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第二五話 弔い火

静寂が、森を支配していた。

 

劫魔たちが去り、少し前まで絶え間なく続いていた剣戟の音も、悲鳴も、もう聞こえない。

ただ、微かな嗚咽だけが、木々の間に漏れていた。


クレアは、父の亡骸を抱きしめていた。


声を殺して、肩を震わせて、それでも涙は止まらない。


ゴリアテの身体は、まだ僅かに温かかった。

腹に刺さった忌々しい黒剣は、クレア自身の手で引き抜いていた。


もう、傷跡から血は流れていない。流れる血が残っていないからなのか、心臓が停止し血液の循環が止まったからなのか、死者にはどちらでも良かった。


ルシアンは、サイクロプス団の面々が死を悼む、その姿を見つめることしかできなかった。


必死に追いかけてきたクレアにかける言葉が見つからない。


自分は部外者だ。


ゴリアテと言葉は交わしたし、大切なことも託されたように思う。

亡骸すら残らなかったフォードとは肩を並べて劫魔と戦ったが、それだけだ。


悲しみ、涙を流すほどのものが自分の心の中には積み上げられていない。


クレアも、ギルフォードも、アレンも、ジムも、大切な人たちを失って、悲しみにくれている。そこに自分が何を言っても、薄っぺらくなる気がした。



どれほどの時間が経っただろう。

不意に、ピシャリと乾いた音が響いた。


クレアが、自分の頬を叩いた音だった。


「……やることをやって、早く引き上げないとね!」


自分自身にも言い聞かすように言葉を吐くと、ゴリアテの手を胸の前で組ませて立ち上がる。泣きはらした目は真っ赤だが、声はいつもの彼女だった。


「簡単に埋葬して、ここを離れましょう」


「クレア……」


ギルフォードが覗き込むようにクレアの目をみる。


「もういいんだな」


「ええ、もう大丈夫。アンデッドにならないように火葬したいからお願い。ルシアン、あの時みたいに、身体全体に松脂をぬり込みたいから手伝ってくれる?」


「ああ、勿論」

ルシアンは頷いて、ポーチから、松明たいまつ用の松脂が入った容器を取り出す。


「劫魔って化け物がいつ戻ってくるか分からん。手早くやるぞ。あのザルガってやつと同等以上のやつが現れたら、今の俺たちではしのぎ切れん」

ギルフォードがうなだれていたアレンやジムにも活を入れた。


ゴリアテが装備していたプレートメイルを身体から外していく。

フルプレートではなく、腕や胸、肩と首周りと分解できるタイプなのでそう苦労はしなかった。


綿が詰まった麻の「よろい下」は血でどす黒くそまっていた。


「裸に脱がしたら恥ずかしがるだろうし、松脂は服の上から塗っちゃおう」

クレアがそういいながら、松脂をゴリアテの身体に塗りこみ、服にしみこませていく。


ルシアンは身体の反対側から同じ事をした。


――――――――――――――――

ジムやアレンが集めて格子状にくみ上げた木の上にゴリアテの遺体が寝かせられる。


「火をつけるぞ」

ギルフォードが確認するようにクレアに告げる。


「ありがとう。お願い」


火をつけた松明使って、ゴリアテにとって最期の寝台となった木材にぐるりと着火していく。

火勢がついたところで手に持った松明ごとくべた。


「みんな、少し離れていろ」

ギルフォードが、火属性の魔石を投げ入れると垂直に三メートルほどの火柱が立ち、熱で近づけないほどの火力に変わる。


火葬は十五分ほどで終わった。

まだ周囲が熱をもつ中、ゴリアテの遺骨・遺灰を集めてジムが掘った穴に埋める。


墓標には、愛用の武器などで代用する事が多いが、ゴリアテの魔剣『ヴァーミリオン』をこんな場所で朽ちさせることはゴリアテ本人が良しとしないだろう。


話し合った結果、彼のきていた鎧を墓標とした。


海洋生物のような巨大な劫魔に丸のみにされ、遺体すら残らなかったフォードは、彼の愛用していたショートソードを地に刺し、針金で愛用のクロスボウを巻きつけた。


ゴリアテとフォード、即席だが二人の墓が出来上がるとギルフォードが、懐から小瓶を取り出した。気付け用の、強いアルコール。ゴリアテが最期に飲んだものと同じだ。


「団長……いや、ゴリアテ。長いこと世話になった。団はなんとかやっていくから心配するな」


ギルフォードは、小瓶の中身をゴリアテの墓標にかけた。

アルコールの匂いが、未だ火葬の白煙がくゆる森の空気に混じる。


「あんたの酒だ。俺がそっちにいったときに備えて美味い酒を探しておいてくれ」


続いて、アレンが小瓶を受け取り、フォードの墓標の前に立った。

しかし、思い直したように彼は酒をかけなかった。


「……フォードの奴、下戸だったからな。酒なんかかけたら『俺は飲めないって言ってるだろ』って怒るに決まってる」

寂しげに、アレンは笑い、ジムが、無言で頷いた。


二人の目も涙で真っ赤だった。


―――――――――

「よし、出発する。途中あの劫魔って化け物が出ても相手にせず走り抜けろ。他は適宜対処していく。カーレストまで三日で戻るぞ」

ギルフォードの声に全員が頷く。


「そして、クレア。これはどうする」


彼の手には、赤い大剣があった。

『ヴァーミリオン』……ゴリアテが振るい命を預けていたグレートソード。

軽量化と不壊の魔術が付与された魔剣であり、傭兵王の名と共に知られた名剣だ。


「クレアが引き継ぐか?」


クレアは、しばらくその剣を見つめていた。

父が振るっていた剣。父の象徴ともいえる武器。

しかし、クレアは首を横に振った。


「……私には、大きすぎる」


「そうか」


「次の団長が持てばいいんじゃない?ギルフォード、あなたが団を継いでくれるんでしょう?」


ギルフォードは、苦笑した。


「当面サイクロプス団の暫定団長は引き受けるが、俺はスカウトだ。軽装が基本だし、そもそも俺にこんな大剣は振れん」


「じゃあ、ジムは?」


 クレアが、ジムを見た。


「普段から両手持ちのバスタードソードを使ってるでしょ。リーチもそこまで変わらないし、あなたが使えばいいんじゃないの」


ジムは、驚いたように目を見開いた。


「俺が……団長の剣を?」


「嫌なの?」


「いや……俺じゃ恐れ多いっていうか……まあ、俺の相棒はいまのところこいつだから」

そういって、背中に背負ったバスタードソードを親指で指す。


「とりあえず、ヴァーミリオンは団のシンボルってことでホームに持ち帰ればいいんじゃないですか?いつか、相応しいやつが出てきたら使えばいい。早く出発しましょう」

アレンがもっともな主張をし、皆それにひとまず納得したのだった。


城塞都市カーレストまで、道に迷わず、最低限の休息で三日の行程だ。

つまりギルフォードの『三日で戻る』という宣言は強行軍に等しい。


度々、魔物の群れに襲われた。お決まりのワーグの群れや、オーク、ジャイアントスパイダー、猛毒を持つグレーターパイソン。


それぞれが強敵には違いないが、劫魔たちとの死闘で研ぎ澄まされた五人に死角はなく、危なげなく対処をしていく。


そして幸いなことに、帰路で劫魔と遭遇することはなかった。


あのザルガという劫魔が死んだことで、下級劫魔たちもノクスラントから撤退したのだろうか。

それとも、ただ運が良かっただけなのか。


二回の短い休息を挟み、三日目の夕暮れ。

ようやく城塞都市カーレストの城壁が見えた時、図らずも全員が安堵の息を漏らした。


特にルシアンは、自分がどれほど緊張し、疲労していたかを、その時初めて自覚した。


ノクスラントにいる間、自分の魔眼には意識して力を注いでいた。

自分だけではない。同行する四人に意識を拡張し、常に周囲を警戒していた。

赤い光が視界の端にちらつく度に、いつも以上に緊張を覚えた。


(もう誰も殺させない)


その意志と緊張が、ようやく解けたのだ。


サイクロプス団がカーレストで拠点にしている酒場兼宿屋である『つがいの兎亭』。


一行が戻ると、留守を守っていた団員たちが出迎えた。

しかし、彼らの表情はすぐに曇った。


あの豪放磊落な団長の姿がみえない。

そしてギルフォードやクレアの陰りのある表情をみて察することができない者はいなかった。


「副団長、お疲れ様です……」


団員の一人が、ギルフォードに声をかける。

ギルフォードは頷くと、一歩前に出た。


「全員、集まってくれ。怪我人は動けるやつだけでいい」


待機中の団員たちが、宿の一階に集まる。


クレアは、その輪の中にいたが、何も言わなかった。

目線を下げ、拳を握りしめ、ただ黙って立っていた。


「まず、皆には心配をかけた。今から報告をする」


ギルフォードが一拍おいて、口を開いた。


「ゴリアテ団長と、フォードが、ノクスラントで戦死した」


普段は騒がしい酒場でもある大広間が静まり返った。

誰かが、息を呑む音が聞こえる。


「団長は、劫魔と名乗る知性のある化け物『災厄のザルガ』と一騎打ちを行い、相討ちで仕留めた。最期まで、団長は最強だった」


そこまで一息で話して目を閉じる。


代わってアレンが前にでた。

「フォードのやつも、俺たちを守るために戦って死んだよ。多くの劫魔に囲まれて、どうしようもなかった…すまん」


やがて、誰かがテーブルを叩いた。


「……くそっ」


「団長……フォードさん……」


若い団員達が、涙を流していた。


ギルフォードがクレアに耳打ちをする。

クレアは、宿の女将に話をして酒杯を人数分用意させた。


「みんな、献杯だ。団長が辛気臭いのを嫌っていたのはみんな知っての通りだ。だから、泣くのは今日、今夜だけだ。明日からは、前を向く。それが、ゴリアテが望んだことで、フォードもきっと同じ気持ちだろう」


杯を手に取った団員たちが、次々と杯を掲げた。


「——団長に」


「——フォードに」


酒が注がれ、杯が傾けられた。

それは、弔いの宴の始まりだった。


―――――――――

宴が続く中、ルシアンはそっと席を立った。


自分は、サイクロプス団の団員ではなく、ガーゴイル団の傭兵だ。


ゴリアテやフォードとは、わずかな時間しか共に過ごしていない。

このサイクロプス団の皆に混じって彼らの死を悼む資格が、自分にあるのだろうか。

少なくとも、この輪の中にいるべきではない気がした。


今夜は、この『つがいの兎亭』を出て別の宿を探そう。


カーレストにはもう少し滞在するつもりだ。クレアと話したいこともある。


しかし、今夜は、今夜くらいは、クレアも団員たちと一緒にいるべきだろう。

一人になってゴリアテさんとの思い出を振り返る時間も必要だろう。


そう思い、ルシアンはそっと宿を出た。


外に出るとすっかり日も暮れていた。

傭兵ギルドにいけば、適当な宿を教えてくれるだろうか。


そう思いながら、ギルドに足を向ける。


「ちょっとルシアン、どこ行くのよ!」


背後から、声が飛んできた。

振り返ると、クレアが小走りで追いかけてきた。


「え……」


「え、じゃないでしょ。何で黙って出ていくのよ!?」


「俺はサイクロプス団じゃないし……部外者みたいなものだから今夜は別の宿を探そうと思って」


「部外者?」


 クレアが、眉を吊り上げた。


「父さんを助けに来てくれた人が、ルシアンが部外者なわけないでしょ」


「あ、あと、クレアも今日くらいは一人になりたいかなって……」


「はぁ…」

クレアは何ともいえない目でルシアンをみる。


「……なんも分かってないよね」


「え?」


「とにかく、ルシアンには何のお礼も出来てないし、部屋も空いてるんだから泊まっていきなさいよ。相部屋だと落ち着かないと思うけど……父さんが使ってた部屋が空いてるからさ」


「ゴリアテさんの部屋に?」


「嫌?」


「いや……嫌じゃないけど、いいのかな?」


「決まり」


クレアは、ルシアンの腕を掴んだ。


「来て」


改めて宿に戻ると、酒の臭いと喧噪であふれた一階を抜けて、二階に上がる。


「この部屋。シーツや毛布は宿が替えてくれているからきれいだと思う、ゆっくり休んで」

クレアはそう言い残すと部屋を出て一階に降りていった。



―――――――――――

ゴリアテが使っていた部屋は、二階の一番奥にあった。


ベッドと、小さな丸テーブル。椅子が一脚。

特別なものは何もない。ただ、丸テーブルの上にには空の酒瓶が何本か置いてあった。


「……なんか、ゴリアテさんらしいな」

 ルシアンは、思わず呟いた。


ベッドに腰かけると、疲労が一気に押し寄せてきた。

まるで身体全体に重りが乗ったようだ。


ノクスラントに入ってから、ろくに眠れていなかった。常に緊張し、常に警戒し、常に魔眼を働かせていた。


『魔眼の対象範囲を自分以外に広げる』


ベニード司教の護衛依頼がヒントになった新しい魔眼の使い方は今回のノクスラントでつかめた気がする。だが、危機を察知する対象を増やし過ぎると、なんでもかんでも赤く見えて役にたたない。それに魔眼に体内の力・・・恐らく魔力を過剰に吸い取られているせいだろう。いつも以上に疲労を感じていた。


仰向けになって、目を閉じる。

しかし、眠れなかった。

瞼の裏に、様々な光景が蘇ってくる。


劫魔の異様。

八本足の異形。海洋生物のような怪物。飲み込まれる瞬間のフォードの顔。

そして、災厄のザルガとゴリアテの戦い。

劫魔って、何者なんだろう。

そしてヴァイセンとは、何なのだろう。


あの劫魔は言っていた。「ヴァイセン様がもうすぐ解放される」と。


あんな化け物が、もっと増えるのか。

しかも自分を中級劫魔と言っていた。中級がいるなら上級がいるんだろう。


人類最強の一角と言われたゴリアテが、相討ちでようやく倒せる相手が中級、そしてそれ以上の劫魔が何体もいるのか…。


そして、無数の下級劫魔、あの化け物一体一体も決してあなどれない。

自分一人で勝てるだろうか?


もし、あいつらがノクスラントから出てきたら人間は、対抗できるんだろうか。


心身は疲労の極地であるはずなのに、思考が止まらず眠れる気がしなかった。


そんな時、控えめなノックの音が、扉を叩いた。


「ルシアン、起きてる?」


 クレアの声だった。


「……ああ、起きてる」


扉が開いて、クレアが入ってきた。


「入っていいかな?」


「もう入ってきてるじゃない。もちろんいいよ」

苦笑しながらクレアを迎え入れる。


「下は、酒盛りになってるから」

クレアは、ベッドの傍まで来て、立ち止まった。


「クレアが抜け出していいの?」


「いいのよ。みんな、気を遣ってくれるけど……今は、ちょっとね」


クレアは、視線を落とした。


「……隣、座っても?」


「ああ」


クレアが、ベッドに腰を下ろした。


肩が触れるかどうかという距離。


階下から、かすかに喧騒が聞こえる。団員たちの、笑い声と、泣き声が混じった宴の音。


「……ありがとう」

不意に、クレアが言った。


「ノクスラントまで、来てくれて」


「礼なんか…」


「言わせて」

クレアは、ルシアンを見た。


目の周りが赤く腫れている。

きっと影で何度も泣いたのだろう。


「ルシアンが来てくれなかったら、私たち、全滅してた。魔眼で何度も危険を教えてくれたでしょ。魔眼の…眼の使い方が変わったよね」


「少しだけ、できる事が増えたけど…ゴリアテさんを」


「父さんは、自分で選んだのよ」


クレアは、静かに言った。


「あなたのせいじゃない。誰のせいでもない。むしろ父さんは私を守る為に死んだんだよ」


その言葉は、ルシアンを守る言葉であると同時に、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。


再び、沈黙が落ちた。

クレアは、窓の外を見つめていた。月明かりが、その横顔を照らしている。


「……私ね」


ぽつりと、クレアが話し始めた。


「七歳か、八歳くらいの時に、母さんが死んだの。それまでは、どこかの村で母さんと暮らしていた。前にも言ったけど母さんの記憶はほとんど無いんだけどね」


「……」


「母さんが死んでから、父さんは私を傭兵団に連れて歩くようになった。前線には出なかったけど、周りは傭兵ばっかりでしょ。戦いの先生には事欠かなかったわ」

クレアは、小さく笑った。


「暇な時は、剣を振るか、ナイフを投げるか。同じ年頃の友達なんていなかったから、それが私の遊びだった」


「……」


「一緒に埋葬してくれたニックスには、本当にいろんなことを教わった。あいつ、口は悪いけど、面倒見は良かったから。まだ神との共鳴の感覚が分からなかった私が、初陣で死ななかったのは彼のお陰」


ニックス。

盗賊団との戦いで死んだ、サイクロプス団の団員だ。


「フォードは、寡黙で、何考えてるか分からないところがあったけど……クロスボウを教えてくれって頼んだら、黙って付き合ってくれた」

クレアの声が、少し震えた。


「ここ何か月で沢山いなくなっちゃったな…」


ルシアンは、何も言えなかった。

ただ、隣に座っていることしかできなかった。


「でも……」


クレアは、深く息を吸った。


「一番いろんなことを教えてくれたのは、やっぱり父さんだった」


「……ゴリアテさんが、戦い方を?」


「ううん、意外だろうけど、あんな見た目なのに、父さん、学があったのよ。読み書きを教えてくれたのも父さん。算術も、歴史も、地理も。近くで戦う姿は見ていたけれど、父さんから戦い方を直接教わったことは無いんだよね」


それは、意外だった。

ゴリアテといえば、豪快で、武骨で、武一辺倒の男というイメージがあった。


「父さんはね、よく言ってたの。『母さんみたいに、優しい子になってほしい』って」


クレアの声が、掠れた。


「だから、たぶん……剣を振り回してる今の私は、父さんが望んだ姿じゃなかったんだろうな」


「……」


「もっと、違うふうに育って欲しかったんだと思う。母さんみたいに、優しくて、穏やかで……」

話しながら、クレアの目から、涙がこぼれた。

「でも、私にはこれしかできなかったから、仕方ないよね」

それは、ずっと心の奥に押し込めていた感情だったのだろう。


「ごめんね、父さん——」


その言葉と共に、クレアは顔を覆った。

肩が、震えていた。


ルシアンは、迷った。

何を言えばいいのか、分からなかった。

でも、言葉が見つからないなら——


そっと、手を伸ばした。

クレアの頭に、手を置いた。

ゆっくりと、撫でた。


クレアの身体が、びくりと震えた。

しかし、拒絶はしなかった。


「ああああ——っ」


堰を切ったように、嗚咽が漏れた。

クレアが、ルシアンの胸に顔を埋めた。

今まで堪えていた分を、吐き出すように。

声を上げて、泣いた。


ルシアンは、何も言わなかった。

ただ、その背中に手を回して、抱きしめた。

クレアの身体は、震えていた。戦場では誰よりも強いこの人が、今はこんなにも小さく感じた。


窓からは、欠けた月が見えた。

階下の喧騒は、遠くなっていた。


ルシアンは、ただ黙って、クレアが泣き止むまで、そっと身体を抱きしめ続けた。


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