第67話『欠片の宴と、ひとくちのカステラ』
その日、ダンジョンの空気はどこか浮き足立っていた。
棚の欠片たちは、朝から少しずつ音を鳴らしていた。
いつものようにひとつ、ふたつと、静かなさざ波のようなリズムで。
けれど今日は――その音が、妙に軽やかだった。
「……なんだか、楽しそうだね」
ポヨがカウンターから棚を見上げながらそう言うと、ティアも頷いた。
「まるで、誰かの誕生日みたいですね」
「……誰か、いるのかな?」
「あるいは、“思い出してる”のかもしれません」
モグは早朝から厨房にこもっていた。
棚の空気が“ざわつく”ような日は、なぜか何かを作りたくなるらしい。
香ばしい匂いが奥からふわりと漂ってきていた。
ティアが覗きに行くと、そこには――
「……カステラ?」
モグは無言で一切れ、皿に乗せた。
ふんわりと焼き上がった黄金色の塊に、うっすらと砂糖の衣。
「……ひとくち、どうぞ」
ティアはそっと口に運んで――
「……ん、やさしい甘さ」
「昔……誰かが好きだった」
「欠片の誰かですか?」
「……たぶん。今日は……そういう日」
ティアはカウンターに戻り、欠片のひとつ“きさらぎ”の前にカステラの欠片を一切れ置いた。
ポヨが驚いたように声を上げる。
「えっ、欠片って食べられるの?」
「ふふ、違います。ただ……匂いでも、気持ちは伝わるかもって思って」
欠片“きさらぎ”は、ぽんと小さく鳴った。
それは、まるで笑ったような音だった。
昼過ぎになると、欠片たちはいっせいに音を奏で始めた。
ふだんは静かに間隔を空けて音を出すのに、今日は全員が、好き勝手に鳴いている。
音階もバラバラ、タイミングも不揃い。
けれど、まるで誰かが冗談を言って笑っているような――
あるいは、内輪だけで盛り上がる宴会のような、そんな賑やかさ。
「……これって、“宴”?」
ポヨが笑いながら棚の前でスケッチを始めた。
「きさらぎ、はじまり星、風渡、かえり道、ともしび……全員、今、喋ってるみたい!」
ティアはお湯を入れたポットを棚の近くに置いた。
「では今日は、特別なお茶を出さないといけませんね」
奥から持ってきたのは、封を切ったばかりの“星露紅茶”。
ダンジョンの深層でしか取れない“夜明け草”の葉から作られた希少なお茶だ。
それを淹れていると――欠片たちが、しん……と静まり返った。
ポヨが言う。
「みんな、匂い嗅いでる……?」
「ええ。欠片って、意外と五感が豊かかもしれませんね」
ティアは小さなティーカップを欠片ごとに並べていく。
もちろん飲むことはできない。
でも、それぞれの前に用意された香りの器が、“もてなし”の心を伝える。
その瞬間だった。
“かん、きぃん、しゃらん……”
音が、調和した。
バラバラだった旋律が、急に一つに溶け合う。
まるで、見えない合図があったかのように。
ティアが呟く。
「……合奏、です」
ポヨはノートを落としかけて、あわてて拾い直した。
「すごい……すごいすごい! 今、欠片たちが“乾杯”した!」
「……そうね。ティーカップを受け取った合図かもしれません」
音はさらに重なり合っていく。
銀のベルのような高音、木の実が落ちるような低音、雨粒が跳ねるような粒音。
それらが渦を巻き、宙に浮く。
音が、まるで星屑のように空中を漂い始めた。
モグが奥からゆっくりと現れ、無言で“カステラ”の大皿をカウンターに置く。
その手には、古びた銀のスプーンが握られていた。
柄の部分に、星の模様が浮き彫りになっている。
「……誰か、残していった」
ティアはそれをそっと手に取り、ふと気づく。
「これ……音がします」
スプーンを小皿に触れると――“ちん”と、まるで欠片と同じ音が鳴った。
欠片たちが、いっせいに反応する。
“とん”
“しゃん”
“ふぉっ”
音の波が、棚からカフェ全体へ広がる。
ポヨは泣きそうな顔で叫んだ。
「これ……これって、欠片たちの“ありがとう”だ!」
ティアも頷く。
「今日という日を、祝ってくれてるのかもしれません。もしかしたら、“記念日”なんでしょうね。……私たちにはわからない、欠片たちの」
モグが、ぽつりと呟いた。
「カフェができた日。……たぶん、そう」
ポヨとティアが顔を見合わせ、はっとする。
「えっ……じゃあ、今日は“最果てカフェの誕生日”……?」
ティアは思わずカウンターに立ち、手を叩いた。
「それなら、改めて言わなきゃいけませんね!」
「なにを?」
「“おめでとう”です、もちろん!」
欠片たちが、一瞬静まり返ったあと、また一斉に音を鳴らす。
“ぴん”
“とおん”
“しゃららら”
それは――明らかに、“笑っている”音だった。
【第六十七日目:欠片たちの宴と、ひとくちのカステラ】
・カフェ中の欠片たちが一斉に音を重ね、見えない“記念日”を祝っていた
・ティアとポヨは欠片たちに紅茶とカステラでもてなし、応えるような合奏が始まった
・モグが差し出した銀のスプーンは、かつてこのカフェが始まった証だった
・今日は“最果てカフェの誕生日”。欠片たちは“ありがとう”と“おめでとう”を音にして届けた




