてたの?」
少しむくれたように聞くと、クレアは「ちょっと前」と楽しそうに答えた。
「ベッドを譲ってくれたおかげで、私はよく眠れたから」
そう言って、クレアは微笑んだ。
「寝顔を見るのは、お互い様でしょ?」
その言葉に、ルシアンは何も言えなくなった。
昨日の朝、間近でクレアの寝顔を眺めていたのを思い出す。
「まあ、そうだけどさ」
「下で朝食をとったら、予定を立てましょ」
クレアがベッドから身を起こしながら言った。
『予定』...つまり、いつ、どのように、旧ロス公爵邸に入り込むか、だ。
「そうだね」
ルシアンは頷き、寝る前に脱いだ麻のシャツを着て、鎧下に袖を通す。
革鎧の紐を締めていると、隣でクレアもベッドから降りて着替えを始める気配がした。
ちらりと視界の端に、薄い肌着姿のクレアが映る。
「っ——」
慌てて目を逸らした。
「...何よ、別にいいじゃない」
クレアの声が、少し呆れたように響いた。
「裸になるわけでもないし、下着はつけてるんだから」
「いや、その...」
確かに、傭兵団育ちのクレアにとっては、この程度は日常なのだろうが...
「...下で待ってる」
逃げるように、ルシアンは部屋を出た。
一人残されたクレアは、肩をすくめた。
ふと、窓際の小さな鏡に目をやる。
下着姿の自分が映っていた。
鍛え抜かれた、しかし女性らしい曲線を残した身体。
「...ふーん」
意味ありげに、一人呟いた。
宿の一階は、食堂や酒場を兼ねていることが多い。
高級宿でも安宿でも、この構造はだいたい同じだ。
「おはようございます、朝食をお願いします」
カウンターに声をかけると、昨日の老婆が億劫そうに振り返った。
「娘の方は?」
「すぐに降りてきます」
「遅いお目覚めだね。あんたらが最後だよ」
老婆は愛想なく言いながら、厨房に消えていった。
しばらくして、クレアが階段を降りてきた。
旅装に着替え終えた彼女は、ルシアンの向かいに座った。
「お待たせ」
「俺たちが一番ねぼすけだって言われたよ」
ルシアンはそう言って肩をすくめる。
やがて、老婆が少し深さのある木の器を二つ運んできた。
中身は大きく切った芋や野菜がごろごろと入ったスープ。
湯気と共に、香辛料の良い匂いが立ち上る。
一口啜って、ルシアンは目を見開いた。
「...美味い!」
「本当だ!」
クレアも驚いたように頷いた。
正直、宿の見た目から全く期待していなかった。
野菜の甘みと、肉の旨み。香辛料が効いているが丁度いい具合だ。
素朴だが、丁寧に作られた味だった。
付け合わせの黒パンも冷めてはいたが十分柔らかい。
「お代わりいるかい?」
いつの間にか、老婆がカウンターからこちらを見ていた。
「いいんですか?」
「変に残るより、食べ切ってもらった方が助かることもあるのさ」
遠慮なく、二人ともお代わりをもらった。
「美味しかったです」
食べ終えて、ルシアンは素直に伝えた。
老婆は、ふん、と鼻を鳴らした。
「こんなぼろ宿だからね。何かしら取り柄がないと、流石に潰れるよ」
自嘲気味に笑いながら、空になった器を下げていった。
「さて、本題ね」
クレアが、声を潜めて言った。
他に客はいないが、不法に忍び込む算段だ。
用心に越したことはない。
「やっぱり、夜の方がいいよね」
「それはそうね。明るいうちは目立ちすぎる」
「前にクレアが忍び込んだ時は、どうやって入ったの?」
「正門の跳ね橋の前は、見張りの兵士が篝火を焚いて立ってたから、暗くなってから裏手に回り込んで、壁を越えて入ったわ」
壁、それに跳ね橋...ルシアンは、記憶を辿った。
ロス公爵邸の外壁は、高さ三メートルほどの石壁だったはずだ。
その手前には、幅二メートルほどの小さな堀もある。
決して幅が広くはないが川から引き込まれた水がある程度の水深を維持していたはずだ。
「ごめん、それは俺には無理だ」
「え?」
「二メートルの堀と、三メートルの壁を一気に飛び越えるのは、さすがに出来ないよ」
クレアは、きょとんとした顔をした。
「あ、それもそうね。どうしよう...」
彼女にとっては当たり前のことが、常人には不可能だということを、時々忘れているらしい。
「私が先に壁に登って、ロープを投げるから、それを伝って入るのはどう?」
「...それしかないかな」
危険かもしれない場所に、クレアを先に行かせることへの抵抗はあった。だが、他に方法が思いつかない。
「でも、見張りの兵士も多分、数人だと思うし...二人で気絶させて縛っておく?」
「いや、それはやめよう」
ルシアンは慌てて首を振った。
「もしバレたら、警戒が厳重になるだろうし、後が面倒になるよ。クレア頼りになるけど、ロープ案で行こう」
手持ちの装備を確認する。松明、薬品、包帯、そして五メートルほどの細いロープ。
「でも、このロープじゃ長さが足りないな。十メートルは欲しい」
「じゃあ、宿を出たら買いに行きましょ」
―――――――――
宿を出ると、日がそれなりに高いところまで昇っていた。
真昼とまではいかないものの老婆が『遅い』と言ったのは正しいらしい。
昨日ほどではないが、ヴァーレンの街は人の往来が多い。
公爵の来訪に合わせて集まった商人たちが、まだ残っているのだろう。
ロープを買いに向かいながら、ルシアンは周囲に目を配った。
「一つだけ、確認しておきたいことがある」
「何?」
「ラインバッハ・ノヴァクが、確実に街を離れてから動きたいんだ」
「昨日のことよね」
クレアもルシアンの意図を察したらしい。
「うん。あの男は、人混みの中から俺たちに気づいた。俺の魔眼や、クレアの力を感じ取ったんだと思う」
ルシアンは、声を潜めて続けた。
「もし公爵邸の中で、チェルダロの祠でチェルダロの眷属のロダンが顕現したり、クレアが力を使った時にそばにアイツがいたら...最悪、感づかれるかもしれない」
「...確かにね」
「それに、九年経っても焼け落ちた屋敷に見張りを立てているのは、何かを探しているからだと思う。もしかすると、ラインバッハ本人がそれを探しに来るかもしれない」
「でも、ノクスラントの視察が目的って言ってたよね?」
「そう、カーレストに向かうはずだ。それを見届けてから動こう」
クレアは同意するように頷いた。
道具屋を探しながら、街の様子を窺う。
露店の商人に声をかけると、思いがけない情報が返ってきた。
「ノヴァク公爵様?今朝早くにカーレストに発ったよ。朝市が立つ頃さ」
杞憂だったようだ。
雑貨屋で十メートルほどのロープを買い、二人は街をぶらつくことにした。
日が落ちるまで、まだ時間があるのだ。
中央広場には露店が並び、芸人が曲芸を披露している。
魔物や魔獣が跋扈するノクスラントに隣接する公爵領だからだろう。武具を扱う店が多く、品揃えも良い気がする。
「そういえば、クレアの二振りのショートソードって名のある品なの?」
ふと気になって聞いてみた。
「全然。そりゃ安物じゃないけど、特注品とかじゃないよ」
クレアは、腰の二振りを軽く叩いた。
「メイスの力を使うと、武器の消耗が激しいの。だから、高い物を使っても意味がないのよね」
「消耗品ってこと?」
「そう。こだわりがないわけじゃないけど、折れたり曲がったりするたびに落ち込むのも馬鹿馬鹿しいでしょ?」
なるほど、と納得した。
規格外の膂力で振るわれる剣は、敵だけでなく剣自身にも負担がかかるのだろう。
―――――――――
日が傾き、空が茜色に染まり始めた。
「そろそろ行こうか」
ルシアンの言葉に、クレアは頷いた。
二人は、旧ロス公爵邸へと向かった。
並木道を抜けると、焼け焦げた屋敷の輪郭が見えてきた。
九年前、火に包まれた記憶が、ぼんやりと蘇る。
正門の方角には、篝火の明かりが揺れていた。見張りの兵士が立っているのだろう。
「真っすぐ行くと見つかる、そっちから裏手に回ろう」
クレアの囁きに従い、二人は建物の陰を縫うように移動した。
ぐるりと屋敷の裏手に回り込む。
目の前には、幅二メートルほどの堀と、高さ三メートルの石壁。
日が落ち月明かりの下だと、その壁は想像よりも高く見える。
「見張りの交代タイミングに合わせて動きましょう」
クレアが囁いた。
正門の方から、かすかに声が聞こえる。交代の挨拶だろう。
兵士が声を張りあげ、命を復唱する慣習がありがたい。
「行くわよ」
クレアが、音もなく駆け出した。
軽く助走をつけると堀の手前で踏み切る...常人には不可能な大跳躍が、彼女の身体を宙に舞わせた。
二メートルの堀を軽々と飛び越え、三メートルの壁の上に、猫のようにしなやかに着地する。
幅三十センチほどしかない石壁の上に、器用にしゃがみ込んだクレアが、ロープを投げてよこした。
ルシアンはロープをしっかりと掴み、軽く引いて合図を送る。
クレアがロープを引き始めた。
ルシアンの身体が前に引かれ足が地を離れる。
堀を越える瞬間、壁に激突しそうになったが、咄嗟に足裏を壁につけて衝撃を殺した。
そのまま壁を蹴るようにしながら、クレアに引き上げられていく。
鍛えられているとはいえ、女性の細腕とは思えない腕力で、クレアはルシアンを軽々と壁の上まで引き上げた。
「ありがとう...なんか役割が逆なら様になるんだけどな」
「出来ることをすればいいじゃない」
クレアは涼しい顔で笑った。
壁の上から、敷地内を見下ろす。
月明かりに照らされた庭は、草が伸び放題だった。美しく手入れされていたであろう庭園の面影は、もうない。
そして、その奥に——
業火にさらされ煤で真っ黒になった屋敷が、同じく黒い影を落としていた。
九年ぶりの、生家。
ルシアンは、深く息を吸った。
「...行こう」
二人は、壁の内側、ロス公爵家に降り立った。




