第9話:朝の調べと、ティアのひとり音楽会
夜が明けると、空気が変わる。
このダンジョンの“空”は人工のはずなのに、時間の流れとともに色合いが変化し、まるで本当の朝を迎えたように感じる。
俺は、いつものように温泉に入り、湯けむりを浴びながら目を覚ました。
不思議なもので、何日も外の世界と関わらずに過ごしているというのに、退屈どころか、日々の微細な変化に心が躍る。
今日の湯加減は昨日より少しぬるめだった。
昨夜ティアがそっと“温度調整用の魔法石”を設置してくれたらしい。
細やかな気配りが、こうして日々の中に滲み出てくる。
「……さて、そろそろキッチンで朝食の準備でも――」
そう思って湯を出ようとしたときだった。
どこからか、音が聞こえてきた。
ふわりと、風に乗るような、柔らかく優しい音。
カリンバと風鈴の合わさったような、癒しの旋律。
俺は思わず、足を止めた。
湯けむりの向こう、遠くから響いてくるその音は、まるで誰かの夢の中の声のようで。
そして気づいた。
「――ティアか」
音の出所は、《音楽室フロア》。
昨日、月光の下で語り合ったティアが言っていた。「明日、朝の音楽を作りたい」と。
その約束を、彼女はもう果たしていた。
音楽室の扉を開けると、まだ朝靄のように霞む空間の中、ティアが静かに立っていた。
彼女の手には、小さなハープのような弦楽器。
ダンジョン内で育てた魔樹の枝から削り出した、ティア自身の手作りだった。
彼女はその弦を爪弾きながら、そっと瞳を閉じていた。
一音、一音がまるで心の奥を撫でてくるような――
どこか懐かしく、温かく、そして少しだけ切ない。
それは、朝の祈りだった。
演奏が終わると、ティアは俺に気づいて微笑んだ。
「おはようございます、マスター」
「……すごい、よかった。まるで心が目覚めていくようだった」
「ありがとうございます。でも……まだまだです。もっと響く音を、見つけたい」
俺は頷く。言葉は必要なかった。
ティアは照れくさそうに頬をかきながら、弦楽器を抱えて座り込む。
「このダンジョンで暮らしてから、はじめて音を“自分のため”に鳴らせるようになりました。
誰かに評価されなくていい、誰かを納得させなくてもいい。
ただ、朝に合わせて、音を響かせる。こんな時間が、私には必要だったんです」
そのあとは、いつもどおりの朝食。
ポヨが元気よくパンを焼き、キノコ三姉妹が湯気の立つスープを運び、俺が果物とハーブでティーを整える。
そしてその食卓には、ティアの奏でた“朝の調べ”が残響のように香っていた。
「今日のパン、なんかおいしい……」
「それ、たぶん音楽の効果だと思いますわ」
「マスター、僕にも作曲教えてください! 『スライム讃歌第一章:ぷるぷるの目覚め』!」
「タイトル長いわ」
笑い声が響く。
ティアも、キノコも、ポヨも、そして俺自身も――
まるで心の奥が柔らかく解けていくようだった。
その日の午後、ティアは音楽室に一枚の石版を飾った。
そこには、彼女自身の手で彫られた言葉があった。
『響きは、心の居場所をつくる』
誰にも見せるためじゃない、誰かに残すためでもない。
ただ、今の気持ちを刻むために。
ティアは少しずつ、自分の“好き”をこの場所に置いていっている。
その姿が、とても誇らしく見えた。
夜。
俺は日記代わりに、キッチンフロアの片隅で一冊のノートを開いていた。
そこにはこう書き残した。
【第九日目:朝の音楽と、音がくれた静かな絆】
・ティア、初の自作演奏成功。
・ダンジョン内の空気が音に染まる不思議。
・“評価されるためではなく、自分のために作る”という感覚。
・今後、定時演奏制度導入を検討(ポヨの暴走に注意)
ふと見上げた先には、ティアがそっとハープを抱え、空を見上げていた。
彼女の音が、このダンジョンの“朝の顔”になっていく――
そんな予感がして、俺は静かに微笑んだ。
◇あとがき
今回はティアの成長と、自分の“音”を見つけるまでの静かなプロセスを描きました。
異世界スローライフは、物を得るのではなく、心を取り戻していく物語でもあります。
戦いのない世界でも、人は再生できる。
そんな穏やかな希望を、ティアの音楽に乗せて。
◇応援のお願い
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