第二六話 故郷へ
意識が、ゆっくりと浮上した。
瞼の裏に、柔らかな光を感じる。宿の小窓から朝の陽光が差してるに違いない。
久しぶりに、深く眠れた気がした。
ノクスラントに入ってから...いや、クレアの手紙を読んでからずっと張り詰めていた緊張が、ようやく解けたのだろう。
ルシアンは目を開けようとして、違和感に気づいた。
身体が、動かない。
いや、動かないのではない。何かが、のしかかっている。
温かくて、柔らかい、何か。
そっと目を開けた。
赤銅色の髪が、視界いっぱいに広がっていた。
「...え?」
心臓が、跳ね上がった。
クレアだ。
クレアが、ルシアンの胸に顔を埋めるようにして眠っていた。
ルシアンの右腕は、いつの間にかクレアの背中に回されていて、左腕はクレアの手に握られていた。
(え、えええ……!?)
混乱が、頭の中を駆け巡る。
どうしてこうなっている?
昨夜、クレアが泣いて、それを抱きしめて...そこまでは覚えている。
二人とも疲労の極致だっただけに、いつの間にか眠ってしまったのだろう。
クレアは、まだ眠っているようだった。
規則正しい寝息が、ルシアンの胸元に当たる。
こんなに近くで、明るいところでクレアの顔を見るのは、初めてだった。
長い睫毛。形の良い鼻。薄く開いた唇。
戦場で見せる鋭い表情とは違う、無防備な寝顔。
昨夜泣いたせいか、目元が少し腫れている。
ルシアンは、自分の心臓がうるさいほど鳴っているのを自覚した。
この音で起きてしまうんじゃないか。そう思うほどに。
どうしようか。起こすべきか。このまま寝かせておくべきか。
でも、このままだと...
クレアの身体が、微かに動いた。
寝返りを打とうとしたのか、ルシアンの胸に頬を擦り付けるように身じろぎする。
その拍子に、クレアの身体がさらに密着した。
柔らかな感触が、ルシアンの胸板に押し付けられる。
(まずい、まずい、まずい...!)
顔が熱くなる。
目のやり場に困る。
そして、図らずも全身で感じる「幸せな感触」に抗うように理性が激しく警鐘を鳴らしていた。
気をそらそうとして天井を見る。窓の外を見る。だがどこを見ても意識がクレアに向かってしまう。
もう一度、クレアを見た。
眠っている。
昨夜あれだけ泣いて、ため込んでいたものを出す事ができたのか、安心したような穏やかな表情に見える。
ルシアンは、そっと左手を動かした。
クレアに握られていた手を、ゆっくりと引き抜く。
起こさないように、慎重に。
そして、その手で…恐る恐る、クレアの髪に触れた。
赤銅色の綺麗な髪は、見た目通り柔らかかった。
朝日を受けて、淡く輝いている。
抗うことのできない『愛おしい』という感情がこみ上げてゆっくりと髪を撫でた。
クレアの睫毛が、ぴくりと動いた。
「…ん」
小さな声が漏れた。
クレアの目が、ゆっくりと開く。
琥珀色の瞳が、ルシアンを捉えた。
体感で永遠のような数秒間、二人は無言で見つめ合った。
「………」
「………」
沈黙。
言葉より先に、状況を理解したクレアの顔が、みるみる赤くなっていく。
「…っ!」
弾かれたように、クレアが身体を起こした。
ルシアンも慌てて上体を起こす。
「お、おはよう」
「お、おはよ……」
ぎこちない挨拶。
二人とも、目を合わせられない。
「あの、その……」
「ご、ごめん、私、いつの間にか寝ちゃってて……」
「いや、俺も…疲れてて…あ、勝手に髪に触ってごめん…」
言い訳じみた言葉を、互いに交わす。
クレアは、ベッドの端に座り直し、ルシアンとの間に、少し距離ができる。
変わらず近くにいるのに、僅か数十センチの距離がやけに遠く感じた。
窓から差し込む朝日が、クレアの横顔を照らしている。
寝起きで少し乱れた髪。昨夜の涙の跡が残る目元。
それでも…いや、だからこそ、綺麗だと思った。
「……あの、さ」
クレアが、ようやく口を開いた。
まだ頬が赤い。
「昨日は、その、ありがとう」
「いや……俺は、何もしてないけど」
「してくれたよ」
クレアは、ちらりとルシアンを見た。
すぐに視線を逸らしたが、その一瞬で目が合った。
「助けに来てくれたから生きて帰ってこられた。辛い時にそばにいてくれた。改めてありがとう」
その言葉に、ルシアンは何と答えればいいか分からなかった。
クレア達の目的だったゴリアテを救えなかったという無力感、それでも生きて帰る一助にはなったという実感、そして大切な人の心を少しでも軽くできたのであれば…と、様々な思考や感情で言葉が出なかった。
ただ、胸の奥が温かくなるのを感じた。
再び、沈黙が落ちた。
特に気まずいわけではない。ただ、どう言葉を繋げばいいか分からないだけだ。
先に口を開いたのは、クレアだった。
「…ルシアンは、これからどうするの?」
「これから?」
「うん。ノクスラントまで来てくれたけど……元々、何か予定があったんじゃないの」
ルシアンは、少し考えた。
自分がノクスラントに来た理由。それは単純だった。
「手紙を読んで…心配だったから、来ただけだよ」
「え?」
「ゴリアテさんが行方不明で、救出に向かうって書いてただろ?いてもたってもいられなくて、書置きだけ残して飛び出してきた」
クレアは、目を丸くした。
「書置きだけ?ゲイル団長に許可とか…」
「とってない。少し長めに、三ヶ月ほど休暇をくださいって書いてきた。多分、帰ったらめちゃくちゃ怒られるだろうな」
そういって笑うルシアン。
「お礼を言っておいてなんだけど、馬鹿ね」
クレアが、呆れたように呟き、ルシアンの胸にそっと手を当てる。
言葉とは裏腹にどこか嬉しそうな響きがあった。
「だから…サルタニアに戻って、団長に謝らないといけない…かな」
「…そっか」
クレアは、小さく呟いた。
その声が、どこか寂しげに聞こえたのは、気のせいだろうか。
「クレアは……どうするの?」
ルシアンは、聞き返した。
「私は…」
クレアは、窓の外を見た。
朝のカーレストの街並みが見える。城塞都市の灰色の建物が、朝日に照らされている。
「サイクロプス団のホームは、シュミット領にあるの。当たり前だけど、この宿は依頼を受けている間だけの仮拠点」
「うん」
「ノクスラントでの依頼は…正直、もう続けられないと思う。劫魔なんて化け物がいるなんて、ギルドもその依頼主である国も分かってなかっただろうし、アレはいち傭兵団の手に負える相手じゃない。ギルフォードも、そう判断するはず」
クレアは、膝の上で手を組んだ。
「だから、多分…シュミット領に、ホームに戻ることになる…のかな?」
語尾が、疑問形になった。
断言できない、という気持ちが滲んでいた。
「…何か迷ってるの?」
ルシアンは、静かに聞いた。
クレアは、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「…父さん、私に傭兵になってほしくなかったんだなって、昨日話したでしょ」
「うん」
「それを知っちゃったら…このままでいいのかなって考えちゃってさ」
クレアの声が、少し震えた。
「サイクロプス団は家族だよ。父さんがいなくなっても、ギルフォードも、アレンも、ジムも、みんな大切な人たち。でも…」
言葉が、途切れた。
「……あと、もう一つ」
クレアは、ルシアンを真っ直ぐに見た。
「父さん、最期にルシアンに何か言ってたよね。『さっき伝えたことを頼んだぞ』って」
ルシアンは頷いた。
「あれ、何を頼まれたの?」
僅かな不安と興味の入り混じった声音。ルシアンは正直に答えるべきだと思った。
「…クレアのことを、頼まれた」
「私のこと?」
ルシアンは、ゴリアテの言葉を思い出した。
「うん。それと『クレアがお母さんのことを知りたいって言ったら、連れていってほしい場所がある』って」
クレアの目が、大きく見開かれた。
「母さんの、こと……?」
「リーフェ村って知ってる?隣の連合国家アイーダにある、お母さんの故郷の村だって」
「……」
クレアは、しばらく言葉を失っていた。
「どうする? 行きたい?」
ルシアンは、静かに聞いた。
「……正直、分からない」
クレアは、視線を落とした。
「前に言ったけど、母さんのこと、ほとんど覚えてないの。優しい人だったなってくらい。顔も、声も、ぼんやりとしか。七歳か八歳で死んじゃったから……」
「そっか」
「でも」
クレアは、顔を上げた。
「父さんが、ルシアンにそう言ったなら…私がそこに行く意味があるんだと思う」
その言葉には、迷いと、それでも前に進もうとする意志が混在していた。
「隣国のアイーダまで結構な長旅になるけど、私が頼んだらルシアンは一緒に行ってくれるの?」
「うん、ゴリアテさんとの約束だからね」
その言葉を聞いたクレアは何故か苦笑した。
「まあ、今はその言葉で満足しておく」
ふと、クレアはあごに指をあてて思い出したように言った。
「…ねえ、ルシアン」
「うん?」
「私のルーツを探してくれる前に、何か忘れてない?」
クレアが、少しだけ笑った。
昨夜の涙の後で見せる、最初の笑顔だった。
「ここ、ノヴァク直轄地は元はロス領でしょ?あなたの故郷じゃない」
「そうだね、一応」
「手紙に書いたよね。私があなたの生家に行ったことと、旧ロス公爵邸を案内するって」
「見張りをかわして、危険な中を見に行ってくれたんだよね、本当にいいの?」
「勿論、当たり前でしょ」
クレアは、立ち上がると窓辺に歩み寄り、朝日を浴びながら振り返る。
「じゃあ、まずはあなたの生家に行こうよ」
「俺の生家から?」
「私より、先にそっちでしょ。だって、あなたの生家がある公都ヴァーレンまでは馬車で半刻の距離だよ。すぐ近くにいるんだからそっちからでしょ」
逆光の中で、クレアの表情は見えにくかったが、普段のクレアの調子が戻ってきた気がする。
「父さんのことがあって…私、自分のことでいっぱいいっぱいだった。でも、ルシアンだって色々抱えてるでしょ」
「……」
「八年前に何があったのか、あなたの家族に何があったのか。私に話してくれたこと、忘れてないよ」
ルシアンは、胸が詰まるような感覚を覚えた。
自分は、クレアが心配で、支えるつもりでここに来た。
でも、父を失った悲しみの中にいるはずのクレアは、ルシアンのことを気にかけてくれている。
「だから、まずはそっちに行こう、そしたらアイーダにあるというリーフェ村。私はともかく、ガーゴイル団に長い間戻れないけど本当にいいの?」
不安そうな表情のクレアに、安心するように微笑みながら手を差し出した。
「もちろんだよ」
ルシアンが差し出した手をクレアが握り返す。
「じゃあ、二人そろって暫く傭兵はお休みだね、早速出発しようか」
朝日を背にしたクレアの姿は、眩しかった。
赤銅色の髪が光を受けて輝いている。琥珀色の瞳が、真っ直ぐにルシアンを見ている。
「……ああ、行こう」
「でも、その前に顔洗ってくる。寝起きのままじゃ恥ずかしいし、ギルフォードにも話しておかないと」
今更ながら、泣きはらした後だったことを思い出したようだ。
「俺も、少し準備をしたいかな」
「じゃあ、下で待ち合わせね。朝ごはん、食べてから出発しよう」
クレアは、部屋を出る直前、振り返った。
「……ルシアン」
「うん?」
「本当に、ありがとう」
そう言って、クレアは出ていった。
一人残されたルシアンは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
右手には、まだクレアの手の温もりが残っている気がした。
窓の外では、朝日がカーレストの街を照らしていた。
新しい一日が、始まろうとしていた。




