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布留の里の夜泣き石 ~神隠しの巫女~

作者: アリエル

長編を書いている最中ですが、少し短編を書きたくなったので、久しぶりに短編を書いてみました。

 風が変わった、と咲夜は思った。四月の末、大学のキャンパスを吹き抜ける風は、どこか乾いて、けれど少し湿気を含んでいる。日差しは柔らかく、空は澄みきっているのに、胸のどこかがぽっかりと空いていた。


 咲夜は、東京の大学で歴史民俗学を学ぶ四年生。卒業論文のテーマをそろそろ固めねばならぬ時期に差し掛かっていたが、心は揺れていた。資料を読み漁る日々は退屈ではなかったが、胸を打つ題材に出逢えていない。そんな焦燥を抱えたまま、ゼミの席に座ったある日、指導教官の古川教授がぽつりと一言つぶやいた。


「奈良にね、布留(ふる)の里っていう村がある。夜泣き石の伝説、知ってるかい?」


 咲夜は首を横に振った。教授の皺の深い顔に、一瞬、奇妙な色が差したのを見逃さなかった。


「古い村だよ。観光化もされていないし、地元の記録もほとんど残っていない。ただ、泣く女の声が石から聞こえるって話がずっとある。まともな学術調査は、これまでほとんど行われていないんだ」


 咲夜の胸が、微かに騒いだ。理由はわからない。ただ、「泣く声」「石」「女」という言葉の並びに、目に見えぬ糸で引かれるような感覚があった。


 夜になり、帰途の電車に揺られながら、咲夜はスマートフォンで「布留の里」「夜泣き石」を検索してみた。だが、情報はほとんど出てこない。写真もなければ、観光案内もない。ただ、古びた地名が残されているだけだった。


(こんなに何もないのに、教授はなぜ私に…)


 だが、その「何もなさ」が逆に咲夜の心を掴んだ。もしかして、自分だけが掘り起こせる何かがそこにあるのかもしれない。忘れられた村の、語られなかった女の声——それは、彼女が子どもの頃に聞いた田舎の風の音や、祖母の手のぬくもりと、どこか似ていた。


 一週間後、咲夜は一人で奈良行きの電車に乗っていた。大学の仲間たちは皆、都心の図書館で資料を集めている。教授も特に背中を押してくれたわけではない。けれど、咲夜はひとり、この旅に意味を見出したのだった。


 奈良駅からさらにローカル線を乗り継ぎ、終点の小さな無人駅に降り立った。そこからは、日に三本しかない路線バスに揺られ、さらに一時間。車窓の外は次第に人の気配が失われ、山の影が濃くなっていく。


 布留の里は、地図には載っていても、風景からはすでにこぼれ落ちたような場所だった。終点のバス停で降りたのは、咲夜ひとりだった。停留所の看板は傾き、雑草に隠れている。スマホを見ても、電波は一本も立たない。空気がひんやりとしており、五月だというのに、肌に触れる風はどこか秋の終わりのような寂しさを含んでいた。


 坂道を下ると、小さな川を越えた先に、古びた茅葺き屋根の家々が見えてきた。畑が広がり、鶏の鳴き声が聞こえる。まるで昭和どころか、明治のまま時を止めたような光景だった。咲夜が声をかけても、村人たちはちらりと一瞥をくれるだけで、ほとんど口をきかない。誰もが忙しそうに動き、視線は地面や野菜の葉先に落ちている。村の中心にあるはずの商店には「閉店」の紙が貼られ、宿らしい建物も見当たらない。


 途方に暮れていると、たまたま通りかかった年配の女性が、咲夜の持っていた教授からの紹介状を見るなり、「あの方のご縁なら」と、小さな古民家の一室を貸してくれることになった。板の間に布団ひと組、火鉢と小さな机があるだけの簡素な部屋だったが、どこか懐かしく、咲夜は胸の奥がしんとするのを感じた。


 翌朝、咲夜は村の者に「夜泣き石」について尋ねてみた。だが、誰もが顔を曇らせ、「そんなものは、もう忘れた方がいい」とそっけなく返される。ある老人などは、まじまじと咲夜を見つめ、「その石には近づくな」とだけ告げて、踵を返した。


 言葉には出されぬ何かが、この村には在る。咲夜はそう確信した。伝説ではない、記憶にすら昇らぬような、もっと根深いもの。空気の底に沈んだまま、人々の意識の上澄みに決して浮かんでこない何かが、確かにここにはあるのだ。その夜、咲夜は眠れなかった。枕元で風の音が微かに揺れていた。月明かりが障子の向こうに滲み、時折、遠くで鈴のような音が鳴る気がした。


 調査に入って二日目の夕刻、咲夜は一人、村の裏手にある山道を歩いていた。地図には記されていない細い獣道。地元の者は「何もない」とだけ言ったが、咲夜の胸の奥には確かな引っかかりがあった。


 山の陰が深くなり、林の間から月の光が射し込む頃、木々の間にそれは見えた。朽ちた鳥居。風雨に晒され、もう半ば崩れかけている。その奥に、ひっそりと佇む小さな祠。屋根は苔に覆われ、柱には蔦が絡みついている。誰も手入れをしていないことが一目でわかった。


 そして、祠の正面、苔むした丸い石がぽつんと置かれていた。人の頭ほどの大きさ。だが、その表面にはまるで涙の跡のような筋が、幾筋も刻まれていた。


(これが……夜泣き石?)


 咲夜は無意識に手を伸ばした。指先が石に触れた、その瞬間だった。


 ――シャリリ。


 どこからともなく、鈴の音が響いた。風が吹いた。けれどそれは、日中のそれとは異なる。ひどく冷たく、身体の奥にまで沁み込んでくるような、どこか異質な風だった。


 音が消えた。


 鳥の声も、虫の羽音も、風のざわめきも、すべてが止まった。まるで世界の呼吸そのものが止んだかのような、重い静けさ。咲夜はその場に立ち尽くし、口を開くこともできずにいた。


 そして、目の前の祠から、光が溢れた。


 眩しさに目を閉じた瞬間、咲夜の身体はふっと軽くなった。足元が消え、重力が失われていく感覚。光に包まれながら、咲夜はゆっくりと崩れるように、その場に倒れた。地面の冷たさも、風の音も、もう感じなかった。


 それは、はじまりだった。


***


 まぶたの奥で、ゆっくりと光が滲んでいく。まるで深い水底から浮かび上がるような感覚の中で、咲夜は意識を取り戻した。風が頬を撫でていた。けれど、それは昨日まで感じていた春の山風とは、どこか違う。甘く湿り気を含んだ、香りを纏った風。耳を澄ますと、小鳥のさえずりではなく、草の擦れる音と、どこか遠くで木の葉が揺れる囁きが聴こえる。


 咲夜はゆっくりと身を起こした。地面はよく整えられた土で、祠の前には白砂が敷き詰められ、清らかな水音が近くに流れている。さっきまで崩れかけていた祠は、今やまるで建立されたばかりのように整い、朱塗りも鮮やかで、屋根には新しい檜皮が葺かれていた。


 何よりも驚いたのは、自分の姿だった。足元から肩にかけて、白い麻布の装束が身体を包んでいる。胸元には刺繍の入った襷がかけられ、帯には見覚えのない神具——鹿の角と鈴が結ばれていた。頭には薄布が被さり、袖は風に揺れて、かすかに音を立てている。


(これは……どういうこと……?)


 咲夜は立ち上がり、祠の周囲を見渡した。道らしきものが続いているが、それは舗装された現代の道ではなく、踏み固められた土の小径だった。遠くから、馬のいななきと、それに続く籠を担ぐ人々の声が聞こえる。どこか祭りの準備のようなざわめきが、森の中に漂っていた。


 その時、ざわ、と風が吹き、林の奥から子供たちの笑い声が響いた。数人の子供が駆け寄ってきて、咲夜の姿を見た途端、立ち止まり、ぽかんと口を開けた。その中の一人が、震えるような声で叫んだ。


「……姫様だ!姫様が戻られた!」


 あっという間に子供たちは咲夜のもとに駆け寄り、手を取り、祠の外れへと誘ってゆく。咲夜は戸惑いながらも、その手の温もりに抗えず、まるで夢の中を歩くように、その後をついていった。けれど、咲夜の胸の奥では、どこか確かなものが動き始めていた。これは夢ではない——そう感じさせる、異界の空気が、あたり一面に漂っていた。


 咲夜が導かれたのは、村の中心にある、格式ばった茅葺きの建物だった。広間にはすでに幾人もの男女が並び、静かに膝を揃えて座っていた。年老いた者もいれば、壮年の神職らしき装束の男たちも混じっている。その視線が、一斉に咲夜へと注がれた。


 白装束の咲夜を見た瞬間、老いた男が低く頭を垂れた。


「……やはり、姫様。布留姫様が、お戻りあそばされたのじゃ……」


 続いて、他の者たちも一斉に頭を下げる。誰かが「再来」という言葉を口にし、場の空気が不思議な緊張を帯びた。


「ちょっと、待ってください」


 咲夜は慌てて声を上げた。「私は布留姫なんて知りません。私はただ……」


 自分の名前を名乗り、大学で学んでいること、村を調査で訪れていたことを、なるべく丁寧に説明した。言葉は通じているはずなのに、相手の表情は微動だにせず、どこか「話を聞いていない」ような違和感があった。


「神の声を、再び我らに……」


 ひとりの神職の男が、ぽつりとそう呟いた。


 咲夜はその言葉に反応し、問い返した。「神の声……?」


 長老が静かに頷いた。


「数年前から、御神託が途絶え、儀式が行えぬままなのです。その年から、作物は枯れ、病が広まり、若者は里を離れて戻らず……布留の神々が、我らを見放したのではと」


 老いた手が、咲夜の衣の裾へとそっと触れる。その仕草には祈るような、すがるような、何とも言えぬ切実さがあった。


「姫様のお姿は、かつての布留姫にまったく同じ。記録に残るそのお姿……まなじり、鼻筋、装束までも」


 咲夜は息を呑んだ。見知らぬはずの土地で、名も知らぬ姫に自分が「似ている」と断言されることの奇妙さと、それに抗えない空気に呑まれそうになる。


(私は、本当にただの調査に来ただけなのに……)


 けれど、その空気の中には、疑念や欺瞞ではない、ある種の「信仰」が確かに息づいていた。それは理屈では説明のつかぬ、人間が時に神と交わるために築いてきたもの――咲夜は、思わず言葉を失った。


 咲夜は村の中心部にある小さな屋敷へと住まわされることになった。陽の差す南向きの部屋に、白い(すだれ)がかかり、朝晩には神職の女たちが膳を運んでくる。着るものはすべて白の装束。髪も整えられ、外へ出るときは頭巾で顔を覆うことを求められた。


 まるで籠の中の姫のようだ、と咲夜は思った。いや、むしろそれは、「神」として祀られる器のようだった。村人たちは咲夜に深く頭を下げ、言葉を交わすことさえ憚る。神職たちは「姫様」と呼び、手を触れようとしない。声をかければ微笑みを返すが、その背には明らかに緊張が張り詰めていた。


 戸惑いはあったが、不思議なことに、咲夜はこの生活を苦痛とは感じなかった。むしろ、どこか懐かしい。朝の澄んだ空気、祠へ向かう道すがらに響く鳥の声、川の水音、台所で火を焚く匂い……それらは子供の頃に祖母の家で過ごした夏の日々を、ありありと思い出させた。東京の喧騒の中で忘れていた、土と木と人の営みの温かさが、ゆっくりと肌に染み込んでくる。


 しかし、同時に咲夜の中には冷静な目も残っていた。


 ある日、神職のひとりが咲夜に見せてくれた巻物。大切に巻かれたその中には、神事で使われる祝詞(のりと)や祈祷の記録が記されていた。その一節を見た瞬間、咲夜の背筋に冷たいものが走った。


(これは……見たことがある)


 咲夜は思わず息を呑んだ。その文言、その筆の流れ、その祝詞の構造。まるで、あのとき教授から手渡された一冊の古文書の一部が、今ここに生きて存在しているようだった。


 それは大学の蔵書ではなかった。正式な資料でもなければ、論文にも載っていない。教授が「個人的に興味があって」と言って、咲夜にそっと見せてくれた、古びた複写の古文書だった。表紙には『布留神(ふるしん)言霊(ことだま)集』と、手書きのような文字があったことを、咲夜ははっきり覚えている。


 そのときは、「民間伝承の模倣にすぎない」と、教授自身も多くは語らなかった。だが、目の前の巻物は、その文献と一言一句違わぬほど酷似していた。


(なぜ……教授の私蔵資料と、まったく同じものが……?)


 不安が咲夜の胸をよぎった。教授はこの村と何か関わりがあるのか?それとも、あの資料はここから写されたものだったのか?疑念はあった。だが、それ以上に確かなのは——現代で復元すら叶わなかった「祈りの言葉」が、今まさに、この地で生きているという事実だった。


 夢なのだろうか。だとすれば、なぜこんなに細部まで鮮明で、手の温度まで感じられるのか。だが、現実と断じるにはあまりに時代が異なる。文明も、時間の流れも、人々の意識さえも。


(ここは、どこ……?私は……何をしているの?)


 咲夜は、夜毎に同じ問いを繰り返した。けれどそのたびに、ふと胸を撫でる風が優しく、どこか懐かしい声のように響いた。まるで、それは何かが咲夜を「還るべき場所」へ導いているような感覚だった。


 その夜、咲夜はいつになく深い眠りに落ちた。心身の疲れがそうさせたのか、それとも何か見えぬ力が導いたのかはわからない。目を閉じたはずの闇の奥に、白い光が広がっていた。霞のような霧が立ちこめる中、咲夜は静かに歩いていた。足元には冷たい水の感触があり、まるで浅瀬を渡っているようだった。


 やがて、その向こうに一人の女が現れた。


 白装束を纏い、長い黒髪を後ろに流した若い巫女。顔は伏せられており、言葉も発しない。ただ、その目からは止めどなく涙が流れ落ちていた。咲夜が近づくと、巫女は顔を上げた。どこか、自分と似た面差し——いや、むしろ鏡を見ているような錯覚すら覚える。だがその瞳には、深い悲しみと、なにか計り知れぬものが宿っていた。


「あなたは……誰?」


 問いかけた咲夜の声に、巫女はそっと唇を動かした。


「名は……布留……布留姫……」


 その言葉が風のように漂い、咲夜の胸に届いた瞬間、空気が変わった。霧が晴れ、あたりには祠のような構造物が浮かび上がる。そこに続く石畳は、血に濡れたように赤く染まっていた。


 布留姫は、途切れがちな声で語り始めた。


「私は……神の声を聞きすぎた女……神の理に引かれ、人の世から離れてしまった……」


 咲夜は言葉を失った。布留姫の語る声は、直接胸の奥に響いてくる。音ではなく、感情そのものが流れ込んでくるようだった。


「神は、優しくも残酷……祈れば応え、捧げれば力をくれる……でも……聞きすぎると……人でいられなくなる……私は、もう人では……なくなっていた……」


 村人たちは、彼女を畏れた。かつて神の意をその身に宿し、祝詞を口にするたびに雨を呼び、病を鎮めた巫女は、やがて「神そのもの」と見なされた。そして最後には、祠に封じられるという運命を辿ったのだった。


「……あなたが来たことで……私の声が……また、この世に触れた……」


 布留姫は、咲夜の手にそっと手を重ねた。白く透けたその手は、触れているのに温かくない。不思議な懐かしさと、底知れぬ孤独が混ざり合った感触だった。


「あなたには……その力がある……私と同じ……でも、違う……」


 咲夜は、ただ静かにその言葉を聞いていた。逃げようとは思わなかった。なぜか、この巫女の悲しみは、自分の中の何かと繋がっていると感じていた。夢は、そこでふっと終わった。


 目覚めた咲夜の頬には、一筋の涙が伝っていた。


 夢から覚めた朝、咲夜は天井を見つめたまま、しばらく身じろぎできずにいた。畳の香り、障子の向こうに差す柔らかな光——それは確かに現実の感覚だった。けれど胸の奥には、まだあの白装束の巫女の姿が焼きついていた。布留姫。名を持たぬまま、祈りに生き、そして祠に封じられた女。彼女が流した涙の温度が、なぜか自分の頬にも残っている気がした。


(……あれは夢じゃない)


 咲夜は確信に近い感覚を覚えた。夢がもたらす曖昧さとは違う、もっと深いところに沈殿する「記憶」のような何かが、脈打つように内側で響いていた。


 その日から、咲夜は変わり始めた。


 村人たちは咲夜に、神の言葉を乞うようになった。長年途絶えていた神託が、再びこの地に戻ってきたと信じて。最初は戸惑い、うまく返すこともできなかった。けれどある日、ふとした拍子に、口をついて祝詞が洩れた。それは咲夜自身の意識とは無関係に、まるで何かが語らせているかのように滑らかに流れた。言葉の意味すら曖昧なのに、聞いていた老巫女たちは一斉に膝を折り、涙を流した。


「これは……布留姫の……最後の儀式の言葉……浄解(じょうげ)の儀での言葉」


 村の長老が震える声でそう呟いた。古文書に断片だけが記されていたという「浄解(じょうげ)の儀」。布留姫が最後に唱えたはずの祝詞。それを、何も知らぬはずの咲夜が、口にした。


「姫様のお身体には……布留姫の声が宿っておられるのです」


 そう告げられても、咲夜にはうまく飲み込めなかった。自分がただの訪問者であることは変わらない。ただの学生で、ただの女——そのはずだった。けれど、胸の内に揺れる記憶の断片、身体の奥底に響く言葉の余韻、村人たちのまなざし。すべてが、咲夜が「ここにあるべき存在」であるかのように語っていた。


 逃げられぬ、とは思わなかった。


 ただ——受け取るべきなのだ。自分が見た夢、感じた祈り、そして呼び覚ました記憶。それが何であれ、無かったふりはできない。咲夜の中に、確かに何かが芽吹いていた。


(私は……もしかしたら、「継ぎ手」なのかもしれない)


 その考えが心に落ちたとき、咲夜は初めて、布留姫の孤独を、ほんの少しだけ理解できた気がした。


***


 その日は、年に一度の祭祀であったという。


 布留の里に伝わる「長月の儀」は、本来ならば神職が祝詞を奏上し、村人たちが捧げ物を奉じて、神の加護を乞う静かな神事であると、古老から聞いていた。けれど、ここ数年は神の声が絶えたという理由から、その儀式も簡略化され、形ばかりが残っていた。


しかし今年は咲夜の存在を受けてか、例年より幾分か神妙な空気が漂っていた。


 白木の神殿の前に整えられた祭壇には、野の草花と稲穂、そして川魚が並べられていた。山から切り出した榊が風に揺れ、幣が静かに音を立てていた。咲夜は神職の老女に導かれ、祠の脇に控えていた。


 太鼓の音が打ち鳴らされ、神主が祝詞を唱えようとしたその時——


 言葉が、詰まった。


 神主は祝詞の一節に差しかかると、まるで何かが喉を塞いだかのように声を止め、額に汗をにじませていた。場が凍りつきかけた、その瞬間。


 咲夜の口から、言葉が漏れた。


 自分でも驚くほど自然に、それは出てきた。まるで、喉元に浮かんでいたものが、誰かの手でそっと押し出されたかのように。


「……神還(かみかえ)りの刻、風は御名を運び給ふ……」


 神主が読みかけた一節。それが、まったく同じ韻と調べで、咲夜の口から流れ出たのだった。場がしんと静まり返った。太鼓が止み、風もやんだかのように感じられた。咲夜は立ち尽くしたまま、自分が何を口にしたのかさえ理解できていなかった。


 神職の老女が、目を見開いたまま呟いた。


「……それは、神託を受ける者にしか訪れぬ“兆し”……姫様は、すでに神の声を宿しておられるのかもしれませぬ」


 咲夜の中で、胸の奥に静かに響く声があった。それは耳で聞こえるものではない。言葉でも、音でもない。ただ、祈りのような想いが、響きとして心に沁み込んでくる。その声が、こう囁いた気がした。


 ——還れ。還りて伝えよ、古の道を。


 咲夜は、自分がただこの里に“来た”のではなく、何かに“呼ばれていた”のではないかと、初めて本気で思った。


 祭祀の翌日、咲夜は長老のひとりに呼び出された。祠から少し離れた裏山の麓、苔むした土壁の古家。その奥まった座敷に通されると、そこには厚い布に包まれた箱がぽつりと置かれていた。


「この里に伝わる最も古き文書じゃ。……本来は、姫様のようなお方にお見せすることなど、叶わぬはずなのじゃがのう」


 しわがれた声でそう言った長老は、咲夜の目をまっすぐに見つめた。憶することなく、ただ「定めを告げる」者の眼差しだった。古びた箱を開けると、中には虫食いの跡が点々と残る和紙の束が収められていた。書かれているのは、筆の流れが美しく整った、祝詞と儀式の詳細。そして、そこにはこう記されていた。


 ——「浄解(じょうげ)の儀」。


 咲夜は息を呑んだ。その言葉は、長老から聞かされた布留姫が最後に囁いた名——「祈りを、神へ還す儀式」と同じであった。


 長老の語るところによれば、それは本来、神に深く仕えた巫女が、人の理に引き戻されるための最後の務めであったという。神と交わり、神の声を聞き続けた巫女は、次第に人としての境界を曖昧にし、やがて神の領域に引きずられてしまう。その前に、魂と声を清め、再び地上にとどめるための儀式——それが「浄解の儀」だった。


「布留姫様は……この儀式を拒まれたのじゃ」


 長老は目を伏せて言った。


「神の声を手放すことが、あまりに痛ましきことであったのでしょう。……そして、そのまま封じられた。祠の奥深くにて、今もなお、声を抱えたまま、眠っておられる」


 咲夜は言葉を失った。自分が夢で見た、あの涙の意味が少しずつ解きほぐされてゆくのを感じていた。


「そしてのう、咲夜様」


 長老は、再び咲夜の顔をまっすぐ見つめた。


「あなた様は、お姿、声音、そして神託の兆し……すべてが布留姫様と重なっておりまする。今、儀式を果たせるのは、もはや……咲夜様しかおらぬのです」


 その言葉は、宣告のようであり、また願いのようでもあった。咲夜は、自らの存在がこの土地にとって何を意味するのかを、改めて胸の奥に落とし込んだ。それは、過去の誰かの代わりになることではない。自分という「今」において、この地の記憶と対話すること——祈りとは、そのためにあるのかもしれないと、ふと思った。


 祭祀の翌朝、咲夜はひとり、祠の裏手に広がる小道を歩いていた。朝靄が杉の葉に降り、草の露が足袋を濡らす。空気は澄み、どこまでも静かだった。その静けさの中で、ふと、ひとつの記憶が浮かんだ。


 子供の頃、奈良の外れにある祖母の家へ遊びに行ったときのこと。まだ五歳だった咲夜は、縁側で手を合わせる祖母の後ろ姿を見ながら、何度もこう言われていた。


 ——咲夜は、神さまに守られている子や。あの山の神さまが、あんたをずっと見てはる。


 あの頃はただの言い伝えだと思っていた。けれど、今になって思えば、祖母が暮らしていたあの神社は、確かに「布留神社」という名だった。神社の由緒書きには、古くから「布留姫」を祀っていたことも、薄く記されていた気がする。


(あの場所と……この里は、きっとつながっている)


 霧が晴れるように、咲夜の中で何かが合わさっていった。自身が“偶然”この地を選んだのではないこと。教授が手渡した文献、夢に現れた巫女の姿、そして布留姫の封印された儀式——それらすべてが、一本の道に繋がっていた。


 咲夜の身体に流れるもの。それは、現代の学生という立場の奥に沈んでいた、太古の記憶だったのかもしれない。その確信は、しかし、同時にひどく苦しいものでもあった。


(もし……このまま現代に戻れなかったら?)


 大学の友人たち、東京の暮らし、街の音、カフェの灯り。そうした日常のすべてが、まるで遠い過去の記憶のように、手の届かぬ場所へと霞んでいく。咲夜の中に、生きる世界がふたつに裂けていた。けれど、その裂け目の中で、彼女は答えを探していた。


(私にしかできないことがある。もし、あの祈りが、この土地の誰にも届かぬのなら——)


(ならば私が、最後まで、それを祈り抜くしかない)


 その瞬間、咲夜の中で、何かが静かに決まった。受け継ぐのではない。模倣するのでもない。布留姫が果たせなかった祈りを、「いまを生きる者」として成し遂げる——それが、咲夜に託された「生」の意味なのだと。


 それは、月のない夜だった。咲夜は静かに床に伏しながら、目を閉じてもなかなか眠れずにいた。外では風が唸り、木々の葉がこすれ合う音が、まるで何かを告げる囁きのように続いていた。


 意識がようやく深く沈んだその時、再び、あの夢が訪れた。白い霧の中に、布留姫は立っていた。以前と変わらぬ白装束に身を包み、その姿はまるで風の中の花のように儚げだった。けれどその目は、はっきりと咲夜を見据えていた。


「私の祈りは……まだ、終わっていないのです」


 その声は、静かだった。けれど、咲夜の胸の奥にずしりと沈むものがあった。


「私は……神の声を抱きすぎて、人に還る道を閉ざしました。けれど、あなたは……人のままで、私の祈りを終えることができる」


 布留姫はそっと咲夜の手を取った。その手はやはり冷たく、けれどやわらかで、まるで薄氷のように壊れやすい存在だった。


「あなたは……私の声を聞く者。ならば、どうか——私の代わりに、神へ祈ってほしい。私の声の、最後の一滴を、あなたの言葉で」


 咲夜はうなずくことも、言葉を返すこともできなかった。ただ、その瞳の奥に宿る痛みを、静かに見つめていた。


 夢から醒めた朝、空は晴れ渡り、雲一つなかった。咲夜は装束を整えると、自らの意思で神前に立った。村人たちが見守る中、緊張と静寂が場を包む。咲夜は、ゆっくりと口を開いた。


「……私が、浄解の儀を行います」


 その言葉が空に響いた瞬間、どこからか、風が吹き抜けた。高く澄んだ空の彼方から、一羽の白い鳥が舞い降り、咲夜の頭上を弧を描くように飛び回った。神職たちは、息を呑みながら天を仰ぎ、やがてひとりがつぶやいた。


「神が……応えられたのです」


 咲夜はその言葉に、静かに目を閉じた。胸の奥に宿る布留姫の記憶はもう、痛みではなく、祈りとして溶けていた。今や、彼女はもう、ただの現代の少女ではなかった。神の声を聞き、かつて祈りを果たせなかった巫女の想いを受け継ぎ、神と人の間に立つ者——


 咲夜は、自分がこの地に「選ばれた」ことを、静かに、確かに、受け入れていた。


 祠の中は、思いのほか広かった。外からは想像もつかぬほど奥行きがあり、柱も梁も苔ひとつ生さず、どこか時間の流れから切り離されたような静けさに包まれていた。咲夜が一歩、また一歩と奥へ進んでいくと、周囲の光がゆっくりと揺らぎ始めた。


 その中央に、白い姿が現れる。


 白装束の袖が風もないのに揺れ、長く流れる黒髪が背に落ちる。かすかに足元を滑るように立つその女は、間違いなく——布留姫だった。咲夜は声を失い、その場に立ち尽くした。姫の顔は静かで、けれどその瞳には深く沈んだ涙の光が宿っていた。


「……ようやく、来てくださったのですね」


 布留姫の声は、風のように柔らかく、胸の奥をなぞるように響いた。怨みでも嘆きでもなく、ただ淡々とした祈りのような声音だった。


「私は、神に声を返すことができなかった者。だから、この祠に囚われ続けています」


 咲夜は、ゆっくりと布留姫に近づいた。そして、差し出されたその手に、自らの手を重ねた。ひんやりとした掌。その冷たさは、悲しみではなく、深く静かな時間の流れを感じさせた。


「……あなたの願いを、今度こそ果たします」


 咲夜の言葉に、布留姫は小さく、でも確かに微笑んだ。


「ありがとう……。あなたは、生きたまま、それを為す者。私には叶わなかった祈りを、あなたなら届けられる」


 そう言って、布留姫は咲夜の両手を取った。そして、そのまま額を重ねるように近づき、低く、古い言葉で祝詞を紡ぎ始めた。


 それはどこか懐かしく、それでいて決して学んだはずのない言語。けれど咲夜の中に、その響きはするすると入り込んでいく。まるで、もとから自分の内にあった旋律を思い出すかのように。言葉の一つひとつが、心の奥に火を灯していくようだった。


 やがて布留姫の姿は、光の中に溶けてゆく。祠の奥には祝詞の余韻だけが静かに残り、咲夜の中には、それを正確に唱えることのできる記憶が、しっかりと根を下ろしていた。咲夜はゆっくりと目を開け、胸の前で手を合わせた。


 ——神へ祈る。その声を、人の世に返すために。


 咲夜は、布留姫から託された祝詞(のりと)の記憶を胸に、ゆっくりと中央の祭壇へ歩を進めた。そこには白布が張られ、神具が幾つも静かに並んでいた。玉串、鏡、鈴。どれも、時の流れを超えたように瑞々しい気配を放っていた。


 祠の中はしんと静まり返っていた。だが、空気の奥底で何かが蠢いている。そんな気配があった。咲夜が祭壇の前に立ち、深く一礼すると、指先にまで緊張が染み込んでいく。やがて口を開き、そっと祝詞の第一節を唱えた。


「……神明(かみあか)りの御柱に、風の声の届きし刻……」


 その瞬間だった。


 祠の空気が震えた。ぴんと張りつめたような空間に、見えざる波紋が広がる。神具が、淡く光り始めた。鈴の音が鳴ったわけではない。それでも咲夜の耳には、はっきりとした清らかな音が届いていた。


 咲夜の身体が、ほんのりと熱を帯びる。次第に、彼女の声は変わっていった。まるで自分の意思ではなく、身体の奥から言葉が引き出されるように、祝詞が流れ出る。


 「……御魂(みたま)よ、たゆたふことなかれ……此の身をもて、(かえ)(たてまつ)る……」


 古語。それは、彼女が学んだどの文献にも載っていない、知らぬはずの響きだった。だが、咲夜の声は揺らがなかった。祝詞の調べは神楽のように天へ昇り、音のひとつひとつが空間を浄めていく。その声に応えるように、祠の梁が軋み、壁の絵が光を帯びて震えた。外の空気が一気に変わった。


 ごお、と風が吹き抜ける。


 夜泣き石が置かれた社の奥で、石の鳴動が響いた。最初はかすかだったが、次第にそれは地の底から突き上げるような震えとなり、祠の床まで揺らし始める。咲夜の足元を、白い火が這うように立ち上がった。それは炎でありながら、熱を持たず、ただ光だけを放っている。彼女の裾を舐めるように立ち昇り、祝詞の調べとともに神気を形作っていく。


 誰の目にも見えぬはずの存在が、今ここに降りてきている——咲夜にはそう確信できた。


 祠は、神の顕現を迎えつつあった。祝詞(のりと)の最後の一節が、咲夜の唇からこぼれ落ちるようにして発せられた。空気が止まり、時間がわずかに引き延ばされたような一瞬——


 それは、確かにあった。


 突如、社の奥から低い音が響いた。地鳴りのようなそれは、まるで何かが長い眠りから目を覚ます音のようだった。咲夜が祠の扉を押し開け、外へと視線を移したその時——夜泣き石が、音もなく、真っ二つに割れた。


 その断面から、白く輝くものがゆっくりと姿を現す。それは、人のかたちをしていた。膝をつき、うつむくようにして祈る、ひとりの女の姿——布留姫だった。


 石でありながら、その輪郭はあまりに柔らかく、美しく、今にも動き出しそうな気配をまとっていた。その身体の中央から、淡い光が立ちのぼる。瞬間、風が里を駆け抜けた。重く垂れ込めていた空気が一気に流れ出し、山を包んでいた霧が、まるで手で払われたかのように晴れてゆく。


 山の麓、遥か遠くから——カーン……と、ひとつ、鐘の音が響いた。誰が鳴らしたのかはわからなかった。けれどその音は、はっきりと村中に届いた。神が、応えたのだ。咲夜はそっと、布留姫の石像に近づいた。手を伸ばし、冷たく滑らかな石肌に、両の掌を添える。心の底から湧き上がる言葉を、ゆっくりと、けれどはっきりと、口にした。


「これで……あなたは、自由です」


 その言葉に呼応するように、石像の周囲からふわりと白い光が舞い上がる。それは風に溶けるようにして空へと昇っていき、やがて見えなくなった。


 咲夜は、静かに目を閉じた。


 布留姫は、もうここにはいない。けれど、その祈りと魂は、確かに彼女の中に受け継がれていた。光の粒が、静かに舞っていた。祠の前に立つ咲夜の周囲を、淡くやわらかな光がゆっくりと漂い、時折、彼女の髪や頬を撫でていった。それは、風でも塵でもない——魂の気配そのものだった。その光の中に、布留姫の気配があった。


「あなたは、神に選ばれし者……」


 どこからともなく響いたその声は、もう悲しみに満ちたものではなかった。透き通るような静けさを纏い、まるで深い水面から立ち上る朝靄のように、咲夜の胸に染み込んでいく。


「されど、あなたはこの世に生きる者……人の世界に、祈りをつなぐ者……」


 咲夜はそっと目を閉じ、掌を胸に当てた。布留姫の想いと祈り、それを継いだ自分自身の存在を、今、はっきりと受け止めていた。その時、祠の奥——かつて夜泣き石が崩れたその先に、空間がわずかに揺らぎ始めた。


 空気が屈折するように、そこだけが霞み、にじみ、ゆらゆらと脈打つ光の裂け目が生まれる。見えない手で薄い膜が引き裂かれ、そこには、かすかに現代の風景が垣間見えていた。草のにおい、舗装された道、遠くに聞こえる電子音。咲夜には、それが自分のいた世界——戻るべき場所だとすぐにわかった。


「戻りなさい……」


 布留姫の声が、今度はとても近くで囁いた。


「神の道は、お前がこの世に在る限り続く。祈りを忘れず、声を継いでゆきなさい……」


 咲夜は、ゆっくりと一礼した。深く、そして迷いのない動作だった。祈りの力は、神に捧げるものではなく、人と人とを結ぶためにある——今の彼女は、それを誰よりも知っていた。光の裂け目に、咲夜は一歩、そしてもう一歩と足を踏み出す。その瞬間、辺り一面に、ひとひらの風が立った。柔らかな白光が彼女の姿を包み込み、やがてその身体は、祠の空間からゆっくりと、そして確かに消えていった。


***


 風が、そっと頬を撫でた。


 咲夜が目を開けたとき、そこには見覚えのある風景が広がっていた。苔むした石段、杉の木立、そして、時代に取り残されたような古びた祠——布留の里の、小さな山の中腹にある祠であった。あたりはすっかり朝の気配をまとい、鳥の声が淡く響いていた。陽の光はまだやわらかく、葉のあいだからこぼれ落ちるように差し込んでいる。けれど、咲夜は直感的にわかった。何かが、確かに変わっていると。


 空気が——澄んでいる。以前はひどく重苦しく、押し黙るようだったこの地の気配が、いまはどこか解き放たれたようにやわらかい。ふと、自分の装いに目を落とす。そこには、いつもの現代の服装があった。いつも通りのジーンズと、薄手のカーディガン。


 しかし——


 手の中には、一つの神具があった。銀に光る小さな鏡。背には古代文字のような文様が彫られ、掌にすっぽりと収まるほどの大きさであった。それは間違いなく、あの祠の中で布留姫から託された、神の印——現代に存在するはずのない、はるか昔の祈りの遺物だった。咲夜は、しばらく立ち尽くしたまま、何も言葉にできなかった。


(……夢、だったの?)


 だが、その問いには、もはや答える必要もない気がした。あの静けさも、涙も、祈りも、決意も——すべてが、手の中に残るこの小さな神具の重みとともに、確かに彼女の中に在った。


 咲夜はゆっくりと一歩、祠の正面に立ち直った。深く、静かに一礼する。祈りとは、言葉ではない。姿勢そのものが、想いのすべてを伝える。風がまた、やさしく吹いた。山道を下り、再び布留の里の集落へと足を踏み入れたとき、咲夜はすぐに、そこに流れる空気が以前とは異なることに気づいた。どこか、柔らかく、澄みわたっている。あの重く沈んだ、息を潜めるような沈黙は、もうどこにもなかった。代わりに漂っていたのは、春先の霧が晴れた後のような、清らかで静謐な気配だった。道端に座る老婆が、咲夜の姿を見つけ、ゆっくりと立ち上がる。


「……よう、戻られましたな」


 その声音に、驚きや戸惑いはない。ただ、すでにすべてを知っている者のような、穏やかな眼差しだった。


 咲夜は一瞬、息を飲んだ。


 彼女がいなかった時間はどれほどだったのか。そもそも、この村の人々は、咲夜が「どこにいたか」を本当に知らないはずである。それでも、まるで失われた何かが、ようやく「しかるべき場所に帰った」とでも言うような、満ち足りた静けさが、村の空気には漂っていた。老婆の言葉に、咲夜は答えることができなかった。ただ、小さく頭を下げた。


 村のはずれ、夜泣き石のあった場所に向かってみると、そこにはもう、あの苔むした石はなかった。代わりに、小さな祠がひっそりと佇んでいる。鳥居もない、木札もない、ただ祈りの場所として在るだけの簡素な祠。風が通り抜け、木々の葉を鳴らす。だが、あの夜のような泣き声は、もうどこにも響かない。咲夜は、胸の奥に広がる安堵とともに、そっと手を合わせた。


 それは、終わりではなく——ただ、ひとつの「区切り」。


 この里の長い時間が、ひとつの祈りとともに、静かに新しい節へと移ったことを、咲夜は確かに感じ取っていた。


 咲夜は東京に戻り、大学での日常生活へと復帰した。だが、心の奥には確かな“違い”が残っていた。通い慣れた通学路、にぎわう構内、談笑する友人たち。どれもが以前と同じはずなのに、彼女にはそれらがまるで薄い硝子越しに存在しているように思えた。音も色も、どこか現実味に欠ける。異界で見た光、触れた祈りの気配、それらが夢だったはずなのに、今のこの日常のほうが、どこか儚い幻のようにも思えるのだった。


 講義を受けながらも、ふと空を見上げれば、あの山里の霧や祠の気配が胸をよぎる。「現代」という名の世界に帰ってきたのに、咲夜の心はまだ、もう一つの“時の中”を生きているようだった。


 咲夜は「語られぬ巫女たちの記憶」という卒業論文の執筆を始める。巫女たちの祈り。誰にも知られることのなかった名もなき魂たち。その声を掬いあげる作業は、咲夜にとって言葉以上の意味を持っていた。


 ——これは、ただの学問ではない。これは、生きて伝える“祈り”なのだ。


 けれどその確信を口にすることは、今はまだできなかった。咲夜はひとり、目に見えぬ記憶を胸に抱えながら、誰にも知られぬ道を歩みはじめていた。


 夕暮れが差し込む研究室は、普段よりもいっそう静かだった。咲夜が提出した論文草稿の束を、古川教授はゆっくりと手に取っていた。書き込みは一切ない。ただ、目を通し終えた後、その手は小さく震えていた。


「……よく、書き上げたな」


 教授は、静かに言った。それは誉め言葉というより、何かを確かめるような呟きだった。


 咲夜は、思わず視線を伏せた。あの出来事を、論文の中では学術的言葉に変え、できるだけ主観を排して書いたつもりだった。けれど、読み取る者が読めば、そこに籠められた「真実の匂い」は隠しきれなかったのかもしれない。


「君は……やはり、選ばれたのだな」


 古川は、窓の外を見ながらぽつりとそう言った。


 その言葉に、咲夜は顔を上げた。


「……教授?」


 古川は一呼吸置いてから、机の引き出しを開け、小さな手帳を取り出した。それは、かつて咲夜に渡した、古い民間伝承の写本の出典元——彼が若い頃に訪ねたという、布留の里で記された個人的な記録だった。


「まだ私が三十代の頃だ。布留の里を訪れたことがある。もちろん、学術調査という名目だったが……」


 教授の眼差しは、遠い記憶を辿るようだった。


「そのとき、神主にこんなことを言われたよ。——“いずれ、祈りを果たせぬまま消えた巫女の血を引く者が、この里に呼ばれるだろう”とね。正直、そのときは、民間信仰にありがちな口伝の一つだろうと思った」


 咲夜の心臓が、どくんと鳴った。


「もちろん、誰のことかも分からなかったし、ただの儀礼的な言葉として受け流したさ。けれど、君が“布留”という地名に強く惹かれたとき……記憶のどこかがざわついた。偶然かもしれない。けれど、その偶然に、小さな必然の匂いを感じたんだ」


「……私の家系が、巫女の……?」


 咲夜の問いに、古川は静かにうなずいた。


「調べたよ。君の母方の家は、奈良の古い神社筋に連なっている。はっきりと記録に残ってはいないが、口伝では、ある“祈りの巫女”が神に仕えていたとされている」


 教授は少し笑って、続けた。


「だが、私は君に何も命じていない。導いたにすぎないよ。布留の名を口にし、古文を渡しただけだ。君がそこへ向かったのは——君自身の意思だ」


 咲夜は、言葉を失ったまま、神具の収まったカバンの中にそっと手を添えた。運命は、与えられるものではない。選び取ったその一歩が、祈りを導いたのだ。古川は目を細め、どこか懐かしげに笑った。


「君のような人が、これからの時代にも“祈る”という行為を残してくれるなら——私は、もう学者として悔いはない」


 咲夜は、自らの言葉を卒論の最後の一行に記していた。


 ——祈りとは、過去と未来を結び、人と人を繋ぐ行為である。


 その文字のひとつひとつに、布留姫の面影と、あの地で感じた神の気配が宿っていた。筆を置いたとき、不意に胸の奥がそっと震えた。


「……ありがとう」


 それは、耳ではなく、魂に触れる声だった。布留姫の、あの夢の中で泣いていた巫女の、確かなる最後の言葉。咲夜はゆっくりと顔を上げた。現代の東京、人工的な静寂の中で、彼女はなお、神を感じていた。かつて、祈ることは何か遠い行為だと思っていた。けれど今は違う。


 祈りとは、神に近づく術ではなく、遠く離れた誰かを想い、過去の声に耳を澄ますこと。それが、血と記憶を越えて、人の心を繋いでゆく。窓の外を見ると、一羽の白い鳥が、そっと舞い降りていた。羽音もなく、静かに佇むその姿は、どこかあの山里の風の色を映していた。咲夜は、そっと目を閉じる。


 そのまなざしには、もはや迷いはなかった。



神隠しものは、色々な物語が書けるのと思いますが、今回の神隠しは過去に戻って役目を果たした…のような話で書いてみました。

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