第65話『欠片たちの“おやすみなさい”と、モグが見た夢』
その夜、カフェはいつになく静かだった。
昼の柔らかなざわめきが完全に消え、欠片たちの音すらほとんど聞こえない。
静寂が降りる――というより、静寂が“寄り添っている”ような空気。
ティアはランプを低く灯し、カウンターの端に腰を下ろしていた。
そっとカップを両手で包み、目を閉じる。
カモミールの香りが、熱を帯びて鼻をくすぐった。
「……今日は、欠片たちもおやすみみたいですね」
ポヨはその隣で、ノートの端に“休符”のような印を描いていた。
普段は音や光を描き込むページに、今日はただ静かな“間”だけを。
「ねえ、ティアさん。“眠ってる欠片”って、夢を見ると思いますか?」
「……夢、ですか?」
「うん。人間と同じで、“おやすみ”のあとは、なにか見てるのかなって」
ティアは小さく笑い、ポヨのノートを覗き込んだ。
「それなら……“夢の音”が、明日また聴けるかもしれませんね」
その時、棚の奥――ともしびのすぐ近く――で、小さな光が瞬いた。
音にはならない、けれど確かに存在する“揺らぎ”。
モグはすぐに気づき、棚の前に立った。
長く使い込まれた指先で、欠片のひとつにそっと触れる。
“とくっ”
まるで心臓の鼓動のような音が、ひとつだけ響いた。
「……起きてるやつも、いる」
モグがそう呟いた瞬間、棚の一角が静かに光を帯びた。
ティアとポヨが歩み寄る。
そこには、今まで名前のついていなかった、やや大きめの欠片があった。
色はくすんだ灰色、でもその表面には無数の細い線が走っている。まるで、割れ目のような――けれど、不思議と壊れてはいない。
「……この欠片、今日まで一度も音を出さなかったんですよね」
ポヨがノートの端を指さす。
確かにその場所は、ずっと空白だった。
「今……夢から目を覚ましたのかも」
ティアがそっと、その欠片に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、ふっと風が吹いたような感覚があった。
風はない。カフェの中、ダンジョンの最奥には空気の流れすら乏しい。
けれど、そのとき確かに“流れ”が生まれた。
「この欠片、風の記憶を持ってる」
ティアの言葉に、モグは小さく頷いた。
「昔……風の迷宮から流れついた。たぶん……何度も砕けて、それでも残った」
「だから……この傷は、記憶なんですね」
ポヨは欠片に“風渡”という名前をつけた。
名前を記した瞬間、欠片が微かに音を立てる。
“ふっ”
それは、風が草を撫でるときのような音だった。
「この音……好きです」
ティアが笑った。
「わたし、風の音って寂しいものだと思ってたけど……この子の音は、やさしいですね」
「きっと、寂しいときに誰かと出会った風なんだ」
ポヨの言葉に、欠片がまたひとつ“とくっ”と鳴った。
それは、誰かの返事のようでもあった。
その晩、ポヨは先に眠りについた。
ティアもランプを落とし、布をかけたままカウンターで微睡む。
そして、残ったのは――モグだけだった。
彼は静かに棚の前に立ち、欠片たちをひとつずつ撫でてまわった。
“おやすみ”を、誰よりも丁寧に言っていくように。
やがて彼は、自分の寝台の傍にある、古びた木箱を開ける。
中には――一枚の紙切れがあった。
そこには、かすれた文字でこう書かれていた。
『君がまだ、ここにいるのなら。私は、帰る道を探すよ』
それは、かつてモグが見送った“誰か”が残していった言葉だった。
風の迷宮から来た者――そして、風のように去っていった者。
モグはその紙を見つめたまま、棚に背を向け、目を閉じる。
「……夢を見るか」
彼がそう呟いたその瞬間、棚の欠片が――“風渡”が――微かに揺れた。
“ふっ”
まるで、記憶に語りかけるような音だった。
モグは小さく息をつき、そのまま横になった。
彼が見た夢は、かつてのカフェの姿だった。
まだティアもポヨもいない頃。
欠片の数も少なく、光はほとんどなく、ただモグともう一人――“旅の者”がいた。
その者はよく笑い、よく歌った。
そして、欠片に名前をつけ、物語をつけた。
モグはその人の背中を、黙って見守っていた。
けれど、ある日――その人はこう言った。
『君がこの場所を守ってくれるなら、私はまた別の迷宮へ行く。
でも、寂しくなったら……君の夢に出てくるから』
モグは夢の中で返事をする。
「……遅い」
『うん、でもちゃんと来たでしょ? だから、言わせて』
モグの隣で、その人が微笑む。
『“ただいま”』
夢の中で、棚が音を立てる。
“とん”
そして――モグが目を覚ましたとき、カフェの空気はほんの少しだけ暖かくなっていた。
【第六十五日目:風の記憶を持つ欠片と、夢の中の“ただいま”】
・欠片“風渡”が初めて音を発し、ポヨに名づけられた
・ティアはその欠片に“やさしい風の音”を感じ取る
・モグはかつての仲間の言葉を思い出し、夢の中で“ただいま”という言葉を受け取った
・朝、棚の欠片たちはいつもより暖かい光を灯していた




