第64話『ティアのいない午後と、モグが繕った椅子』
その日、ティアは朝から姿を見せなかった。
カフェの奥にある“風の回廊”――ダンジョンの吹き溜まりになっている静かな通路――に欠片を拾いに行くと、手紙だけが残されていた。
『少しだけ外に出てきます。夕方には戻ります。』
短い文とティアの柔らかい筆跡。
モグはそれを読んで頷き、何も言わずカウンターに戻った。
ポヨは、いつもティアが使っているカウンター奥の椅子を眺めながらぽつりと呟く。
「……ティアさんの場所、さみしく見えるなあ」
いつものティアの椅子は、背もたれの布が少し破けていた。
けれど本人は「このほつれが好きなの」と言って、直そうとしなかった。
ポヨはそのほつれを指先で撫でながら、そっと言った。
「ねえモグさん、この椅子、今日だけでも直してみませんか?」
モグはしばらく無言で眺め、それから作業用の箱を持ってきた。
二人で椅子をゆっくり分解し始めると、布の裏に小さなメモが挟まっていた。
ティアの字で、こう書かれていた。
『初めて笑った場所。誰にも言ってないけど、ここが私の始まり』
ポヨはその文字を見て、小さく目を丸くした。
「……ティアさん、ここで笑ったんだ」
モグはゆっくりと頷き、布を丁寧に取り外した。
午後、カフェには誰も客が来なかった。
けれどその静けさが、今日は少しだけやさしい。
まるで欠片たちまで、ティアの不在を知っているようだった。
ポヨは椅子の脚を磨きながら、小さく口ずさんだ。
「いつか、ぼくも……ここを“はじまり”って呼べるのかな」
「……もう呼んでると思う」
モグのその一言に、ポヨは顔を上げて微笑んだ。
椅子の背板には、小さな傷がいくつかあった。
ポヨがそれを指でなぞる。
「これ、ティアさんが倒れたときの?」
「うん。それと、笑ったときの」
「笑って、傷がついたんですか?」
「……そう。紅茶こぼして、慌ててぶつかった」
ポヨは想像して吹き出した。
「なんだか、ティアさんらしいなあ」
やがて椅子の修理が終わり、布も新しく張り替えられた。
けれどポヨは、最後にティアのメモを元の場所に戻した。
「これはここにあるのが正しいと思う」
モグも頷き、そっと背もたれを嵌め直す。
夕方、カフェの扉がきぃ、と鳴いた。
ティアが少しだけ汗ばんだ顔で帰ってきた。
「ただいま、戻りました」
ポヨとモグが立ち上がり、声を揃える。
「おかえりなさい」
ティアはカウンターに歩み寄り、椅子を見て目を見開いた。
「……あれ?」
「ちょっとだけ、お手入れしました」
ポヨが得意げに言う。
ティアは背もたれに触れ、小さく震えた。
「……ありがとうございます。でも、ほつれがないと、ちょっと落ち着かないかも」
「大丈夫です」
ポヨがにっこり笑う。
「中に、あのメモ入ってます」
ティアは一瞬驚き、それから、そっと頷いた。
「……見たんですね」
「はい。でも、それで良かったと思います」
ティアは静かに椅子に座り、目を閉じた。
「やっぱり……ここが、いちばん落ち着きます」
欠片たちが静かに光り、棚の奥で“ともしび”が小さく揺れた。
まるで“おかえり”をもう一度囁いているように。
【第六十四日目:ティアのいない午後と、椅子に戻った始まり】
・ティアの椅子の修理中、ポヨとモグは“始まり”のメモを見つけた
・それは、ティアが初めて笑った日の記憶
・夕方、ティアが戻り、椅子は変わらず彼女の場所として優しく迎え入れた




