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第二八話 ヴァーレンの夜

ラインバッハ・ノヴァク公爵の姿を魔眼で見た時に走った痛みは、しばらく続いた。


視力に異常が無いようなのは幸いだが、魔眼を得て9年経つが初めての感覚だった。


「ルシアン…とりあえず、離れよう」

クレアに手を引かれるまま、大通りから裏路地へ。


人混みを抜け、ようやく足を止めた時、二人は深く息を吐いた。


「大丈夫?」


「ああ、もう痛みは引いた。……クレアは?」


「私も、もう平気」

そう言いながらも、クレアの表情は硬かった。


「あの男、明日にはカーレストに向かうはずよ。ノクスラントの視察が目的なら、ここには長居しないでしょ」


「そうだね。…街中、人通りも多いし今日は下手に動かない方がいいかもしれないね」

ルシアンは、そう言いながら旧ロス公爵邸がある方角を見た。


生家は、ここから歩いて十分程の場所にある。

いま、先ほど公爵と弟のアルトン卿が入っていった『領務館』は、もともと公領内の図書館だった。旧公爵邸は領務館沿いの並木道の先にあるはずだ。


以前、クレアが調べてくれた情報によれば、今も門前にはノヴァク公爵家の兵が詰めているらしい。


理由は不明だが、何もないのであれば兵を立てる理由はない。また、公爵本人が立ち寄る可能性もゼロではない。


「それじゃ、ラインバッハ公爵がヴァーレンを発った後に動こう。今日は宿を取って休む、でいいかな?」


「賛成。…でも、宿、空いてるかしらね」

クレアが周囲を見渡した。


公爵自身が、一小隊程度の兵を連れてきているだろう。

当然幾つかの宿は借り上げられているに違いない。

また、アルトン卿から街を挙げて歓待するようにとの触れが出ていたこともあり、商機と判断した行商人などをはじめ、いつも以上に人が集まっているだろう。


「傭兵ギルドで宿を紹介してもらうおうか?」


「ん、…やめておきましょ。ギルドの記録に残っちゃうし、公爵邸に忍び込む前に足跡は残したくないから」


クレアの言う事はもっともだ。ギルドに顔を出せば記録が残る。


「そうだね、一軒ずつ探そうか。きっと裏通りの方まで探せば空いてるよ」


大通り沿いや、東西の門付近にある利便性の高い宿は既に埋まっていると判断して、裏通りの宿を当たることにした。


「悪いね、今日は満室だ」


「馬小屋まで一杯だよ、また利用しておくれ」


「今日は、ノヴァク公爵様の兵士の方々で貸し切りなんだ、悪いな」


断られて続け、焦りが出始めた四軒目…


「一部屋なら空いてるよ」

薄暗い受付で、宿の主人だろう老女がぶっきらぼうに答えた。


「一部屋ですか…」

ルシアンは、隣のクレアを見た。


「二部屋は無理ですか?」


「一部屋、何度も言わせないでおくれ。こんなオンボロ宿屋にくるくらいだ、他の宿屋も見てきたんだろ?公爵様のおかげで街中どこも一杯だよ。嫌なら他を頑張って探しな、見つからないと思うけどね」

老女はめんどうくさそうに言った。


「一泊いくらですか?」


「普段は朝食付きで一人銅貨三枚だけどね、今はどこも空いてないだろ?特別価格で一人銅貨五枚。二人で泊まるなら銅貨八枚に負けておくよ」


ろくに掃除が行き届いているようにも見えないさびれた宿に、割り増しで支払うのは釈然としない。だが、文句を言ったところで「嫌なら出ていけ」と返されるだけだろう。


「…どうする?」

小声でクレアに尋ねる。


「仕方ないでしょ。これ以上歩き回って日が暮れたら、野宿になるわ」

クレアは財布から銅貨を取り出した。


「はいよ、二階の右、突き当たりの一つ手前の部屋だ。湯は桶に一杯は料金内だ。追加が欲しけりゃ銅貨一枚追加だよ」


きしむ階段を上がり、部屋の扉を開けると、想像に違わぬ粗末な部屋だ。

ベッドのシーツがこまめに洗濯されているらしいのが救いだ。


窓際に置かれたベッドは、二人で寝るには少し窮屈なサイズ。他には小さなテーブルと椅子が一脚、それだけの部屋。


「…まあ、野宿よりはマシだよね」

クレアが荷物を下ろしながら言った。


「クレアがベッドを使って。俺は床で寝るから」


「床?」


「野営用の外套があるから大丈夫だよ」

ルシアンは、自分の外套を広げて見せた。


厚手の生地で、野営時には敷布にも掛布にもなる優れものだ。


「一緒にベッドを使えばいいんじゃない?」


「え?」

我ながら間抜けな声を出した気がする。


「昨日だって、一緒に寝てた訳だし、今更距離をとらなくてもよくない?」


「いや、あれは二人とも疲れてたしさ…あと俺も男だからね」


ルシアンの言葉を聞いて、クレアがニヤリと口角を上げる。


「ルシアンは、一緒に寝ると私に手を出したくなるってこと?」

にやにやと、揶揄うような視線を向けてくる。


「そりゃ、当たり前だろ。自分が可愛いことくらいちゃんと自覚してくれよ」


「…そ、そっか。ありがとう?ごめん?…分かった」


ルシアンが顔を赤くしながら言うと、言われたクレアも次第に顔が赤くなり、しどろもどろに答える。


「とにかく、クレアがベッドを使って」


「ん、わかった…」

クレアは後ろを向いた。耳まで赤い。


気まずい沈黙が流れる。


「…お湯、もらってくるね」

クレアが逃げるように部屋を出ていく。


一人残されたルシアンは、深く息を吐いた。

心臓がうるさい。


しばらくして、クレアが戻ってきた。

手には木の桶を持っている。湯気が立ち上っていた。


「先に使う?」


「いや、クレアが先でいいよ。俺は…外にいるよ」


クレアが身体を拭くのに、同じ部屋にいるわけにはいかない。


「ありがとう、すぐにすませるから」

その言葉を背中に受けて部屋の外に出る。


(心臓に悪いな…)


廊下の窓から、夕暮れのオレンジがかった明かりが差し込む


(落ち着け、一緒に旅をするなら慣れないと…)


自分に言い聞かせる。だが、扉一枚向こうでクレアが服を脱いでいるかと思うと、どうしても意識がそちらに向いてしまう。


朝日の中で見た寝顔。赤銅色の髪。薄く開いた唇。今朝のクレアの姿が鮮明によみがえる。


ふと窓の外に目を向けると、大通りの方角、建物に隠れて下半分は見えないが、黒くすすけた屋敷の屋根が見えた。恐らく旧ロス公爵邸だろう。


九年前まで、あそこがルシアンの家だった。

胸中に複雑な感情が湧き上がってくる。


「ルシアン、お待たせ」

振り向くと扉からクレアが顔をのぞかせていた。


クレアは既に着替えを済ませ、ベッドに腰かけていた。濡れた髪が肩にかかっている。

部屋に、ほのかな石鹸の香りが漂っていた。


「湯、まだ温かいと思うから使って。」


「…うん、ありがとう」


上着を脱ぎ、よく絞った布で手早く身体を拭く。


「何となく大きくなったと思ったけど、たった数か月でずいぶん、鍛えたんだね」

クレアはまじまじとルシアンの上裸を眺めて言った。


「あまり見ないでよ、恥ずかしいから」


「減るもんじゃないし別にいいじゃない、かなり頑張ってたんだなって分かるよ」


「フェアじゃないなぁ」


「私も見せろってこと?別に寝るとか言ってたのに大胆じゃん」

少し呆れたような表情を見せるクレア。


「違うよ、多分どれだけ鍛えても、それこそ筋肉の鎧みたいな身体になったとしても、力ではクレアに勝てないからさ。神様は不公平だなって」


「いいんじゃない?強いって色々あるでしょ。少なくとも私は沢山助けられてるよ」

そう言うと、クレアは優しく笑った。


窓からは、夕焼けの残光が差し込んでいた。


「…ねえ、ルシアン」

クレアが、静かに口を開いた。


「さっきの、ラインバッハ公爵…あれ、何だったと思う?」


「分からない。魔眼が反応したのは確かだけど、あんな反応は初めてだった」

ルシアンは、左目に触れた。


「相手に敵意や害意があれば赤く見えるはずなんだけど、何かが目に流れ込んでくるような感じがして、痛みで目を開けていられなくなった」


「私もなの」

クレアが、膝の上で手を組んだ。


「神メイスではない、もう一柱の力を使って、あの空間を把握しようとしたの。でも、あの男だけが、全く捉えられなかった」


「捉えられない?」


「そう。まるで、そこに何もいないみたいに。…でも、確かにあの男はいたし、気付けば向こうが私たちを睨むように見ていた。多分、人混みがなければこちらの顔もバレていたかも」


二人の間に、沈黙が落ちた。


「…あれ、本当に人間なのかな」

クレアが、ぽつりと呟いた。


ルシアンには、答えられなかった。


――――――――

「公爵邸を見た後の話をしよう」

露店で買った串焼きを薄焼きパンに挟んだもので簡単な夕食を済ませた二人は、これからの予定を話すことにした。


「アイーダにある、『リーフェ村』って心当たりはある?」


「ないわね。母さんの故郷だって言われても、聞いたことがないもの」


「俺もだよ。隣国のアイーダも含めて、ミレオス大陸の主な都市の名前とだいたいの位置は知ってるつもりだったけど、『リーフェ』って村は聞いたことがない」


「小さな村なのかもね。地図に載らないような」

クレアは、窓の外を見た。


「アイーダに行くには、まずシュミット領を抜けて、公都フォルツハイムから国境を越えるのが一般的ね。ここからだと……半月くらいかしら」


「サイクロプス団のホームがシュミット領にあるんだよね」


「ええ。でも、寄らなくていいわ。ギルフォードには話してあるし…団の皆に会っても変に気を遣わせそうだし」


父ゴリアテを失ったばかりのクレアを家族同然の団員たちが気遣うことは容易に想像できた。


「分かった。シュミット領は通過するだけにしよう」


「…うん、ありがと」

クレアは小さく笑った。


「……ねえ、ルシアン」

不意に、クレアが声のトーンを変えた。


「ノクスラントで、父さんが倒したあの化け物……『ザルガ』だっけ。あいつ、私のことを何て言ってたか、覚えてる?」


ルシアンは、あの戦場を思い出した。


ザルガの声が、脳裏に蘇る。


『モスの力と共鳴している……まさか、あの忌まわしき女神の力だと?』

『ヴァイセン様を封じた三柱の一柱……憎きモスの加護を受けた小娘が』


「うん、覚えてる」


「『モス』って、言ってたよね」

クレアは、自分の手を見つめた。


「私が戦の神メイスの他に『もう一柱の神』と共鳴してるのは、前から分かってた。でも、その神の名前なんて知らなかったんだよね」


「…」


「その力を使うと『世界の理から自由になれ』って声が聞こえるって言ったじゃない?あれが『邪神モス』の声だったのかな?」

クレアが珍しく不安げな表情をする。


「でも、その『モス』がヴァイセンを封じた三柱の一柱だって、あの化け物は言ってたよね」


「メイスは知ってる。戦神メイスは、傭兵なら誰でも知ってる神様よ。でも、モスなんて嫉妬と欲望を司る邪神としか聞いたことないよ。なんで私が共鳴できるのかな?」


イングラス王国で『邪神』と呼ばれる神と共鳴しているかもしれない、その事実はクレアに小さくないショックを与えていた。


「でもさ…」

と、ルシアンが口を開く。


「あの、ろくでもない化け物を作った『ヴァイセン』ってやつを封印したのが『神サルタン』、ロス家が祀っていた『神チェルダロ』、そして『神モス』だったなら、神モスって本当に邪神なのかな?俺にはヴァイセンってヤツの方がよっぽど邪神だと思うけど」


「……分からないことだらけだね」


「うん、そうだね」


クレアは小さく息を吐くと、真っ直ぐにルシアンを見た。

「多分、父さんが母さんのことをあまり教えてくれなかったのが関係しているんだと思うんだ。リーフェ村にいけば何か分かるかもしれないよね」

クレアは珍しく弱々しい笑みを浮かべた。


――――――――

夜が更けていった。

ルシアンは床に外套を敷き、横になった。クレアはベッドに入っている。


「おやすみ」


「おやすみ、ルシアン」


部屋のランタンの灯りを消すと、月明かりだけが窓から差し込んだ。

二人ともすぐに寝付けないのが互いの呼吸で分かる。


「…明日、うまくいくといいわね」

クレアの声が、暗闇の中で聞こえた。


「うん、…九年ぶりだ」


「怖い?」


「…少しね」


正直な気持ちだった。


あの日、火に包まれた屋敷での出来事は正直あまり覚えていない。

僅か七歳だったからなのか、それとも父や母、親しい人たちが殺されていく様を本能で忘れているだけなのか。その記憶がよみがえるかもしれない。


クレアが見つけてくれた隠し部屋に何があるのか。


ロダンは何を伝えようとしているのか。


知りたい。でも、知るのが怖い。


「大丈夫だよ」

クレアの声が、優しかった。


「私もいるから」

その言葉に、気持ちが軽くなるのを感じた。


「…ありがとう、クレア」


「私も母さんと向き合うのに、ついてきてもらうんだからお互い様でしょ、あらためて、おやすみ」


やがて、クレアの寝息が聞こえてきた。

ルシアンは、天井を見つめながら思った。

明日、何かが動き出す気がする。


でも——

(クレアがいる)


それだけで、前に進める気がした。

いつの間にかルシアンは眠りに落ちていた。


――――――――

一方…

クレアは目を閉じたまま、直ぐに眠れずにいた。


『モスの力と共鳴している』

ザルガの言葉が、頭から離れない。


そして力を使う時に聞こえる『世界の理から自由になれ』という言葉。

父を殺した劫魔を従える、『ヴァイセン』という存在を封じた一柱、モス。


考えが頭を廻ったが答えが出る訳もない。


月明かりが、窓から差し込んでいる。

眠るルシアンの寝息が、かすかに聞こえた。

クレアは、その音に耳を澄ませた。


(今は、考えても仕方ないよね)


明日、ルシアンの生家に行く。

まずは、それからだ。


自分のことは、その後でいい。


(隣にいるって、言ってくれたじゃない)


クレアは、小さく笑った。

そして、ようやく眠りに落ちていった。

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