第69話『ティアと“ねむりびと”の調律室』
ダンジョンの夜は、静かすぎることがある。
その夜も、風一つなく、欠片たちも息を潜めていた。
棚の“かえり道”は、昨日の余韻を残したまま音を鳴らさず、ただ、わずかに揺れていた。
ポヨは寝台で寝息を立てている。モグは厨房の裏で静かに酒の瓶を磨いていた。
そしてティアは――一人、調律室にいた。
カフェの奥深く、かつて“音の管理者”が使っていたと言われる小部屋。
そこは、欠片たちがまだ“声”ではなく“波動”として存在していたころの、記憶の保管庫でもあった。
ティアは古びた調律台に手をかける。
音叉、記録盤、風読み器、波調針――今では誰も使い方を知らない道具たちが、ひっそりと眠っている。
「……ここに、あったのね」
ティアの目の前にある、銀色の封筒。
それは、彼女が昔、このダンジョンに迷い込んだとき――自分自身が書いた“戻れなかった手紙”。
『見つけた場所が、ほんとうの居場所なら
ここで声を残そうと思う。
きっと、誰かが聴いてくれると信じて』
彼女は震える指で、その封筒を撫でた。
カフェの表に現れる前、ティアは“ねむりびと”と呼ばれていた。
迷宮に取り込まれ、帰れず、名前も忘れた存在。
音の渦に囚われ、自分の声さえ記録の彼方に流された“誰か”。
けれど、欠片たちに触れ、音に出会い、“ここ”にいるポヨとモグと出会ってから、ティアは少しずつ、失った記憶を取り戻しはじめていた。
「……この部屋が、最後の扉なのね」
彼女は調律台に向き直り、封筒を開いた。
中には、かつての自分が吹き込んだ音の欠片――調律記録盤が一枚だけ入っていた。
彼女はそれを、古い再生器にセットする。
――“ふぅ……きこえていますか……これは、眠れない声の記録です”
“もし、わたしがいなくなったら。だれか、これを見つけてください”
若く、かすれた声だった。今のティアよりも、ずっと幼く、切実で、震えている。
“帰ることをあきらめたわけじゃない。でも、ここで音を紡げるなら、それでもいいって、思ったんです”
ティアは目を閉じ、静かにその音を聴いた。
“もし、未来にあなたがいるなら。どうか、わたしの“いま”に返事をください”
「……返事を、してあげたい」
ティアは記録盤を止め、新たな盤を手に取る。
今度は、“いま”の自分の声を吹き込む。
「あなたが願った通り、私はここにいます。
音を紡ぎ、笑って、温かいお茶を淹れて、少しずつ、自分を取り戻しています」
「あなたが残してくれた声が、私の灯になりました。ありがとう。
これからも、ずっと――音をつないでいきます」
彼女はその盤を、“調律室の奥の棚”にそっと戻した。
朝、ティアはカフェのカウンターに戻っていた。
ポヨが起きてきて、ぼんやりと目をこすっている。
「おはよう、ティアさん……昨日、寝てたら……変な音が聞こえて……」
「変な音?」
「なんか……遠くから“ただいま”って聞こえた気がして」
ティアは微笑む。
「……それは、たぶん私の夢」
「夢の音だったの?」
「ええ。とても懐かしい夢。だけど、今は“現実”になったの」
モグがカウンターの奥から出てきて、三つのカップに温かい牛乳を注ぐ。
「……夢は終わって、朝になった。悪くない」
ポヨが大きく伸びをしながら、ぼそりと呟く。
「なんだか……今日は“始まり”のにおいがするね」
「そうね。昨日は“記念日”、今日は“再出発”。それも悪くないでしょう?」
ティアはカップを手に取り、優しく言った。
「おかえりなさい、“わたし”。」
そして――カフェの棚で、“調律”という名の欠片がひとつ、音を鳴らした。
“ちぃん”
それは、とても静かで、とても澄んだ音だった。
【第六十九日目:ティアと“ねむりびと”の調律室】
・ティアはカフェの奥にある“調律室”で、かつての自分の音声記録を見つけた
・かつてのティアは“ねむりびと”として迷宮に取り込まれ、ここで記録を残していた
・現在のティアはその声に返事を吹き込み、自らの存在を再確認した
・ポヨとモグは、ティアが“音を取り戻した”ことを無意識に感じ取っていた
・“調律”という欠片が音を鳴らし、カフェに新たな章が訪れた




